爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「退職者の会」日帰り散歩 ー旧街道の合流点を巡る散歩ー

2020-07-25 15:42:45 | 日記

コロナ禍の中で久々の参加である。幸手市の散策については、昨年「思い出の街を訪ねて」(2019-05-13UP)に次ぐ2度目である。昨年と重複しないようにしたい。

梅雨空の中での東武日光線幸手駅を出発する。


駅前通りにある前回も訪れた「一色館跡と陣屋稲荷」を参詣。続いて向かいの横道から「天神神社」へ、天神神社の創建については明らかでないが祭神は菅原道真で、陣屋稲荷(一色稲荷)と関りがあり、一色氏によって創建されたものと伝えられ、一色氏館の鬼門に位置していたものと言われ、館の守護神であったと伝えられている。境内が広く大樹から古さを感じさせる。本殿を見て回っていると、氏子総代の方が本殿開けて見学、集会所にある子ども神輿も拝見させていただきました。 

さらに道なりに北に進み県道153号幸手久喜線沿いにあるのが満福寺(別名・幸手観音)である。創建は、戦国時代末期で一色氏の祈願所であったと言われています


さらに北に向かって歩くと幸宮神社がある。神社の名称としてはこれ以上の名はないのでは。幸宮神社には神職が常駐しています、天神神社の氏子総代の方が神主は幸宮神社にと言っていたが、近隣の神社を束ねているようです。創建は不明ですが400年以上の神社で明治時代以降に総鎮守となっています。奥の本殿は全面彫刻が施され、江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されている。彫刻は、上り龍・下り龍、四季農耕の流れ、獅子・鳳凰・鷹・松などが彫られている。


次は「田宮の雷電神社」だが、いままで北に向かう道なりに寺社が点在している。雷電神社は、中世の幸手の中心の神社で日本武尊の伝説ものこされている。幸手で最も古い神社の一つで、明治以前は幸手宿の総鎮守となっている。田の中に金色の雷神が落ち、これを祀り田の中の宮で田宮としました。雷神は水との関係が深く農家の人々の信仰を集めました。幸手の地名は、日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、「田宮の雷電神社」に農神を祀ったという言い伝えが残り、幸手の地名は、「薩手」(さって)に由来している伝えられている。

「田宮の雷電神社」を出て、大正新道(県道152号加須幸手線)から日光街道に入り聖福寺に。
聖福寺は、およそ600年前に創建されました。江戸時代、徳川家康のなきがらが日光東照宮に移されてから、歴代将軍が参拝する度に、日光街道の経路に当たる聖福寺が御殿所として将軍休息所の役割や例幣使の休息所に用いられました。その際通った唐破風の山、門が「勅使門」として残っていました、将軍と例幣使が使用しないときは閉ざされていたようです。


聖福寺を出て北に進むと日光街道が大きくカーブし、右手に「一里塚跡」碑と正面には正福寺があります。一里塚そのものは残っていません、単にこの場所に一里塚があったということのようです。中には入りませんが、正福寺は創建年代が不明のお寺ですが、檀林があったり多くの古文書仏像、書画が保存され、境内には道しるべがあり有名なお寺のようです。


午前中は、午後に雨の予報で、駅付近のお寺を駆け足で回り昼食のため日光街道を駅の方に、古い商家に歴史を感じながら、そば所「大村庵」に入る。

梅雨特有の蒸し暑さで予定の訪問先が遠い事を考え幸手駅西口のお寺を見学することに。私も幸手に住んでいたが行ったことがなく、住宅が少なく緑が多いイメージしかなかったが、徐々に宅地化しているようだ。
この地の開拓者親族の菩提を弔うため建立された「祥安寺」と頼朝と薬師如来の伝承がある「神宮寺」に立ち寄り幸手駅に。


午後の雨の予報も晴れて酷暑に皆さんグッタリ、おまけにマスク姿での散歩、喫茶店に2度も入り休憩。
幹事のMさんが出発前におよその散歩コースのコピーを渡してくれるが、この暑さで予定のコースを変更し幸手駅周辺にしてくれたが、それでも皆さんお疲れのようでした。


【その他のPhoto】

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする