爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

旧公衆衛生院は見事に現役復帰(3) 港区立郷土歴史館編

2020-01-24 09:06:28 | 日記

港区立郷土歴史館は、以前、三田図書館に併設されていたが、旧公衆衛生院の左側の2・3・4階に展示されている。また、移転とともに有料となった。
各階の有料展示にはゲートがありQRコードのカード提示により入退出ができるシステムとなっていた。

出土品・伊皿子貝塚・江戸時代くらし・現代等をパネルやタッチパネル画像にて紹介している。なお、有料展示内については撮影禁止となっている。

2階にあるガイダンスルームとコミュニケーションルームについては、無料で入場できる。
コミュニケーションルームは、土器やクジラ・浮世絵原画が展示されている。室内には係員がおり説明してくれる。

 

 

 

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旧公衆衛生院は見事に現役復帰(2) 建物内部編

2020-01-23 11:27:38 | 日記

内部の見学は、2階中央ホールから始まります。このホールを中心に左右に弓状に建っている、外観は左右対象である。左側は郷土歴史館の展示スペースとして活用している。中央ホールは吹き抜け(2・3階)になっており天井はドーム状で回りが彫刻されている、ホール天井は間接照明でドームの柔らかさを出しています。この建物内部2・3階が一番豪華に造られています。床や壁に石材が使われ床の大理石は見事です。時計は電波時計ですがデザインは開設当初の時計を利用しています。

3階は院長・次長室がありますが2階ホール出入口の上にあたります。院長室は一番豪華に造られていてベニヤ板が使われているがペラペラのベニヤ板ではないと言ってました、厚手の今でいう合板なのでしょうか?当時はベニヤは豪華なんですね。  

右奥は現在、図書室ですが旧書庫です。書庫は時代を感じさせません。

※トイレの注意表示が面白い

此の便所は水便所であります

従って各自左記の要項を厳守して故障の為に使用不能にならない様にしたいと思ひます。  (横書きにしてます)

一 紙は柔らかい ちり紙を使用し硬い洋紙や丈夫な日本紙を使はないこと。

二 便器の中に煙草の吸殻・ぼろきれ其他管の曲った所をつまらせる様なものを捨てないこと。

三 用便の后に便器の前方にある把手を手を以て軽く下方に下げて水を出し足でこれをふむ様なことをしないこと。

 

4階は、中央が4・5階の吹き抜けとなっていますが、2・3階の吹き抜けと比べると装飾が見劣りがします。右奥に旧講堂がありました。ドラマに出てくる傾斜式の講堂で木質感があり梁がアーチ状になっており伝統・重厚な感じを受けます、消防法により講堂としての活用はできないため倉庫というを位置づけです。

6階は、女子寮となっています。公衆衛生を学びに来る保健師のために設計されました。
そのためなのか公衆衛生院の部屋の数は、300室以上あったそうです。

1階に降りると中央部の床が採光用プリズムガラス埋め込まれていました。これは、日の光が届かない地下一階は、当時の電気では明かりが足りず、外光を取り入れる工夫がされていました。右奥には旧食堂で現在はカフェがあります。

2階に上がり、現在はコミュニケーションルームとなっている旧図書室を見学し終了です。


1時間の説明していただいての見学でしたが、スゴイ!へ~!と感嘆することが・・・

 

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旧公衆衛生院は見事に現役復帰(1)  建物外部編

2020-01-21 15:48:49 | 日記

以前、訪れたことがある田町駅近くの「港区立郷土歴史館」が「旧公衆衛生院」の中に移転したことを知り建物についての興味もあり訪れた。
最寄り駅である白金台駅で下車する。東京大学医科学研究所付属病院の案内板が大きく目立ったが隣が「旧公衆衛生院」である。前の通りが目黒通りで交通量が多いところであるが、旧公衆衛生院の全体は見えない。通路を下ると建物の全体像が現れる、思わず、まだこんな偉容な建造物があったんだ!!まさに迎賓館や東京駅の建物と同じレベルである。
日曜日2時から1時間程度の説明会があり参加した。
設計者は、建築家・内田祥三氏で専門は建築構造学で防災、都市計画、文化財修復など業績を残し、1943年には東京帝国大学総長に就任、1972年には文化勲章を受章している。安田講堂も内田氏の設計であり、どことなく旧公衆衛生院と似ている。「内田ゴシック」といわれるデザインの建物を造ってきた。

内田ゴシックは、米国で広まったカレッジゴシック様式を基調とし本郷キャンパスに活かされている。

旧公衆衛生院は、昭和13(1938)年、米国ロックフェラー財団の支援・寄附のもと、国民の保健衛生に関する調査研究及び公衆衛生の普及活動を目的に国が設立し建築された建物です。構造は、鉄骨鉄筋コンクリート造、地下1階、地上6階、塔屋4階となっており建設は大倉土木(現・大成建設)でした。

公衆衛生院は、2007年に用途廃止となりましたが、2009年に港区立鞆絵小学校(1991年統合により廃校)敷地と等価交換により港区所有となりました。改修にあたっては、歴史的建造物の意匠を生かし、耐震補強やバリアフリー化等の改修工事をしましたが、改修工事のコンセプトは、「保存と活用」で、どこを改修したかが分かるようにしているそうです。外壁にわざと改修したところのスジを残したり、バリアフリーでカットしたところをわざと残したり、改修ヶ所の見える化をしていました。
2018年に大規模改修が完了し、現在は郷土歴史館他の複合施設として活用している。

【旧公衆衛生院 建物見学のご案内】資料・・・ゆかしの杜

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位置の基準として100年を超える「日本経緯度原点」訪れる

2020-01-20 18:40:35 | 日記

以前、憲政記念館付近の「日本水準原点」を見学した際、経緯度の原点はどこ?と疑問になったが、今日、行くことができた。
国土地理院によると、原点の場所が港区麻布台にあるとのことで地下鉄「神谷町」駅で下車し、ロシア大使館の裏を目指す。

☆寄り道☆ 西久保八幡神社 
歩いていると鳥居が見えたので立ち寄る。鳥居から急階段となっているが、左に坂がありこれが女坂なのだろう、上に上がると残念、工事中の囲いで社殿が見られなかった。創建は、寛弘年代(1004~1012年)で霞が関付近にあったものを太田道灌の江戸城築城の際に現在の場所に移転したようです。境内で縄文時代の貝塚が発見されたそうです。

☆寄り道☆ 雁木坂と狸穴坂
八幡神社の隣に霊友会ビルがあり、その前に「雁木坂」の説明標識がありました、坂というより階段でした。階段になっている坂を一般的に雁木坂というそうで、敷石が直角に組まれていたことから言われているようです。(雁が斜めに並んで飛ぶ様子から?) 階段を上がると、また、説明標識がありそれには「狸穴坂」とありました。「まみ」とは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔、その穴が坂下にあったという。(採鉱の穴であったという説もある)

ロシア大使館前は、警察官の警備が厳重である、アメリカ大使館も同じであるが、日常的に警備をしている。こんなに厳重にしないといけないのかと思う。ロシア大使館の脇の道を歩くと隣に東京アメリカンクラブという建物があった。ロシアとアメリカが隣同士というのも皮肉なものである。東京アメリカンクラブは、1928年設立の会員制社交クラブのようです、今は、アメリカ人だけではないようです。

突き当りがアフガニスタン大使館であるが、その前が目的の「日本経緯度原点」である。何でこんな空き地にと思う場所でした。水準原点は、かつて陸軍省参謀本部陸地測量部の場所でしたが、ここは??
1874(明治7)年、海軍水路寮がこの地に観象台をつくり、天文観測を開始、1888(明治21)年には内務省地理局天象台と東京帝国大学天象台と合併し、東京帝国大学付属の「東京天文台」が発足。1923(大正12)年の関東大震災後は、復興事業による市街化の進行とともに天文台の観測に適さないため移転し、太平洋戦争後は敷地の管理が現在の国土地理院管理となりました。

仕組み?   国土地理院の資料抜粋 
  ※小生の理解度では説明がつかないので・・・

私たちが日頃お世話になっている地形図・デジタル地図などは、2ヶ所の原点が基準になっている。兵庫県明石市の日本標準時を定めた根拠である東経135度の子午線も「日本経緯度原点」からの基準であり、地図上の基準点ではない。
現在の原点の経緯度の数値は宇宙技術を使い数値化している、平成23(2011)年の東日本大震災の地震による地殻変動も数値化し改定されている。

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浅草名所七福神を巡る散歩

2020-01-14 11:50:31 | 日記

「退職者の会」日帰り散歩、2020年のスタートは、浅草七福神巡りを企画してくれました。1月8日の予定が10日になりました。幹事のMさんの案内ハガキには『浅草名所(などころ)は九社寺あり、「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九となす。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによります。』とあった。勉強不足の小生には???の部分があるが・・・

現在の七福神巡りは江戸時代から定着したようですが、数多くの七福神巡りの中でも浅草の七福神巡りは歴史もあり多くの方々が参拝してきたコースとなっています。

まずは寄り道をしながら浅草七福神(9社寺)巡りに。
スタートは、浅草寺・浅草神社から。浅草寺は、大黒様である。大黒天像は、本堂左手にある影向堂(ようごうどう)にある。中に入ると左手に真っ黒な大黒天が置いてあった、浅草寺はあまり七福神を感じられないお寺でもある。浅草寺の周りには、お堂や記念碑・像が多くあるので見て回るのもよい。

前の「退職者の会」日帰り散歩の際に立ち寄った銭塚地蔵堂は、新しくなっていました。

本堂の裏手から浅草神社に入る。浅草神社は、恵比寿様をお祀りしています、都内最古の神社で江戸三大祭りの一つである三社祭りでも有名です。祭神は浅草寺の本尊となる観音様を引き上げた檜前浜成・竹成兄弟と観音様をお祀りした土師真中知を祭神としています。

浅草寺・浅草神社から大根をお供えすることで有名な待乳山聖天に入る。ここは時代小説「鬼平犯科帳」・「剣客商売」の池波正太郎生誕の地でもある。寺院の部分だけが小高い山となっているが古くはこの辺は泥海で隆起したと伝わっています。宗派は聖観音宗で浅草寺と同じで支院となります。毘沙門天をお祀りしています。

☆寄り道☆   本龍院・・・銅造宝篋印塔(どうぞうほうきょういんとう)
銅造の宝篋印塔は全国的にも珍しいそうです

さらに北に歩くと、若い女性?に人気があり、招き猫発祥の地の神社「今戸神社」に入ります。元は今戸八幡と言われた神社で関東武士の信仰の深い神社で、境内には「沖田総司終焉の地」の碑がありました。七福神は福禄寿をお祀りしています。

☆寄り道☆   出山寺・・・「其角の句碑」・「采女塚」
・其角は、芭蕉に入門し早くから頭角をあらわし、焦門十哲の第一人者とされた。                     

・采女塚は、遊女「采女」と若い僧侶の悲恋の供養塔。 

☆寄り道☆   お化け地蔵・・・高さ3mあまりの笠をかぶった細いお地蔵ですが、お化けと言うのはかぶっている笠が向きをかえたからと言われています。

次は、さらに北にある橋場不動院である。この神社、関東大震災、東京大空襲などの災害で周りが被害に遭うがここだけは免れたことから霊験あらたかということで知られてます。災害の多い近年、何はなくともこれが大事です。

ここまでで5社寺を回ってあと4社寺です、寄り道をして7社寺でなく9社寺を回るのは大変です。

隅田川沿いに歩いてきたが右手に工事中の白髭橋、左手に寿老神が祀られている石浜神社に。新しい感じの神社であるが、724年に鎮座された神社で、源頼朝も戦勝祈願にお参りしたといわれます。祭神は天照大神、豊受大神という伊勢神宮の神様をお祀りしています。ここからは浅草に戻るようなコースとなり吉原神社を目指します。

☆寄り道☆  平賀源内墓・・・江戸中期に本草学者・地質学者・蘭学者・医者・俳人・発明家と多彩な活躍をした平賀源内は、安永8年(1779)に殺傷事件により小伝馬町の牢内で病死した。当初、総泉寺に墓石があったが寺が移転し平賀源内の墓石だけが当地に残った。

☆寄り道☆  春慶院・・・吉原の「高尾大夫墓」仙台の大名とのロマンスのあと惨殺され、仙台候により墓石が建てられたと言われている。 

☆寄り道☆  東禅寺・・・江戸六地蔵の一つがあるお寺である。名称は、「銅造地蔵菩薩坐像」で、深川の地蔵坊正元が病気平癒に感謝し造立を発願し、多くの人々の浄財を江戸市中六ケ所に勧請した。
東禅寺入口左には老夫婦の銅像がありました。このお寺にお墓がある、銀座「木村屋総本店」の創業者、木村安兵衛・ブン夫妻の銅像でした。

 
吉原神社は、吉原遊郭が誕生する前からこの地に鎮座していた稲荷神社5つを合祀した神社である。遊女等の信仰を集め女性の様々な願い叶える神社と言われます。七福神は、唯一女性の神である弁財天を祀っています

吉原神社から少し離れた所に吉原弁財天本宮(吉原神社奥宮)があります。こちらも小さい境内で、ゴツゴツした岩山の上に観音立像が乗ってます。プレートには「大震火災殉死者追悼記念碑」とあります、大震災の火災にて多くの遊女などが池で溺死する出来事がありました。奥に行くと小さい鳥居と社殿があり、社殿はカラフルにペイントされていますが、東京芸術大学の学生の手によるそうです。境内には掲示板があり、吉原の歴史が掲示されており吉原を知ることができる。


吉原神社の近くにあるのが鷲神社です。鷲神社は、寿老人を祀る神社ですが七福神より「酉の市」発祥の神社として有名です。社殿には「なでおかめ」という大きな「おかめ」があり、撫でるとご利益があると伝えられています。

最後の矢先稲荷神社は、福禄寿である。武術興隆の目的で京都三十三間堂と同じものを今の地に建てました。名である「矢先」の由来は、堂の廊下で「通し矢」が行われ、的先にあった神社で「矢先」と呼ばれた。本殿の天井には日本馬術史の100人を描いた絵が天井にある。


10日とはいえまだ「松の内」であり多くの方が参詣していた。七福神巡りをしているとお寺だったり神社だったり日本の宗教が神仏習合であることがわかる。七福神そのものがインドや中国から入ってきたものものあり、あとで祀ったのではないかと思う点もあるが、何はともあれ庶民の願い事を受け止めている。

今回「浅草七福神巡り+寄り道」で単なる七福神巡りでなく、いろんなことを知り、もっと知りたいこともありました。

今年はいいことあるかな・ ・ ・

多く回り、皆さん疲れ、コーヒーブレークしたいがなかなか参加者8人入れるところがないものである、大きい通りに出てハンバーガーショップで一服し帰路に。


【その他のPhoto】

 

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