爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

赤羽・岩淵を散策  ~水運と陸運の変化~

2023-10-22 14:42:13 | 日記

久々の散策である、今回は東京の地理教育研究会が発行した「地図で歩く東京」を参考にした。この書籍、なにぶん発行日が1999年3月で約24年前の資料でありチョット不安であった。赤羽・岩淵の地域とはどういった所なのか?「地図で歩く東京」によると、赤羽、岩淵は日光御成道(岩槻街道)と荒川、新河岸川が交差する交通の要衝にあり、赤羽から王子地域は戦前、重化学の軍事工業

で発展、現在は公共施設の町に変身している。具体的には、戦前、台地上には陸軍工兵大隊、近衛大隊の駐屯地と工場などが建っていた。戦災で大きな被害を受けたが、戦後の復興期には再び重化学工業地域に生まれ変わり、製紙・パルプ・化学・機械・金属などの工場からおびただしい排煙・排気の煙突が立ち並び、城北の工業地帯の中心であった。しかし、昭和40~50年代の高度成長期の中で、拡大する工業に数々の歪みが生じた。大気汚染・地盤沈下・騒音公害・地価上昇・住宅難などの都市問題が起こり、それと前後して、この地域から大手工場が東京の周辺地域や日本各地に移転し、その跡地は都営住宅・公園・学校などの公共施設に変わっていった。


地下鉄南北線の赤羽岩淵で下車し、荒川に向かう。荒川の近くにあるのが八雲神社である。
〇八雲神社は、岩淵水門の至近の場所にあった。境内に住民が岩淵の地名を守り抜いたという「岩淵町町名存続之碑」があった。また、社殿の左には水神様が祀られている、いかにこの地が水との闘いであったことを偲ばせる。岩淵の渡し跡が近かったようである。神社を出て土手を上がると広々と河川敷があり、左手に「新荒川大橋」があり、右手には水門が見える。河川敷は、荒川岩淵緑地(多目的グランド)、バーベキュー広場、岩淵緊急用船着場や散歩コースとして整備されている。

〇新旧岩淵水門は、荒川に新旧2つの水門があり、旧水門の通称は「赤水門」、新水門の通称は「青水門」と呼ばれている。水門としての役割は、荒川の流量が増えた場合は水門で調節し隅田川の洪水を防ぐ。


旧水門は、1916年(T5年)に着工し、1924年(T13年)に完成。9m幅のゲート5門で構成される。1960年(S35)年3月に通船のために5番ゲートが改造されたが、老朽化や地盤沈下、計画高水位の変更により現在は使われていない。のちに土木建築物としての価値が高いと評価され、1995年(H7年)に産業遺産や1999年(H11年)に歴史的建造物に選定された。

新水門は、旧水門の強化を考えて1974年(S49年)に着工し、1982年(S57年)に完成した。荒川の岩淵水門を語る上で「荒川放水路」も記述しなければならない。

〇荒川放水路は、江戸時代から洪水が多く対策として「堤」(日本堤など)造りましたが、明治時代には10回以上洪水が発生しました、特に明治43年には浸水家屋や被災者を多く出しました。こうした状況から抜本的な対策をせまられ、荒川放水路という人工河川を造る計画が立てられ現在の流路にきまりました。明治44年には用地買収、大正2年には掘削工事が始まり昭和5年に完成する大工事となりました。用地買収から工事完成まで19年かかりました。昭和40年からは、放水路が単に荒川と呼ばれるようになりました。荒川放水路の開削には、日本を代表とする多くのエンジニアが関与しました。エンジニアには、荒川放水路と計画した原田貞介、工事を指揮した青山士がおり、青山は日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった技術者です。なお、「荒川知水資料館」には新旧水門や荒川放水路に関する資料が展示、書籍が公開されています。

この後、水運にかかわる堀船・梶原・豊島に向かいます。途中、熊野神社・西蓮寺に立ち寄り、志

茂銀座商店街通ったが、道幅が狭く、先が見通せないほどカーブがかかり、商店街と言われるほど賑わいがなく、所々、廃業していると思われる店舗もある。かつては、岩淵郷五箇村の一つで宿場があったのだろう、道幅の狭さが当時をしのばせる。日光御成街道と荒川の渡しの交通の要衝で賑わったのだろう。参考書籍によると、水塚(みずか)と言われる1~3mの盛土が多く見られるらしいが確認できなかった。岩淵・志茂・浮間は、北区でも水塚の分布が多い地域で、荒川の洪水の被害を受けやすい地域であったことを物語っている。


地下鉄南北線志茂駅乗車しJR王子駅で下車する。明治通りに出て白山神社に向かう。
〇白山掘公園の隣に白山神社がありました。白山掘の暗渠の上が公園で細長い公園は隅田川まで続いています。白山神社の隣が福性寺で福性寺本堂前に地名発祥梶原塚があります。神社とお寺の並びには読売新聞の工場等がありました、読売新聞の前はキリンビール東京工場で南関東ではキリンビール鶴見工場と共に主力でした。交通の便、荒川への排水など立地条件は良かったのですが、地盤沈下や騒音・悪臭などの公害問題で移転となりました。散歩していた高齢の男性の話では銭湯を経営していた頃、キリンビール工場のパレット、その隣にあった宝焼酎の木箱を燃料としていたと話していました。この辺は多くの工場群があったのでしょう、公害問題を発生する企業は移転し住宅・公共施設となりました。

次に訪れた豊島地域にも多くの工場群がありました、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していましたが同じように変貌しています。

〇豊島ドックと呼ばれる堀割が豊島地域にはありました。軍の施設でもあったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれているだけで、詳細な資料は残されていません。しかし、現在でも、石積みの護岸が地下に残っており、かなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。このドックは、現在の豊島二丁目から王子六丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡しており、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していたようです。水路の幅などから見て、小型の船舶が現在の豊島中学校付近(現・明桜中学校)にあった船溜まりで方向転換しながら、往来していたものと思われます現在の豊島公園は、このドッグを埋め立てた土地の上につくられたものです。

赤羽・岩淵 ~水運と陸運の変化~の巡検コースは、王子駅の西側にも足を延すコースですが、徒歩での回るのは厳しいのでカットした部分もありました。

                                                                               
【参考資料】
・巡検コースガイド・地図で歩く東京 東京都地理教育研究会/東京私立中学高等学校地理教育研究会
・荒川知水資料館
・国土交通省関東地方整備局荒川下流河川事務所  
・日光御成道の地図 旧街道モバイルマップ GPSCycling
・ウィキペディア
・東上沿線物語 荒川(旧荒川放水路)と隅田川(旧荒川)を望む絶景スポット 岩淵水門
・東京を描く 水彩画と写真による東京点描 東京の川と橋 荒川放水路の開削・東京の川の歴史
・福性寺HP

【その他のPHOTO】

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