爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

展覧会:「東京モダン生活東京都コレクションにみる1930年代」

2020-09-28 16:47:37 | 日記

展覧会は、東京都庭園美術館でおこなわれた。庭園美術館は、国立自然教育園に隣接し都内にまだこのような武蔵野の面影を残しているところがあるのかと思う場所である。美術館の敷地は、皇族だった朝香宮邸のあった場所で、それ以前は、高松藩の下屋敷、明治期には陸軍の火薬庫だった。朝香宮は、香淳皇后の叔父にあたる方で朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設した。

今回の展覧会は、年1度の建物公開と邸宅建築が生まれた時代のコレクションを紹介している。

建物は、鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で昭和8年(1933)に完成。外観は、装飾がみられないほどシンプルだが、内装には当時流行った装飾美術のアール・デコ様式である。2015年に国の重要文化財に指定されている。建築設計は、宮内省技師権藤要吉、内装は基本設計を外国人が担当している。

 

1.外観
シンプルな外観である、1階は来賓用の部屋、2階はプライベートルーム、一部3階部分はウィンターガーデン(温室)となっています。


2.内部
主要な部屋の内装は、フランスのインテリアデザイナー、アンリ・ラパンが担当している。

玄関を入って左に進むと第一応接室になります。宮家を訪ねた来賓の御用係や供侍が主人を待つ部屋で隣の部屋が小客室です。調度品などは一級品で揃えています。

正面玄関ガラスレリーフ扉は、フランスのガラス工芸家の作品です。

〇大広間
壁面にウォールナット材を使い、装飾を抑えた重厚な空間をつくりだしてます。天井には格子縁のなかに40個の半円球の照明が整然と配置されています。他の部屋の照明器具もデザインが全て違い照明器具を観るのも楽しみの一つである。正面のアーチにはさまれた鏡と大理石のマントルピースはシンメトリーの落ち着いたデザインに華やかさを添えています。大理石のレリーフはイヴァン=レオン・ブランショの作品。

〇次室(つぎのま)・大客室・大食堂
大広間の壁を隔てた3室がつづいています。次室の白磁の「香水塔」が目を引きますが、さらにモザイクの床、白漆喰の天井は半円球のドームとなっている。朱色の人造石の壁などアール・デコ特有の空間です。
アール・デコの粋が最も集められているのが大客室と隣の大食堂です。壁画、シャンデリア、扉上部の半円形の装飾、大理石の暖炉のレジスター(換気)装飾。
大食堂は、エッチング・ガラスの引き戸で仕切ることができ大きな円形の張り出し窓は南面の庭園を望み、ここの照明器具は、パイナップル、ザクロ形など外国人デサインの特徴が出てます。


〇2階部分
2階はプライベートルームになります。2階広間を中心に若宮・姫宮・殿下・妃殿下の寝室と居間が備わっています。2階部分は宮内省技師によってデザインされました、ラジエーターカバーには日本伝統模様である青海波が使われるなど和の要素が取り入れられています。


3.管理棟・ギャラリー(新館)
本館に比べてモダンな建物でCafe等もあり、いろんな催しものが企画されているようです。


4.庭園・茶室
都立公園は、動物園・植物園・庭園・公園と多岐にわたり区部だけで約51ヶ所あるが、ここ庭園美術館は美術館の分類に入るようだ。他の都立庭園と比べても遜色がないほど素晴らしい。旧朝香宮邸と茶室との調和が素晴らしい景観を生み出している。

 

1930年代はどんな時代だったのだろうか、政治・歴史学者の井上寿一氏が著書『戦前日本の「グローバリズム」』のなかで、日本が最も世界を知った時代であったとしている。満州事変・国際連盟脱退・日独伊防共協定・日中戦争など軍国主義、ブロック経済、ファシズム外交など蔓延した。

太平洋戦争開戦前のつかの間の、生活の近代化と帝都復興による都市化など人々にとって潤い、動きのある時代だったのだろう。

1933年(昭和8)から1947年(昭和22)まで、ここに住まわれていた朝香宮鳩彦王は、皇族男子が陸海軍いずれかに奉職するしきたりのため、陸軍士官学校・陸軍大学校、フランス留学、その後、陸軍少将・中将と昇級し旅団長、師団長、軍事参議官を歴任、上海派遣軍司令官として南京攻略戦に参加、終盤は主戦論者として決戦を主張・力説した。戦後は南京虐殺等の関与を指摘されるなどしGHQの命令により昭和22.10.14に皇籍離脱した。
蛇足であるが、埼玉県朝霞市(当時・膝折村)の地名由来は、東京・駒沢にあった東京ゴルフ倶楽部の移転先が現在の朝霞市で当時の倶楽部の名誉会長が朝香宮で朝香宮にちなんで朝霞町と名を付けた。朝香という宮号をそのまま使用するのは畏れ多いということで一字変えて「朝霞」とした。


今回、両親の生きた時代がどんな時代だったのか興味があり鑑賞したが。住まいで言えば、大邸宅と文化住宅以上の差であり、出るのは溜息だけ・・・。

 

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照明器具がこんなに多くの種類が

 

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杉戸宿を巡る散歩

2020-09-21 18:56:09 | 日記

1回の「退職の会」の日帰り散歩も、コロナ禍や異常気象で杉戸宿の企画が延期、延期でやっとのことで今回散歩ができた。

江戸期に整備された五街道を、宿場名を言って地名・位置が分かる方は、五街道に相当詳しい人ではないだろうか。杉戸宿も埼玉県人は分かっても全国的には知名度は・・・。

杉戸宿は、日光街道21宿場町を千住から数えて5番目の宿場である。

杉戸宿のある埼玉県北葛飾郡杉戸町は、東武スカイツリーラインの東武動物公園駅が最寄り駅(以前は駅名は杉戸駅)で駅の東側に位置する埼玉県北東部の人口4.4万人の町である。

町のほとんどが低地、駅に近い古利根川沿いに自然堤防、東部に江戸川がありこの辺は下総台地の端で台地が所々みられる。

駅前の通りを進むと大落古利根川が流れるこの川が境として駅寄りが宮代町、川を越えると杉戸町である。

 ※大落古利根川の大落とは農業排水を落とすという意味があるそうです。

川沿いを北に進むと富士浅間神社がある、毎年71日に「初山参り」がおこなわれ塚の上で1年以内に生まれた新生児が額に御朱印を授かり無病息災と成長を願う行事があります、富士塚の石に松尾芭蕉の句碑が彫られているが芭蕉と杉戸宿の関係資料はないようです。裏手には厳島神社/金刀比羅宮/稲荷神社があった、神社が集合しているようです。

 

川沿から日光街道に出て宝生院に向かう。途中、古民家がありました案内板に「角穀跡/小島定右衛門邸」とありました。(非公開)米穀問屋でかつて敷地内には、表の蔵(袖蔵)に続き3つの蔵が連なっていた。

宝生院は、杉戸宿とともに長く、「まちの寺院」の役割を果たしてきました。戸籍の把握や寺子屋教育、旅籠屋の代わりなど重要な役割を多く担ってきました。

 

宝生院の先に古民家がありました。杉戸を代表する「渡辺勘左衛門邸」(非公開)です、享保7年(1722)に杉戸宿に移り住、多数の農地を集積し財を成し、江戸中期には質屋業を行ってきました。明治時代の埼玉県大地主297人の1人として紹介されるまでになりました。銀行設立、学校設立など大きな貢献をし、昭和には町長を務めるなど数代に渡って町の発展に尽力をした家柄です。

町の中心に戻ると通りに「渡辺金物店跡」があった。これは、「渡辺勘左衛門邸」の分家に当たる家です。平成に入り看板を下ろし、現在は、月1回「クラブ茶屋」が開催されています。(日程不定期)

この辺から南が高札場、脇本陣、本陣、問屋場があったが確認できなかった。ただ、「明治天皇御小休所跡」の碑が銀行の前にあった。

街道からそれ愛宕神社、神明神社に立ち寄る。

 

昼食後、近津神社へ。幹事のMさんがこの神社の狛犬が変わっているとのこと。杉戸キリスト教会の隣に近津神社の鳥居があった。なんとも隣どおしというのも珍しい。この教会も古く明治18年(1885)に設立された清地会堂を母体とし昭和28年(1953)に創設された教会で県内では和戸教会に次いで2番目に古く、内村鑑三が講演した歴史を持つ。

 

近津神社は、清地村の鎮守である。幾度となく再建されており、平成13年(2001)に不審火により再度焼失した。本殿の彫刻は類を見ない素晴らしいものだったといわれたが本殿とともに焼失した。

注目の狛犬はというと、チョット変わっている、狛犬に関して詳しくはないが、この狛犬、振り返っているように見える、ここまで振り返るのは珍しいかもしれない。

 

隣には高札場があったが本来の「高札場跡」は本陣のあった付近にあったもので平成に建設されたものです。

 

日光街道から「みなみがわ散策道」に入り、本尊の不動明王が奥州平泉の藤原基衡の命により作られたと伝えられる来迎院、境内には「十三仏」がありました。十三仏は、室町時代になってから考えられた冥界の審理に関わる13の仏である、Mさんの話では十二支に対応しているとのこと、私は虚空蔵菩薩でした。

来迎院のあと杉戸町役場内の北葛飾郡役所跡や八幡神社に立ち寄る。

「みなみがわ散策道」から日光街道に戻る、「三本木一里塚跡」の案内板がありましたが碑がなく、その案内板も民家の垣根に埋もれていました。これで杉戸宿の北から南まで歩いた感じです。帰り、街道沿いに「豊嶋屋/関口式右衛門邸」がありました、江戸期から続く造り酒屋です。

駅に近い東福寺に立ち寄りました。この東福寺は、明治初期の自由民権運動の高揚期には埼玉県東部地区の中心となり政談演説会が幾度なくおこなわれました。また、杉戸町の最初の町役場が置かれた場所でもあります。

東福寺から大落古利根川に出て川岸を散策するが、毎年「古利根川流灯まつり」がおなわれる、畳一畳分の手作り灯籠が川面に光の帯となり天の川のようだとのことです。

 

杉戸町の名所旧跡が思ったよりまとまって点在している印象です、古民家も残っているのも驚きでした。

新聞に歴史的建造物が取り壊されているとの掲載がありました。維持管理が大変ですが、今後も歴史遺産を大事にしてもらいたいものです。

幹事のMさんの話では資料等が少ないため杉戸町観光協会より立派な資料を送って頂いたとのことでした。・・感謝・・

 

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神田祭と神田明神の歴史を学ぶ講座を聞く

2020-09-17 19:10:00 | 日記

神田明神祭務所地下参集所にて「神田祭と神田明神の歴史を学ぶ講座」が行われた。講演が神田神社権宜岸川氏ということで、一般の研究者と違った切り口のお話で勉強になりました。ここで少し紹介を・・・。(講演内容全てを紹介できればいいのですが)

♦神田明神の歴史
創建は、奈良時代の天平2年(730)に豊島郡柴崎村(現・千代田区大手町にある将門塚周辺)に真神田臣が祖神・大己貴命を祀り鎮座、創建。
※創建は今の場所ではなく、神田明神の名は、真神田命からとったと言われている。

延慶2年(1309)には平将門公を合祀。
※大手町にある将門の首塚は、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受けてきた、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあると言われ、大手町の一等地にもかかわらず現在は囲いをし祀られている。

神田明神が現在の地に遷座されたのは、元和2年(1616)の江戸拡張により現在の外神田・表鬼門守護の地に遷座、幕府により社殿や神輿などが寄附され、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」となった。
※慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いにおいて神田明神で戦勝祈祷をして9月15日・神田祭の日に家康軍勝利した。このように徳川家康とは様々な縁があり、江戸時代以降に盛大に行われた。

明治時代に入ると、神田明神から神田神社に改称。                    ※多くの神社が、明治政府の命により江戸時代の名前から変更された。

♦江戸三大祭の一つ 神田祭
江戸時代には、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と言われ、江戸時代から現代まで続く神社の大きな年中行事であり、娯楽の少ない江戸庶民にとっては大きな楽しみであった。特に神田祭と山王祭(日枝神社)は、天下祭と呼ばれ盛大な祭りとして知られていました。神田祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭とともに日本三大祭りの一つとも言われています。 
お祭りの期日は、江戸時代は旧暦9月15日でしたが現在は、5月となっています。天和元年(1681)頃まで毎年行われていたようですが、町々の祭礼費の負担が多く山王祭と交互に隔年斎行されています。
天下祭と呼ばれた所以は、江戸城・内曲輪内へ祭礼行列が入れた、徳川将軍や御台所の上覧、幕府による神輿行列の費用負担と祭礼奉仕などから他の神社とは優遇が異なった。
現在は、神幸祭を中心に1週間ほどの行事である。巡行は神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原108町会を巡行する、この巡行は回ることによりお祓い、清めるそうである。神田祭も今は神輿が中心となっているが、かつては山車であった、それが通行への影響や地震災害で焼失などで神輿が主流となっている。神輿の担ぎ手は、氏子ではなく江戸時代では日雇い労働者であり、氏子は町で待っているそうで、現在も同じようです。
江戸時代は、宮神輿が中心であったが、現在は町神輿に移っており、神幸祭行列と巡行することはほとんどないとのこと。

♦江戸祭礼で人気があったのは?
祭礼で人気のあったのは神輿や山車ではなく、山車の後に付く「附祭」(つけまつり)が最も人気があった行列であった。様々な出し物から構成、各氏子町が競うあうかのように毎回違うテーマを考え、担ぎ万度、練物、造物、踊台、底抜屋台、地走踊などの行列となった、今で言うハロイン、AKB、阿波踊りなどが行列したのだろう。
 
♦神田明神と銭形平次
神田明神の境内に「銭形平次の碑」がある、「銭形平次捕物控」はロングドラマでギネス認定された、野村胡堂の名作で、舞台設定が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と長屋に住み明神界隈を舞台に活躍したことから作家クラブが境内に建立した。時代設定は、将軍徳川家光の時代、描かれた風景は文化文政期(1804~29)、平次の特徴である「投げ銭」は、中国の「水滸伝」の石投げからのヒントとのこと、また、銭形という名も建設中のビルの「施工 錢高組」からヒントを得たとのこと。野村胡堂が銭形平次を書くにあたり留意したことは、①容易に罪人をつくらないこと②町人と土民に愛着をもつこと③サムライや遊人を徹底的にやっつけること④全体として明るく健康的な読み物にすること(縄田一男「捕物帳の系譜」より)留意点が面白くしているようです。主役をした大川橋蔵が目に浮かびます。

神田祭も行事の中に、献茶式、明神能・幽玄の花(金剛流薪能)などを加えて神事を行い、伝統の創造もしているそうです。
神田神社境内に交流館も完成し、時代時代に沿う神事を模索しているようです

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