爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

歴史好きって多い -歴史講座を聞いて-

2023-06-26 13:42:10 | 日記

「趣味の会」特別講座を聞く機会があった。「徳川と因縁の武将たち」と題し、午前と午後に分かれて午前(A)は「徳川家康と武田信玄」、午後(B)「徳川家康と真田三代」とあり、午後のコースに参加した。開場前からエレベーター前に長い列、いままで他の講座では列をつくる事がなかった。NHKの大河ドラマからの影響や講師の平山氏が大河ドラマの時代考証を担当ということから申込が多かったのだろう。
講演内容や資料については、SNS等への掲載、紹介ができないため感想のみ。

真田というと、歴史苦手の小生にとっては「真田十勇士」を思いう浮かぶが、真田幸村と従う家臣という原型は江戸時代の軍記物に見られるようだが、「真田十勇士」という表現は明治・大正時代の書物かららしい。ということは架空の人物や誇張が多かったのでしょう。しかし、それだけ真田一族の活躍が名覚ましかったことの証明かもしれません。
信濃の一豪族だったが、戦国時代に武田氏に属し勢力をのばした、名前も武田氏から偏諱(へんき)*1として幸綱の嫡男には「信」(信綱)、次男以下には「昌」(真田昌輝・昌幸)の字を与えられたりした、親・息子3人と共に武田二十四将にも数えられた。武田家が滅亡の後は豊臣方に付くなど真田家の勢力維持に努めた。
(*1 )将軍や大名などが、家臣の功のある者や元服の際などに名の一字を与えた。

真田六文銭(六連銭)は、三途の川の渡し賃と言われているが、真田三代、幸綱・昌幸・信繁(幸村)が、裏切りや乱世の戦国時代を生き抜いた真田一族は、現代社会にも生きる我々にも通じるものかもしれません。天下人の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と違い、武田信玄や真田一族には人としての魅力があり、そんな生きざまが人気があるところでしょう。

【参考資料】
・大人の休日倶楽部
・ウイキペディア

 

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越谷市で紫陽花

2023-06-21 19:10:48 | 日記

インターネットに越谷市の紫陽花名所として「葛西親水緑道」が紹介されていたので訪れた。越谷市役所にて観光マップをいただき、「葛西親水緑道」へ。

越谷役所の敷地に碑があった。石版には「相扶共済」と刻印されていた、説明板には国民健康保険制度の発祥とされる「越ケ谷順正会」の功績を讃え建立されたと刻印されていた。碑文には「この町の有志が創設した越ケ谷順正会は当時、国民健康保険制度の先駆者として・・・」とあった。


東側に新平和橋があるが「葛西用水」と「元荒川」が隣り合って流れている。
葛西用水は、整備されているが、元荒川は草ボウボウとしている。管理している所が違っているのだろう。葛西用水の河岸には「藤だな」「紫陽花」「花しょうぶ」など植えられ緑道として市民のハイキングコースとなっている。

〇花しょうぶは、これから咲き見ごろでしょうか、花言葉の通り、「優しい心」「優雅」の言葉にピッタリです。

「しらこばと橋」を渡り反対側に。


〇紫陽花は、花の色がよく変わることから、別名で「七変化」「八仙花」とも呼ばれるそうです。花言葉もいい意味も悪い意味もあるようです。花言葉は、「移り気」「辛抱強さ」「浮気」「無常」特に青色の紫陽花には、「無情」「あなたに冷たい」「高慢」という人を傷つける花言葉もあるようです。


〇越谷市中央市民会館裏の葛西用水に「キタミソウ」の説明板がありました。キタミソウは、樺太や択捉島など極めて寒冷なツンドラ地域に生息する植物。北海道北見で採取されたのが名の由来で、全国的には越谷市周辺と熊本県江津湖などで確認、「県内希少野生動植物種」に指定保護されています。

越谷市中央市民会館は、市民会館とは思えないデコレイティブな建物でした、小学校もギリシャ神殿のような学校もあります、すべてではありませんがこのような文化的な建築物もあっても良いかもしれません。


越谷市は、先の大雨(2023.6.2)で甚大な被害を受け、越谷市・草加市・松伏町が災害救助法の適用を受けている。今日、訪れた場所は被害状況はわからなかったが、河川の蛇行や江戸時代からの新田開発による用水路により、この一帯は線状降水帯などが発生した場合は水害要注意である。


【参考資料】
・越谷市
・ウィキペディア
・ニッセイ基礎研究所
・Green Snap STORE
・越谷市環境推進市民会議

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「駅からハイキング」池袋駅・大塚駅・巣鴨駅開業120周年記念 歴史と今を感じる名所めぐり

2023-06-11 12:00:22 | 日記

久々の「駅からハイキング」である。このコースは、以前に訪れた場所もあり、また、小生の体調を考えて訪れたことのない「立教大学」と「豊島区立鈴木信太郎記念館」の2ヶ所にした。だいぶカットしました。企画した「JR東日本」担当者には申し訳ありません。

立教大学正門前に着くと、よく立教大学の紹介写真で掲載される本館(1号館/モリス館)がある、全体的にレンガとツタが美しい。キャンパスは西洋の伝統的なリベラルアーツカレッジがモデルとのことである。見学場所は、立教の歴史がわかる「立教学院展示館」(2F)。

立教大学は、米国聖公会(米国大統領の1/4が信者)の宣教師チャニング・ウィリアムズ主教が、1874年(M7年)に東京・築地に設立した聖書と英学を教育とする私塾で、1883年(M16年)立教大学校を設立。ミッションスクール第一号として認可された。
「立教」の名の由来は、諸説あるようですが祈祷書にあった「立教師」ということばに由来するのではと言われている。

 

 

 

立教大学のシンボルである本館(1号館/モリス館)は、聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄附によって1919年に建てられた。モリス館のアーチをくぐると東西の通路があるが「鈴懸の径」と呼ばれている。
「鈴懸の径」というと、クラリネット奏者で有名な鈴木章治が演奏(鈴木章治とリズムエース)した曲を思い出す。若い頃は、アメリカのジャズかと思って聞いていたが、戦中の1942年(S17年)に発表された日本の楽曲でした。作詞・佐伯孝夫、作曲者は灰田有紀彦(灰田晴彦)で弟の歌手・灰田勝彦は立教大学の卒業生でこの歌を歌っている。もともとの曲名は、「マロニエの径」でしたが、軍部から暗く感傷的だったため認められなかったため、全く変えて学園歌としたいきさつがある。
♪友とか語らん 鈴懸の径
 通いなれたる 学舎の街
 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ♪   かえって素晴らしい曲となった。     *学生ソングの第一号かな
1954年頃に鈴木章治がジャズ・カバーして大ヒットした。

いまでは学生数が多くなり、「鈴懸の径」も・・・どうなんでしょう?

立教大学のもう一つ見学場所が「旧江戸川乱歩邸」。展示館の職員の方に学内や乱歩邸を親切に教えていただいたが、乱歩邸は開館日少なく今日は開館されてないとの事で道路からの撮影となった。乱歩は、幼少期から生涯46回転居したそうで、豊島区西池袋の家が気に入り、没時まで31年住み続けた。母屋と土蔵があり、戦災にもあわないで現在にいたっている。子息が立教大学教員であったこともあり、大学が乱歩邸と蔵書・原稿・書簡などを譲り受けて、「江戸川乱歩記念大衆文化研究センター」として保存している。

次が大塚にある「豊島区立鈴木信太郎記念館」である。「駅からハイキング」なのに池袋から丸の内線で新大塚駅で下車。
「鈴木信太郎」と言う名は初めて聞くが、フランス文学者とのこと。豊島区が鈴木信太郎氏が暮らしていた住宅を譲り受け整備し区指定有形文化財とした。建築構成は、昭和3年に建築された鉄筋コンクリ造りの書斎棟、戦後の昭和21年に建築された茶の間・ホール棟、明治20年代に建築され昭和23年に移築した座敷棟の建築年代が異なる旧鈴木家住宅である。豊島区は、貴重な建築物保存と、フランス文学研究発祥の地であることを広く発信。
鈴木信太郎記念館の見どころは何といっても書斎である。研究者・大学教授の書斎は、原書・専門書などが多く所蔵しているのは想像がつくが、鈴木氏の書斎は建造物にも目を見張るものがあった。1928年という時代に一般家庭でのRC構造(鉄筋コンクリート造り)*1 は珍しかった。こうまでして書斎にこだわったことには、関東大震災では、東京帝大の図書館などが消失し貴重な学術書が灰となった。その後、大正末には留学先のフランスから買い集めた約1000冊の貴重な書籍を船火事で失った。心血を注いで買い集めた入手困難な本をすべて失い、鈴木氏はノイローゼになったと言われている。鈴木氏は、大事な財産である本のため耐火構造の書斎・書庫が不可欠であると確信。直ちに計画に着手し1928年に書斎が竣工した。その甲斐あって1945年の空襲で一帯が焼土と化した際にはこの書斎だけは焼失を逃れている。戦後、1946年には書斎と接続する敷地に、玄関ホール、茶の間、台所、トイレ、風呂を建築、さらに1948年には明治20年代築の座敷と次の間を埼玉県の実家から移築した。
書斎は、内蔵的な配置となっており、内部は重厚な作り付けの書棚が並び、自身がデザインしたステンドグラスから陽が入り、アールヌーボー調の照明器具が設けられ、暖炉風のストーブなど、とても日本とは思えない留学先のパリの影響を受けた書斎となっているようである。

*1 明治政府は、近代化の中で都市の防災機能の向上を目指して、不燃建物である煉瓦造建物の建設を推奨したが、煉瓦造建造物は度重なる地震被害を受け問題になっていた。1923年の関東大震災において鉄筋コンクリート造建物の耐震性の高さが実証され、大正から昭和初期にかけてのコンクリートは質が良く、強度が高いことが構造技術者の中で認識されてきた。

「駅からハイキング」の内容がー歴史と今を感じる名所めぐりーとなっているが、今回は歴史を感じる所だけに終わってしまった。次回に期待したい。

                                         
【参考資料】                                                                          
・立教大学パンフレット
・ウイキペディア
・世界の民謡・童謡
・東京・豊島区HP
・JR東日本
・東洋経済
・日本建築学会「構造工学論文集」ー大正から昭和時代のコンクリートおよび鉄筋の材料強度の変遷ー市川友佳子・米谷        和恵・金尾伊織

 

【その他のPhoto】

※地下鉄・新大塚駅近くのお茶屋さん、大きな通りに面した所にこんな蔵がありました。

都内も梅雨に入り、紫陽花が見ごろでした。散歩のなかでの楽しみの一つです。

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