爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

つつじの館林を巡る散歩

2019-05-22 19:51:47 | 日記

5月の「退職者の会」例会は、つつじで有名な「つつじが岡公園」を中心に、館林の歴史を散策する日帰り散歩が企画されました。つつじ祭りは、4月10日から5月10日の期間ですが、開花が遅れているようなので混雑をさけるための散歩です。 館林の訪問については個人的には2回目であるが、初めての場所もありブログが重複しないようにしたいと思います。なお、前回の館林市散策2016.8.9UPも参考にして頂きたい。

東武伊勢崎線館林駅で下車、駅前に碑があった。茂林寺の分福茶釜の狸 像と「巨人軍初Vの原点(分福球場)」とあった。昭和11年9月5日から巨人軍の秋季キャンプを行った球場で、当時、練習の厳しさから「地獄のキャンプ」と言われた。同年、公式戦初優勝した歴史的な球場である。現在は、関東学園に売却されている。

駅前からは、観光コースである「歴史の小径」を散歩する。商家、神社等を中心に見学する、奥さんが館林市の出身のUさんがこの近くに正田美智子(上皇后)の実家があるとのことでコースを逸れて見学。 昼食となり名物の「館林うどん」を食す。「三大うどん」には名は入らないが館林に来たら「うどん」であり、天皇陛下もお買い上げになったという「舘林うどん」に。

 昼食後、竹生島神社と館林城跡に入る。舘林城は石垣ではない土塁と掘りのお城である平城である、別名、尾曳城という。館林は、利根川をおさえることができ、東北方面の要所で、徳川家も重きを置いている館林である。お城は、明治7年に焼失したが土塁が保存、土橋門が復元されている。

向井千秋記念子ども科学館、田山花袋記念文学館、館林市第二資料館に到着する、こんなに集中して見学できるのはあまりない。今回、館林市出身の宇宙飛行士向井氏の科学館に入館する。宇宙だけでなく子ども向けの科学全般を学ぶ施設である、こういう充実した施設はあまり見たことがない。向井千秋氏のメッセージ「私たちの周りには不思議なことがいっぱいです。不思議探検隊のみなさん、この科学館でどんどん新しいことを学んでください!」とあった。

 

科学館の側に「八幡宮」がある。ここは、館林城の中心、本丸があった場所。この八幡宮は、江戸時代には武家の守り神として、また、城の守護神として館林城の「八幡廓(はちまんくるわ)」に奉られ、城主の崇拝を受けてきた。明治に入り廃藩とともに尾曳稲荷神社に合祀されたが、この地に進出した上毛モスリン(株)により現在の地に移された。

 

この場所から数分の所に尾曳稲荷神社がある。看板には「館林市の守護神 尾曳稲荷神社」とある。館林城築城の際、城郭の鬼門(北東)建立したため神社建築としては珍しい西向きの社殿となっているそうです。「狐の尾曳伝説」の謂われをもつ稲荷神社でもある。

裏手には「つつじが岡」公園がある。尾曳橋を渡り「つつじが岡」公園に入る。 公園のパンフレットには「世界にほこる 日本一ツツジの名園」とあった。大きく出たなと思ったが実際行くとそうだろうな・・・と思ってしまう、室町時代にはすでに植生した地域であり、現在、100余品種1万株の「つつじ」で、お祭りの期間は15万人の人出で賑わう。つつじ祭りの日程から5日程過ぎたがまだまだ「つつじ」の景観を味わえる、公園内は、保育園・幼稚園・小学校・中学校などが協力してお花が飾られていた。大きな沼、渡船乗り場もあり楽しめる公園である。

 

館林は、この季節、多くの家庭でバラなどお花がいっぱいである。ヨーロッパ的な潤いを感じる街であった。

 

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3つの総会が終了

2019-05-19 18:03:09 | 日記

住まいの「自治会」・「管理組合」、組合の「退職者の会」の総会が今週終了した。何れの組織も議論百出であった。それは組織の今後の運営や存続に関わる高齢化による弱体化が根底にある。

住まいの方は、当自治体は市内一の高齢化率で役員の選出も今後ままならず、総会で検討委員会を立ち上げることになった。

組合の「退職者の会」も同じような様相を呈しているが・・・。こちらは任意団体特有の組織離れも加わって複雑である。私も5年間会計として関わってきたが、私や妻の体調を考え、今年、役員を退いた。在職中から退職後まで、執行委員・部長・会長等に関わって来たが、任意団体の会計役員になったときに、友人から団体会計の重要性と大変さを教えて頂いたがその通りで任意団体を維持するのは大変なことである。 「退職者の会」は、組合の退職者組織であるが今後の組織維持を考慮し「組合」の冠を取った組織を提案したが、「組合」への思い入れが強く提案が否決され「付帯事項」で対応することになった。

団塊の世代がいろんな面で社会・組織を支えてきただけに、高齢化・組織離れによりいろんな所に弊害が出ている、対応論議により名案が浮かぶことを望みたい。

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幸手市を散策 ~思い出の街を訪ねて~

2019-05-13 10:43:27 | 日記

新婚時代の数年を過ごしたのが、ここ幸手市幸手団地であった。私が住んでいた頃は北葛飾郡幸手町であったが1986(昭61)年10.1に幸手市となった。

東武スカイツリーラインから東武動物公園駅で東武日光線に乗り換える。日光線は、東武動物公園駅が起点となるが、私が通勤していた頃は杉戸駅という駅名であった。近隣に 複合型動物園が完成したため1981(昭56)年に駅名変更となった。日光線に入り杉戸高野台駅で下車する、この駅も私の通勤していた頃は無かった。幸手駅からバスで通勤していたが、現在は徒歩10分程で到着する。幸手市は、都心から約50Km離れており都心の団地と比べて住棟の圧迫感が無い印象を受ける。総戸数3023戸で駐車場が外周にあり団地内には車が入らないため居住環境は今考えても良いと思う。しかし高齢化であろうか中心部にある商店街、スーパー、金融機関等が様変わりしていた。 団地からのバス路線も幸手駅と杉戸高野台駅行きがあったが本数が少ないため帰りは歩いて杉戸高野台駅まで戻ることに。

幸手駅はやはり変わっていた、駅を降りた右手にスーパーがあったが無くなっていた、駅前ロータリーや通りが綺麗に整備されている。駅前通りの街灯には桜のデザインが、ここ幸手市は桜の名所で有名な「権現堂」がある。もう一つ観光の目玉となっているのが「幸手宿」といわれる宿場である。日本橋、千住、草加、越谷、粕壁、杉戸に続く6番目の宿場であり、また、ここ幸手は日光街道と日光御成道が合流する地点でもある。まだ日光街道沿いに古い商家が残っており、宿場であったであろう雰囲気を残している、保存されているほうだ。住んでいる時はそんな歴史的なことは思わなかった。

幸手市は、関東平野の中ほどに位置する人口約5万人の市である、埼玉県でも東側にあり、千葉県、茨城県と境をなしている。ほぼ平坦で沖積地、利根川に近く自然堤防などが見られるが市内全体が海抜10m前後である。30数年前は、水田が多く存在していたが、近年は国道4号線沿いに郊外型ショッピングセンター、外食産業が開店している。かつての中心部である日光街道沿いの買い物客が減少しているかと思われる。

観光パンフにもある、幸手市街歴史マップに沿って歩いてきた。30数年前はさほど気にもしないで通りすぎていた街並みも、今となっては古い商家は目立つ存在となっている。しかし明治、大正、昭和初期の建物の中で営業、生活を維持していくことは大変である。歩いてみて修理もままならない建物も多くあった。これは幸手市だけの問題ではないが・・・。歴史的遺産をどう残していくかが課題でもある。

 

30数年前の思い出を探したがなかなか出てこない、妻も幸手団地で何号棟に住んでたかもわからなくなっていた。

 

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