爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

<駅からハイキング>「物語の生まれるまち あびこ」を楽しむ散策 に参加して

2023-11-27 19:05:20 | 日記

我孫子市の散策については、手賀沼や文人達の別荘などの散策の計画をしていて、今回、図らずも「JR駅からハイキング」のコースとなり参加した。
都内から水辺歩きを楽しむには我孫子が近い距離にある、ひところは汚い手賀沼だが綺麗になってきている。
我孫子市は、千葉県の北西部に位置し、東京都の都心から30~40Km圏内の都市で、利根川と手賀沼に挟まれ、なだらかな下総台地が東西に約14km、南北に4~6kmにわたってひろがり手賀沼沿いと利根川沿いは平らな地域となっている。人口約13万人、江戸時代より水戸街道の宿場町として栄え、数多くの文化人が環境の良い場所として手賀沼畔に住居や別荘を構え文化都市として「北の鎌倉」と言われた。
我孫子の由来は、古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)という、血筋や職種にかかわる苗字のようなものであり、人名として使用されていました。表記は異なりますが「阿毘古」「我孫公」という人の記録が残されています。古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有した大王(オオキミ、のちの天皇家につながっていくとされる)や大和地方の有力豪族は、各地の地方豪族を支配下におさめる際に、豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。その際に土地やそこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたと考えられます。大阪や奈良をはじめ、全国各地に「我孫子」「安孫子」「吾孫子」などの地名や人名が認められるのはこのためであると思われます。(我孫子市)

我孫子駅で参加の手続きを済ませ最初の訪問先である「杉村楚人冠記念館」に。

「杉村楚人冠記念館」
明治末期から昭和前期の東京朝日新聞社で活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠(本名・広太郎)の自宅を改修した記念館。杉村楚人冠は、新聞社に調査部や記事審査部を設けるなど、新聞業界を発展させた。

楚人冠記念館を出て「白樺文学館」に行く途中に小さい丘を上がると楚人冠公園があった。杉村楚人冠を顕彰している碑「筑波見ゆ冬晴れの洪(おお)いなる空に」が立っていました。かつては高台から遠くを望むことができたようですが、現在は木立で無理です。

「白樺文学館」
「白樺派」という集まりは、学校で教わりましたね。説明と言われるとチョット・・・
白樺派は、明治末期創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮の一つで、理念や作風を共有した作家の人達です。大正デモクラシーなど自由主義を背景に理想、人道、個人主義的な作品を製作した。メンバーは 柳宗悦*1・志賀直哉・武者小路実篤などで、白樺派と呼ばれる文学者が手賀沼に住み、文学活動をおこなった。我孫子が拠点となった。
*1 柳宗悦については、「オンライン講座10 考現学の祖・今和次郎の描いた東北 2022.11.10」、『「東京ステーションギャラリー」と「将門塚」を散策 2022.9.24』についても参照して下さい。

 

白樺文学館の中に柳氏の掲示物があったので受付の方に地図をもらいコースを外れ見学を。柳宗悦の住まいは「三樹荘」という、林に囲まれた坂の階段を上がった所に三樹荘跡がありました。この坂は、天神坂と言い、かつては文人の多くが散歩したとのことです。受付の方の話のとおり、中は見学できません、表札を見ると他の方が住んでいました。三樹荘の名は、3本のスタジイから柳の叔父の加納治五郎に命名されました、3本のスカジイの木は長寿・叡智・財宝を象徴する木と言われています。多くの文人やバーナード・リーチ*2が訪れたとのことです。なお、柳が住んでいた建物は残っていないようですが、現在の建物もモダンな建物でした。
向かい側に公園があり、「加納治五郎別荘跡」がありました。我孫子に多くの文化人が住むようになったのは嘉納治五郎の影響と言われ我孫子市が保全しています。
*2イギリス人の陶芸家で、画家、デザイナーでもあった。白樺派や民芸運動にも関りが深く柳宗悦に協力した。

元のコースに戻り志賀直哉邸跡へ。

志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)
「小説の神様」とも称される白樺派を代表する小説家。志賀直哉は我孫子で「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」などを執筆。また「暗夜行路」をを執筆した書斎が保存されています。さらに道なりに歩くと「旧村川別荘」がある。

旧村川別荘
西洋古代史学者、村川堅固が建てた別荘。大正から昭和にかけての別荘地としての我孫子の様子を残している。
建物は、斜面上にありました。上がったところの和風の建物は母屋となっています。母屋は元々この場所にはなく、我孫子宿本陣の離れの建物を一部改修し移築しました、大きく変えた点は、元々は茅葺屋根を、後に瓦屋根に変えられましたが江戸時代の部分も多いです。和室には、細かい飾りや細工が見られます、大きい建物ではなく、こじんまりした建物です。
隣にあるのが新館です。昭和2(1927)年には、朝鮮半島での調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。大正12年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴です。角部屋からの窓を通しての景色は、絵画のようです、残念なことに今では、大きい建物ができ、当時のような景色は望めませんが、旧村川別荘は手賀沼の景色に溶け込んでいたことでしょう。

下総台地で以外に高低差がありました、また、別荘が高台に建てられ事もあり日常生活に不便さも感じました。自転車のご婦人が降りて押している姿もありました。

手賀大橋 
我孫子市と隣の柏市を結ぶ全長415mの四車線のアーチ橋である。以前は二車線でそれ以前は手賀沼を結ぶ連絡船があった。橋から見える手賀沼の景色は壮観である、思わずこれが沼か?

この後のコースでは、3か所あるがここで疲労を考えて離脱、まだコースに入っていないが見どころとして武者小路実篤、水の館、鳥の博物館(工事中?)等があるが残念。


【参考資料】
・JR東日本
・ウイキペディア
・我孫子市

 《その他のPhoto》

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《茨城の歴史を学ぶ》「長久保赤水と伊能忠敬」を聞いて

2023-11-25 15:32:54 | 日記

「大人の休日倶楽部」で ”長久保赤水と伊能忠敬”の講座が開催された。講演は、茨城大学名誉教授の小野寺淳氏である。


講演をまとめるのは、講演者の意図することと異なる場合があるので、私が調べたことをあわせて報告する。

茨城は、地図製作者が多い、その一人が長久保で地図では有名な人で、伊能との違いを話された。

シーボルトについて
シーボルトは、元々ドイツ人でオランダの東インド会社(世界初の株式会社)専属の医者として採用され。資料を母国に郵送していた。シーボルトは報告した「NIPPON]には地図の中には二つ伊能図と赤水図があった。シーボルトのNIPPONは分冊であるが、後にまとめられた。有名なシーボルト事件は、任期を終え帰国するさいに船が暴風雨により難破し積み荷が調べられ、持ち帰り品の中に禁制品の地図があり国外追放となった。連座として高橋景保は死罪(獄死)、他の者も処罰された。
伊能図は、海岸の測量により日本の地形が正確であるが内陸は正確ではなかった。東日本は自分の金で測量、西日本は幕府の依頼により大名が協力していた。                             
シーボルト「日本」を読んで、当時のロシア、イギリス、フランス、アメリカ等が日本との通商関係を結ぶため日本列島近海までやってきています。

地図の変遷
長久保赤水の前の地図は、「行基図」で諸国を俵あるいは卵状(楕円や円)で表したが、北が能登半島と思われており東西南北が違っていた、また、伝説上の国(島)があった。年代とともに実証されて一番正確な地図を作ってきた。(石川流宣・大日本国大絵図)


当時は、一般の人が知る地図と将軍が知りえる地図が違っていてもっと正確な地図を持っていた。一般の人と差があった。そういう中で赤水図が出版された。
領地を与えるには地図が必要で、豊臣秀吉は検地をおこなった。秀吉は、完成しないで亡くなり、そのあと徳川家康が利用し、家光の代で正確になってきた。しかし方言により地名が違っていたりし争論だらけになった。

長久保赤水
長久保赤水の地図は、初めて緯度経度を入れて出版した。それより前にも緯度経度を入れている地図があった。当時、緯度は正確な部分があったが、経度の基準がなく京都御所を「0」とした。球体のため狭まる方法が不明であった。韓国と論争中の竹島なども入っていた呼名は松島であった。長久保の地図は改訂版が幕末まで続いた。

 

伊能忠敬と測量

長久保赤水の地図は、絵図から測量図の過渡期の地図で、測量家伊能忠敬の地図へと進んでいくが、それより25年早い1796年に「琉球国之図」が製作されていた。伊能忠敬も幕府の援助により測量も進が、加賀藩では実測を断られた、優れた技術を持った人が全国的には多くいた。伊能や長久保が名が残ったのは伊能は幕府が関わっていたからで、長久保は出版により名が残った。

まとめ
日本地図で知られているのは伊能忠敬で、日本で初めて測量し、1821年に伊能忠敬の死後に弟子たちによって「大日本沿海輿地全図」(通称・伊能図)を完成させた。伊能図ができる42年前(1779年)に長久保赤水は、「改正日本輿地路程全図」(通称・赤水図)を作り上げた。赤水図の特徴は伊能のように実測ではないが情報の細かさや高い利便性にある。伊能図が精度が高いが内陸部などは赤水図の方が山や河川名など内陸の情報が豊富で城下町や古戦場などを分かりやすく示している、長久保は友人が多く、旅人にもお茶をごちそうして話を聞くなど、情報収集能力にたけていた。精密度は伊能図と比べ遜色がなく、目立つ違いは当時の蝦夷地(北海道)が一部しか描かれていない程度である。小さく折り畳んで持ち運びができ、観光ガイドブックのはしりとも言える。伊能忠敬が測量の際に携帯したと記録があり、吉田松陰は兄への手紙で「これがなくては不自由」と記している。
どちらがの方がと、云々すべきではないが、両者とも地図製作者として今日の日本の地図を考えると実績を残したことを忘れてはならない。


【参考資料】
・大人の休日倶楽部 講座
・高萩市役所
・伊能忠敬記念館
・国土地理院
・ウイキペディア
・「伊能忠敬の全国測量」渡辺一郎編著 伊能忠敬研究会発行
・東京新聞
・日本経済新聞
・身近な土木HP
・BuzzTrend

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日光街道古河宿の寺社を訪ねる散歩

2023-11-21 11:17:34 | 日記

中断していた「退職者の会」の「日帰り散歩」も再開となり、2度目の茨城県古河市の訪問となった。
2度目ということで2年前の訪問と重複するコース・場所もあり、前回のブログにUPした「茨城県古河市を散歩 2021.06.22」も参考にしてほしい。
今回のブログでは前回訪れなかった場所等を中心にしました。
《今回のコースと場所》
雀神社⇒永井寺⇒頼政神社⇒正定寺⇒永井路子文学館⇒古河歴史博物館⇒高見泉石記念館⇒長谷観音⇒高見泉石生誕の地⇒妙光寺(お万の方墓所)⇒お休み所板長

雀神社を出て土手沿いを歩いていると「田中正造翁遺徳之賛碑」というモニュメントがあった。渡良瀬遊水地が近いので少しは関係があると思っていたが、日本の公害の原点である「足尾鉱毒事件」で廃村となった谷中村の450戸の内120戸が古河の地を希望の新天地として選んだとのこと。田中正造は、谷中村の復活を叫び続けたが72歳でその生涯を終えるが、最晩年には古河との関りが深く古河の人たちに影響をあたえた。プレイトには田中正造の闘いが描かれている。

古河歴史博物館に向かう途中に「永井路子旧宅」に立ち寄る、永井路子旧宅は前回も訪れたが、今年(令和5年1月27日)逝去された。東京生まれではあるが母方の実家に転居し古河女子尋常高等小学校(現・古河第一小)、茨城県立古河高等女学校(現・古河第二高)、東京女子大学国語専攻部を卒業され、直木賞受賞、NHK大河ドラマで放映されるなど、数々の歴史小説を残した。

古河市歴史博物館の前に「土塁」があった、古河藩の出城であった場所とのこと。


古河歴史博物館の1階ホールにあるストリートオルガンは見ること聞くことができない大きいオルガンである。オランダから輸入したオルガンで建物の中での実演のため音量が大きいが、オランダの街角で聞く雰囲気を味わうことができる。

※オランダに特注とのこと、上の飾りの雪の結晶は雪の殿様と言われ「雪華図説」をあらわした土井利位の結晶を飾りとした。ストリートオルガンの裏はよくできています。

古河歴史博物館の斜め前に「鷹見泉石記念館」がある。江戸時代の蘭学者で古河藩の家老であった。鷹見泉石は、藩主に近侍して全国各地へ同行し、職務の補佐に能力を発揮し賞賛を受けた。交際範囲も広く、地理学者・箕作省吾*1、画家の司馬江漢、谷文晁、その他、砲術家,海外渡航者、幕府要人、オランダ商館長、外交の中枢にある人々と交流があった。これらの交流については「古河歴史博物館」に資料等が展示・紹介されている。鷹見泉石については、渡辺崋山の描いた「鷹見泉石像」が国宝となっている。鷹見53歳の時の肖像画で西洋の画法も取り入れた傑作として国宝に指定された。
この屋敷(鷹見泉石記念館)は、古河藩が藩士のために用意した武家屋敷で、建物は、古賀城主土井利勝が、古河城の三階櫓を造った残り材で建てたと言われています。明治維新後、鷹見家の所有となり泉石の資料を伝えています。なお、「鷹見泉石生誕之碑」が古河第一小の一角にあります。

*1日本で最初に世界地図を紹介

妙光寺
日蓮宗のお寺で創建は鎌倉時代で慶長年間に現在地に移された。境内には江戸幕府初代将軍徳川家康の側室だった「お万の方」の分骨された遺骨の墓がある。また、享保3年(1718)に造立された馬頭観音塔は、市内で現存する馬頭観音の石仏で市指定文化財となっている。

休憩は、お休み処坂長で。江戸時代から続く商家の建物をお土産・食事・喫茶に利用。
建物は蔵などを利用しており外見は蔵ですが内装はモダンで、たいへん珍しい趣のある休み処です。
建物の前の通りは肴町通りでこの通りが昔の商家が意識的に保存されているようです。肴町の名は、全国的にみられ職業をあらわす町名が多く、この他にも他地域では紺屋町、鍛冶町などがある、古河市でもお城へ。お米やお茶・お酒をはじめ食料品を供給していた地域。

古河市には2度訪問したが、観光パンフレットを見ると、まだまだ訪れなかった所が多くあり、いつも感じることであるが、お城のある街は見どころいっぱいである。


【参考資料】
 ・城下町古河を歩く(発行:古河の都市観光を推進する会)
 ・永井路子旧宅
 ・ウイキペディア
 ・古河市HP
 ・古河市歴史博物館

♦その他のPhoto♦
日帰り散歩の楽しみは、名所旧跡を訪れこともさることながら、街を散歩しながら「まだ残っている」「可愛い」「美しい」「スゴイ」を感じることも楽しみの一つである。

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