爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

5年ぶりの胃検診

2017-06-28 16:37:06 | 日記

久々にバリュウムを飲みました。
懐かしい、この味・・・

ガン家系でいつも気にしてはいましたが、
やっと二次募集で市の検診を受けることに。。
ガンでの死亡率、TVでの報道で
ガン検診が多くなったか?

今まで職場の半日ドックを利用していたが
市の国保も補助制度が出来ないかな・・・

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新緑の深大寺から調布を巡る散歩

2017-06-23 21:55:18 | 日記

6月の「退職者の会」日帰り散歩は、深大寺を企画してくれた。深大寺は、いつか行こうと思いながらバスに乗らないと行けないとあって二の足を踏んでしまっていた。
幹事のMさんの話では、深大寺は三鷹か吉祥寺からバスとの事で、バスの本数が多い吉祥寺からのスタートとなった。
深大寺のある調布市は、人口23.4万人で国勢調査でも微増が続いており、大学も3校あるなど若者に人気のある地域環境豊かな市でもある。
調布市は、廃藩置県で約8村が合併した市で、市の名は昔の税の物納である「調」(その土地の特産物を納める)を布で納めていたことに由来しているそうである。それだけ調布市は、古い由緒のある街でもある。
深大寺は、東京では浅草寺に次ぐ古刹で「天台宗別格本山 浮岳山 深大寺」と言う。 別格本山とは聞き慣れないが、格式のある本山でもさらに格があり「総本山・別格本山・本山」となっており、NO.2のようであるが、今では宗教法人となり昔のような縛りはないでしょう。
寺史によると深大寺は、奈良時代・天平5年(733)水の神である「深沙大王」(じんじゃだいおう)を祀る寺として開かれた。
お寺と共に有名なのが「深大寺そば」である。「深大寺そば」の始まりは、江戸時代にさかのぼり、稲作には適さなかった土地で米の代わりにそばを作り、そば粉を寺に納め寺でそはを打ったと言うのが伝えられている。深大寺と蕎麦は切っても切れない関係で天下に有名になった。深大寺の周りには20数店舗のお店がありお寺の参道でこんなに蕎麦店があるのは珍しい。
お店の中に「鬼太郎茶屋」があった、作者の水木しげる氏はここ調布市が地元で、この地はTV「ゲゲゲの女房」のロケ地でもあった。

深大寺の南側から虎狛神社に向かうが、以外に高低差がある、この辺は武蔵野台地と多摩川低地で構成されており、比高が12mの所もあるようだ。
野川に出る、国分寺市が源流の多摩川水系1級河川である。梅雨の季節であるが水量が少なく川岸の草が多く、水がよどんでいた。清水も多く湧き、樹木も植えられ都内でも貴重な自然の残っている場所である。
野川沿いの佐須町1丁目に虎狛神社があった。
虎狛神社は、589年に創建され農業の神様を祀っている古い神社です。本殿は、1683年建立、1815年修復されたもので江戸時代初期の建築技法をとどめた建造物で極めて高度な技量がうかがえるとの事です。通常、無人の神社ですが当地の中心的な神社です。

次の祇園寺は、天平年間(729~749年)に深大寺と同じ満功上人によって開創された寺で「虎狛山 日光院祇園寺」と言い、虎狛神社と関係あり明治の神仏分離令により祇園寺から分離独立したのが虎狛神社である。平安時代から江戸時代の仏像や建築物が残されています。自由民権運動との関わりも深く、明治41年に自由民権運動家の慰霊祭・大演説会を挙行し、記念の板垣退助お手植えの「自由の松」がある。

祇園寺から甲州街道に向かって歩道橋を渡ると「国領神社」である。
国領神社は、鎌倉時代の創建と言われる。甲州街道沿いあり、本殿より立派な藤棚が目立つ神社である。この藤は、「ちょうふ八景」の一つで千年藤と言われている。藤は不二(無事)に通じ災厄を防ぎ延命、子産、商売繁盛の神木として名高い。

甲州街道を西に歩くと「布多天神社」がある、創建は不明であるが延長5年の「延喜式」に名を連ねており、多摩地方有数の古社との事、少彦名命と菅原道真を祭神としている。毎月25日の例祭、第二日曜日の「天神の市」では賑わうが、閑静で広い境内からは駅から近い神社とは思えない布多天神社である。

帰りは布多天神社の参道でもある天神通商店街を通り調布駅に、途中、「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎・一反もめん・ねずみ男などの飾りがありました。

梅雨の中の晴れ間で暑い一日でした、途中、ファミレスに立ち寄りながらの散歩でした。

【その他のPhoto】

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見沼通船堀はパナマ運河?

2017-06-13 23:04:14 | 日記

JR武蔵野線東浦和駅で下車する。この付近は、都心より25kmぐらいである、宅地化が進んでいるが、駅から5分ぐらい通船堀公園付近は田園地帯である。公園の脇を流れている川が見沼代用水西縁である。


この辺には、「見沼の笛」と言う伝説があり、「沼のほとりから美しい笛の音がし、それにさそわれるかのように若い男が消える事から、供養塔を建てたら笛の音がやみ、行方不明になる若者もなくなった。」との伝説である。

♦見沼代用水と通船掘♦
見沼代用水は、江戸時代(1728)に新田開発した灌漑農業用水で、取水は行田市利根川から、さいたま市、川口市、東京都までの流路であり、現在、見られるのは見沼田圃の保全のため土地利用の制限が設けられているこの一帯が一番である。
見沼代用水は、上尾市で東と西に分岐し開拓され、さいたま市緑区付近にて芝川(荒川水系一級河川)を挟み接近する。
この芝川を挟み東西の見沼代用水水路が造られ、通船堀として芝川とつなぎ、開拓地と江戸との交易を進めた。
見沼代用水と芝川の水位は3mあり、東西2カ所ずつ関を設けて調節し芝川に入りました。
調節方法は、閘門式といわれ関(水門)を設けて開閉により水位を調節し船を通していた、日本最古の閘門式で規模は違うがパナマ運河と同じである。現在の通船堀を見るととても船が航行したとは思えないが、川幅は現在とあまり変わりがないが、水量が多かったとの事である。
主に運んだ物は、年貢米でその他に薪・炭・酒・柿渋・野菜などが江戸に運ばれ、江戸からは肥料・塩・雑貨などが運ばれました。

♦水神社♦
水神社は、通船堀が開通した翌年の創建と伝わっています。荷物の積み下ろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに59カ所あり鈴木家周辺には河川輸送に携わる人たちの住まいがあり水神社は、そのような仕事をしている人の水難防止を祈願して祀ったものです。

♦鈴木家住宅♦
通船掘を歩き芝川に付近に鈴木家住宅がある、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣衛為永(開拓者)に従い見沼干拓事業に参加し通船掘の完成と同時に幕府からに「差配役」に任じられ通船業務をつかさどり各船に対する積荷や船頭の割り振りなどをおこないました。今で言う通運事業である。
 



この船は、模型で倍以上の大きさで江戸まで3日間かかったそうで
帆があるものの風のある日ばかりではなく潮の干潮満潮を利用していた、
また通船堀内では川の両岸に約10人づつ人夫を配置し船を進めたようです。

見沼通船堀の東縁も歩きましたが現在工事中でした。突き当りに小高い森の「木曽呂の富士塚」(川口市)があります。高さ5.4mあり富士山を模して造られおり頂上は火口のようになっている。国指定の有形民俗文化財に指定されており、富士塚としては古く埼玉県では最古と言われている。
 


このように通船堀は、この地域の交易に大きな役割をはたしてきましたが、車の発達と共に貨物輸送が自動車に移行し昭和初期には利用されなくなった。
 

【その他のPhoto】
 

 通船堀は、公園として整備されており、いまでは市民の憩いの場となっています。竹林がこれからの季節、涼しげです。休憩場所では猫が「まったり」と・・・
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うらわ美術館の「日本のポスター芸術」

2017-06-06 12:08:46 | 日記

私の実家は戦前より小売店を営んでいた。田舎のため商形態は「よろずや」今で言う「コンビニ」である。改築前は、店舗兼住居で住居の階段の所に数枚のポスターが貼っていた。いつから貼っていたのか不明であるが、子どもながら美人画風の古くさいポスターであったという記憶がある。
そんな昔の記憶を呼び起こすポスターの展覧会が「うらわ美術館」であった。
明治時代から昭和時代(戦前)のポスターなど85点が展示されている、ポスターを作られたのは明治時代からで、江戸時代にも商品名を書いた広告紙などがあったがそれは「引き札」と言われた。(お客を引くという意味があったようだ)商品の売り出し宣伝、店の開店披露などであるが、明治以降は印刷技術の発達によって「チラシ・びら」として配布される現在のような宣伝媒体となった。
展示物の中では、白鶴(日本酒)ポスターの「鶴模様の和服を着た女性」(M30-43)が最も古い時代のものの一つのようである。明治時代のポスターの特徴は、少しかしこまり黒髪をきっちり結い上げ唇を結び涼やかな眼差しで、人気芸妓がモデルとして多いと紹介されていた。大正時代は、美人画ポスターが大正ロマンの特徴である豪華絢爛で、北野恒富(挿絵画家として有名)、伊東深水などが描いたポスターもあった。その中では「赤玉ポートワイン」の「グラスを持つ半裸の女性」(大正11)は当時はセンセーショナルなポスターであた。昭和時代(戦前)に入るとモデルが舞台・映画俳優となり写真・イラストなど多様化してきた、カルピスのポスターは現在に通じるイラスト的なポスターで目を引く、この頃にはポスター用のカタログ見本や文字が図案化されてきた。時代とともにポスターの移り変わりがわかって面白い展示会であった。

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6・4 オール埼玉総行動 参加記

2017-06-05 21:41:08 | 日記

6月4日「安保関連法廃止!立憲主義を取り戻す!」オール埼玉総行動が北浦和公園で行われた。
政界の一強多弱、暴走政権・・・と言われ、今日の朝日新聞には『首相「保守強硬の私がまとめる」』の見出しがあった。このままでは行き着く社会は独裁である、アメリカのトランプ大統領、北朝鮮の金正恩委員長、日本の安倍総理、なにか共通点がある、私たちは先の大戦の反省から制定された憲法の理念を考える必要がある。

この子達が大人になる頃には、どういう社会になったているのだろうか?
平和の鳩は・・・

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