爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

越谷散策Part2

2015-08-31 19:05:58 | 日記
3月の「退職者の会」の例会で北越谷駅から越谷駅へと散策したが、今回は、前回に行く予定だった所をPart2としてMさんが企画してくれた。東武スカイツリーラインの車両点検で電車が遅れたり、雨模様を心配しながら越谷駅前よりバスに乗り大相模不動尊を目指す。午前中のコースは、一度、個人的に散策しブログにも掲載したので除外するが、大相模不動尊では、幹事のMさんがお寺と連絡をとって頂き、住職の方より寺の由来、当時の社会状況など歴史の勉強をさせて頂いた、お忙しい中ありがとうございました。   
また、最後に越谷市指定の文化財を見学させて頂いた。

大相模地区の寺社4つをお参りすると昼である、ここの地域には昼食をとれる場所が少ないので元荒川を渡り越谷市立病院の大通りの中華店に入る。11人それぞれランチセットを注文するが大盛りである、何人かは半分にしてもらっていたが、リーズナブルなランチである。

このカレーチャーハンセットがこのボリュームで650円 

午後からは、花田苑の散策である。いまから20数年前に出来た公園で正式には「花田第6公園」と言うらしいが「花田苑」と言った方がわかりやすい。この辺では珍しい回遊式庭園であり隣接している「能楽堂」と合わせると充実した文化環境施設である。バブル時代を感じさせる豪華過ぎる施設で、自分の居住市にもこういう施設があればと・・・。



参加者それぞれ維持管理が大変だろうと思いつつ、次の見学先の東埼玉資源環境組合(リユース)へ、「新方川」沿いに歩くが煙突は見えても結構歩く。前に県庁職員にゴミ問題の講演の依頼をした時に、東埼玉地区の焼却炉は他地域の焼却炉より設備が良い話を聞いたが、設備は分からないが、外観は特徴があり煙突がなけれ文化施設と見間違う施設である。(越谷の公共施設は文化的な面を多く取り入れている)今回の目的は80mの展望台からの「田んぼアート」である、受付にて見学の手続きを済ませ、煙突を利用した展望台へエレベーターで上がり360度のパノラマを満喫。スカイツリーや晴れていると富士山も見られる。「田んぼアート」は今年で6回目で古代米を利用し色分けしているが、植えているときは色が付いてないのと、斜め上からの鑑賞に耐えられるデザインにするには苦労があるのだろう。この辺も宅地化が進んでおり、今後も「田んぼアート」が鑑賞できるとよい。

今日は、歩数計が気になるくらい歩いたが、帰りのバス停を探しつつ来た道を歩いていると市民プールの玄関にバスが止まっている、何とグットタイミングである、今日は雨も降られずに一日散策ができた。

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東京のお盆は静か

2015-08-14 17:06:53 | 日記

義母の新盆でもあり田舎には行けないので、たまたま実母の実家と同じ宗派でもあり、浅草の圓照寺に出かける。雷門の通りは混み合うので脇道を通ったが、ビルの前に「専堂坊屋敷跡」という碑があった。なにやら浅草発展の基を拓いた、土師中知の旧居宅地(通称専堂坊屋敷)との事。浅草の総鎮守浅草神社は、江戸時代には三社権現と言い、一之宮が土師中知で二之宮・三之宮の三神で浅草を開拓した。浅草のルーツでもある。
お寺街に入るとひっそりしている、お彼岸の時などは花屋の露天などが出て賑やかなのに、お盆は、新旧暦の違いなのか?
帰りは雷門通りを通ってきたが、通りには、「久保田万太郎生誕の地」の碑があった。浅草生まれで俳人、小説家、劇作家として大正から昭和にかけて活躍した人物である。
普段だとこの辺は人通りが多いが、お盆期間中のためか人通りが少なく、帰りの電車も空いていた。

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物流博物館と南極観測船「宗谷」を見学

2015-08-01 10:09:48 | 日記
毎日、熱中症の報道される中、散歩を兼ねて比較的交通の便の良い「物流博物館」と「船の科学館」を訪れた。品川駅の高輪口から「柘榴坂」を上がり「グランドプリンスホテル新高輪」の前のモダンな「カトリック教会」の裏に「物流博物館」がある。「カトリック教会の歩道側に碑があった、江戸時代のキリシタン迫害政策の中、大虐殺で殉教(田町の札の辻付近)した方々の顕彰の碑でした。
    
物流博物館は、パンフレットによると運営主体が「公益財団法人 利用運送振興会」となっているが、前身は日本通運の「通運史料室」であり、日本通運が全面協力している。
日本通運は、明治5年に宿場の伝馬・助郷の代替新制度として発足し、社名を内国通運、国際通運、日本通運(特殊会社)と変遷してきた。
 物流を知る上で、江戸時代の宿場制度を知る必要がある。日本の宿場制度は、中国の「駅家」制度から導入したもので、宿場には、馬や人足が置かれ手紙や荷物を運ぶ役割を果たしたが、輸送はリレー形式で隣の宿場まである、スポーツの「駅伝」はここからきている。その他、水運もあり、江戸時代には物流には大きな役割を果たしてきたが、明治時代に入り鉄道網の整備により物流形態が大きく変貌した。輸送手段により物流は、大きく変わるが、20世紀最大の発明品の一つに「コンテナ」がある。
中学生の頃か、コンテナ輸送の特徴である「Door to Door」という言葉が妙に記憶に残っている。会社勤めしていた頃、小口貨物も方面別に混載コンテナで輸送した事があり、コスト面での効果は絶大であった。
コンテナ輸送は、新しい輸送形態ではなく、日本では昭和6年には一部利用されており、外国では、1780年代にはコンテナらしき型は存在し、1830年代には鉄道・荷車・船の積み替えができる木製コンテナが運用されていた。国際的に広まったのは、アメリカ運送業者のマルコム・マクリーンの力による。コスト削減と交通渋滞回避から沿岸輸送に目をつけ、陸上海上輸送の兼業禁止や、港湾労働者組合の反対の中、実現し、船会社を次々に買収し、戦争での輸送に利潤を上げ、世界最初のコンテナ船を就航する大手海運会社であるシーランドを築きあげた。
物流博物館には、江戸時代から現代までの物流の歴史がわかるようビデオ・ジオラマ・体験コーナーなどがある。


帰り品川駅近くの秋田県のアンテナショップに立ち寄る、あきた美彩館は、2度目であるが、店内奥に飲食スペースがあったが、前に来たときは無かったと思ったが、近頃こうした形態がアンテナショップに多くなった。

もう一つの見学先のため高輪口から港南口へ出る、都バスにて品川駅から「船の科学館」に向かう、お台場は、姉に言わせると子どもの頃はよく遠足で来たとの事、昔は鈴ヶ森からお台場まで徒歩遠足コースなのだろうが、今では埋め立てや高層ビルが建ち昔の面影は無い。「船の科学館」前に本館展示中止の表示が・・・南極観測船「宗谷」だけの展示となっている。「宗谷」に近づくと横断幕に「不可能を可能にする 強運と奇跡の船”宗谷”」とある、何が強運と奇跡の船なのか見学記念カードの裏に、アメリカ潜水艦の魚雷が不発、トラック島大空襲で奇跡の生還他が記述してあった、乗船してみるとこんな船で南極まで行ったのか!!1956(昭和31)年に南極観測船として任務に就くが何しろ建造したのか1938(昭和13)年である、海軍の特務艦であったり、引き揚げ船であったり、海上保安庁の補給艦であったり、昭和の歴史を積んできた船で昭和世代にはノスタルジアを感じる。


本館が展示中止のため見学が早めに終わったため、近隣の「日本科学未来館」にでも寄ろうかと思ったが暑さのため断念し帰る事に・・・

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