爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

2年ぶりの「ドジョウの会」でライトアップの旧古河庭園へ

2017-05-22 21:01:27 | 日記

最後に勤務していた職場の「ドジョウの会」の幹事Iさんからメールで島根県に転居したFさんが東京に来るので「ドジョウの会」の企画の連絡があり行くことに。
東洋文庫ミュージアムで時間を過ごして待ち合わせ場所のJR駒込駅へ。駅隣の染井吉野桜記念公園に立ち寄る。待ち合わせの2時になり、Iさん、Tさん、Fさんが現れる、参加は4人との事、若い方は子育て、忙しい時期で参加は無理で結局、爺と婆(失礼)の4人となってしまつた。遅い昼食のため定食屋に入る、ここでもアルコールが進み女性は元気である。ライトアップには早いが庭内に入る庭内を一巡してもまだ陽が落ちないため、お茶を飲んで時間をつぶす為一旦出る。再度、入場した時間にはライトがついていた。Fさんがバラより人の方が多いと言ったがその通りである。桜や紅葉のライトアップは綺麗だが、バラだと見劣りがする。バラと建物の構図を考えたが光量不足で良い写真が取れなかった。

 

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東洋文庫とオリエント・カフェ

2017-05-22 19:36:00 | 日記

勤務していた職場の「ドジョウの会」からのお誘いに早めに家を出て、東洋文庫ミュージアムに立ち寄る。なぜ東洋文庫ミュージアムなのか?  新聞に掲載されていた「ナマズが暴れた!? 安政の大地震展ー大災害の過去・現在・未来」の企画展と同じ敷地内にあるレストラン「オリエント・カフェ」(小岩井農場)で食事をする事である。
図書館・研究所・ミュージアムとしては知名度の低い地味な感じですが、歴史は古く1924年に三菱財閥の岩崎久弥が中華民国の顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する文献を購入し、井上準之助蔵相を理事長に、民間の図書館兼研究所である東洋文庫を設立した。現地文献については三菱の海外拠点網を生かし組織的な収集をおこない日本有数の蔵書点数(95万点)5件の国宝、7件の重要文化財を所蔵している。
ミュージアムは、付属施設であるが2011年に開館された。
災害の記録が意外にも古い文献に記載されていたのには驚きである。古事記、日本書記、絵本、浮世絵など古くは単なる記述であるが江戸末期の「安政の大地震」の際には、原因と考えられていた「ナマズ」が描かれていた。ナマズの根拠が分からないが、現代でもナマズ云々が語られるが当時は相当流布されたか?

 ※日本書記に書かれている416年頃の地震が記録上はこれが初めて。

 ※隋書(7世紀頃)の中にも日本での火山噴火が記載されている。

 ※方丈記には、京都での大火・竜巻・飢饉が書かれている。

 ※民間備荒録には、日常的な備蓄方法や食料となる植物の栽培方法、食べられる

   草木と食べ方、中毒の治療方法が書かれている。

 ※安政見聞誌は、数ある安政大地震に関する地震誌の代表。

  被害状況や当時の瓦版を収録。流言・奇談まで含むルポルタージュ、挿絵を取り

  入れられていて地震災害情報の集大成でもある。

 

 ※東京駅丸ビルの中にも、小岩井農場のレストランがあるが、このお店も人気があ

   るようです、小岩井農場は同じ三菱Groupで高級感のあるレストランでお薦めで

  す。、

災害は、古い時代から文献等に記述等されてきたが東日本大震災や熊本地震で多くの犠牲者、損壊など、いまだに被害は大きい、会場には熊本地震の展示もあり先人に災害と復興を学んでいかなければならないが、新たに原子炉の災害も出てきてしまった

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「退職者の会」の総会

2017-05-21 12:23:11 | 日記

今年も年1回の総会が終わった。1年間の経過報告・会計報告・運動方針&行事の報告の後、お互いに近況を語り、また元気で来年の再会を願って閉会しました。
展示コーナーでは、旅行写真・絵手紙・人形製作など・・・いつもながら皆さんの趣味には感心させられます、特に女性は「水を得た魚」のような活躍である。

役員や有志が、会場・買い物・調理を分担・・・

退職者にとって、家でゴロゴロは禁物・・・

 

 

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春日部の寺社や古木を訪ねる散歩

2017-05-14 16:51:53 | 日記
5月の「退職者の会」の「日帰り散歩」は春日部である。人口232,372人で埼玉県第7位、東武スカイツリーラインの沿線では越谷、草加市に続くが東部地区では埼玉県の地方庁舎があるなど中心となる春日部市である。国勢調査では2010年から人口減少もみられる。市名は、粕壁から昭和に入り春日部に表記変更された。
春日部駅集合で雨が心配されたが、自他ともに「晴れ女」のNさんの参加で「大丈夫だ!」と9名で駅前の道を進む。
歩いてすぐの所に小さな神社があった。粕壁神明社(1781)で元々は、個人持ちの社であったが、宿場の守り神として多くの人々の信仰を集めるようになった。    
さらに駅通りを進んだ所に春日部の観光案内所「 ぷらっとかすかべ」があり立ち寄って観光パンフレットを頂くが案内所には春日部市の名産品なども紹介していた。
 
「ぷらっとかすかべ」を出て、春日部市郷土資料館に向かう途中「加藤楸邨旧居跡」の案内板があった。俳人・国文学者の加藤楸邨は、結婚後に現在の県立春日部高校の教員となり、そこで水原秋桜子と知り合い師事、「馬酔木」に参加し頭角をあらわした。
春日部市郷土資料館が入っている「春日部市教育センター」には、一度、研修で来館したことがあったが、資料館については気が付かなかった。春日部市の古代から近代まで展示されている、特に「粕壁宿」のジオラマはよくできていた。
 
 
資料館から旧日光街道に出て東陽寺に入る、このあたりが脇本陣になるらしい。東陽寺は、「奥の細道」の旅で最初に粕壁に宿泊した寺で、境内には松尾芭蕉の記念碑があり、弟子の曽良の随行日記の一節「二月廿七日夜カスカヘニ泊ル江戸ヨリ九里余」刻まれている。春日部市は、日本橋より35Kmぐらいで一同昔の人の健脚ぶりに関心。
 
交差点近くの八坂神社と東八幡神社と回る、八坂神社は粕壁宿の市神で祭礼は「春日部夏祭り」の起源となってます。東八幡神社は境内には御神木で樹齢約600年の「東八幡大けやき」また「三ノ宮卯之助の力石」なる石がありました。江戸時代に力持ち日本一になった卯之助(越谷市在)が八幡神社の興行の際に持ち上げた記念の石との事。100貫目(375Kg)を持ち上げたのだろうか?。
 
 
昼食の時間となり、Sさんの今日の占いでビビンバが良い?との一言で韓国料理店のビビンバ定食を食べる。昼食後は、碇神社へ向かう、碇は船の碇との話で県指定の天然記念物である「イヌグス」(学名:タブノキ)の木があり、大落古利根川を航行する目印になった木でした。樹木名「イヌグス」は初めて聞く名であるが、南方系の樹木でこの辺が北限らしい。碇神社は、名主の敷地内にある屋敷稲荷ですが、面影がないほど変わってました。
 
 
旧日光街道に戻り、「道しるべ」「問屋場跡」「商家の蔵」を見ながら、古刹「最勝院」に入る。
 
 
春日部重行が南北朝時代に武勲により地頭に任命され、遺骨が長男によって最勝院に埋葬された、春日部の祖とされる。
 
この辺は寺町と言われ真言宗智山派のお寺が多く、隣の成就院、玉蔵院と回る。成就院には、粕壁宿の名主で古利根川の洪水を防ぐ堤防を築いたり、災害にあった人々に救くった見川喜蔵の墓があります。                               
 
 
踏切を渡り春日部駅西口に、駅前には秋葉神社の「夫婦松」がありました。この「夫婦」は、よく見ると松の木とイチョウの木の夫婦で、地上1mぐらいの所から分岐していました。もともと秋葉神社は、ここにあったが駅前開発で神社が移転し御神木だけが駅前に残されました。
 
これにて散策を終了、時折、小雨が降ったりやんだりでしたが、スッキリした街並みに「いいネ」、無電柱化を推進しているからなのか、広く感じました。
旧日光街道の粕壁宿ということで古い蔵等が見られたが、名主の家、商家など中まで見学出来るところが少ない感じがした。首都圏で保存・維持は難しいかもしれない。
 
【その他のPhoto】

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「生涯学習都市宣言」の八潮市

2017-05-07 12:22:53 | 日記

埼玉県南東部に位置する八潮市は人口8.8万人である。昭和31年に南埼玉郡潮止村、八条村、八幡村が合併して八潮村となり昭和39年に町制施行、昭和47年に市制施行された。
市名は、八条・八幡村の「八」、潮止村の「潮」を併せて八潮とした。
草加市との結びつきが強く、警察、消防は一つの行政管内となっている、交通も草加駅(東武スカイツリーライン)とのバス路線があるが「つくばエクスプレス」の八潮駅が平成17年に開通し鉄道網が無かった八潮市にとって、新たな交通網となった。
平成3年に埼玉県で初の「八潮市生涯学習都市宣言」が市制20周年に宣言された、全国的にも早い宣言のようである。
平成元年に完成した「八潮市郷土資料館」は、その宣言の中核となる施設と言える。展示室、学習室、ホール、会議室等を備えている。常設展示室では、水と生活してきた八潮の歴史が出土品、復元品等により展示されている。

  ※玄関の脇に「水と生活」の碑があった
八潮市は、東に中川、西に綾瀬川が流れる中川低地に位置し、先祖が自然との共存、特に川との恵み、闘いをしてきたが、近代化、都市化の中で基盤整備され生活も変化し、先人たちの労苦を後生に残し更なる発展の思いがこの石に刻まれている。

   ※大きな石が展示されていた、昔は鉄が貴重なため、碇の代わりをしていた。

 ※染め物

この辺(八潮市・草加市・越谷市)の地場産業でもある。県の無形文化財に指定され浴衣の柄染めなどを行う長板中型の作業工程の展示コーナー、浴衣の柄染めなどを行う注染の道具類を展示している。

 ※伝馬船

中川や綾瀬川を肥料や野菜を積んで往来した6分の1の木造船や補修を行う船大工の道具、白玉製造工程のパネルといった近代以降の八潮市域の水との共存に関わる展示をしています。伝馬船はまさにリサイクルに大きい役割をはたしました。

 

郷土資料館の横に旧藤波家住宅(八潮市指定文化財)があります。
藤波家は、この地の開発名主で、かつては横堀に囲まれた3,960㎡の土地で現存する主屋、庭園の他、米蔵、文庫蔵、物置などの建物も付随していました。現在の主屋は、明治9年の建築です。この建物は、元資料館の場所にあったようで移動したとのことです。

※式台のある名主住居で、明治時代に建て替えられましたが、名主住居の特徴が出ています。

※天水甕
沖積地における堀井戸の場合、井戸水に鉄分が含まれ飲料水に適さない井戸が多く、そのような家では、天水(アマミズ)を甕に貯え飲料水として用いた。雨量が多いときは水が濁らずきれいであったが、日照りが何日も続くと水がよどみ、ボウフラがわいた、そのような場合、甕の脇を叩きボウフラをしずませて柄杓で油膜を除き汲みあげたそうである。

※土間には、水害のための舟、米俵が吊り下げてあった。この地域が川の氾濫が多く、名主は舟や備蓄米を用意したようである。

※奥座敷の床の間にある木の兜は継ぎ目がなく、1本の木から造られた。

※奥座敷は、書院風造りで、床の間:違い棚・付書院を設けている。付書院には、組子障子、透かし彫りなど手の込んだ細工が見られる。

※初期のパンフレットは、移動する前でゆとりがあるが、その後に現在の資料館が建てられた。

※土間の天井は、竹の簀の子天井で梁を隠している、明治時代ならではか。

※門の脇に、カメと柄杓を持った像があった。いわくがあるかもしれない・・・

※旧藤波家住宅は、平屋であるが箱階段があり天井が物置となっているようだ。江戸時代の建物と違い収納部分が多くあるように思える。

八潮市には、古民家が3カ所あり、和井田家住宅についてはブログにて紹介をしたが、このような大規模古民家が保存されているのはありがたい。和井田家住宅より年代的には新しいが、格式と細部に財力が感じられる民家であり、子どもの学習にとって配慮した展示もある。

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