爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

サラリーマンの聖地「新橋」を散策

2024-06-24 18:58:28 | 日記

約50年前サラリーマン時代、数か月「新橋駅」から虎ノ門方面に通勤しており、懐かしく新橋駅で下車する。新入社員ということもあり、家と会社の往復で新橋駅の印象はうすいが、烏森口の駅前は変わらないが、汐留口は目を見張る。


新橋駅の汐留口から散策する。「ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線」が1995年(H7)に開業、新橋と東京臨海副都心を結び沿線にはオフィス・マンション・コンベンションセンター・観光資源等があり、これからの利用増が期待される。「ゆりかもめ」の入口前に「動輪」(D51)と「鉄道唱歌の碑」がありました。日本で最初の鉄道起点の碑でもあります。「新橋停車場」は、1872(M5)年に開業したが、鉄道唱歌は、1900年に第1集東海道篇が発売された。タイトルは「地理教育 鉄道唱歌第一集」とあり、当時の音楽教育の一環として歌による知識の習得があったようだが、江戸時代からリズムで覚える(宿場町など)歌があったようである。鉄道発祥の記念の場所はここだけでなく少し離れた場所に「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」があるので向かう。

〇「汽笛一声 新橋を・・・♪♪の新橋は現在の新橋駅ではありません」
オフィス街を通るが、ここ新橋の名の由来は、江戸城外堀の汐留川(新橋川)に架かっていた橋の名前に由来する。1932年(S7)に関東大震災後の復興のための町名整理統合(11町)により、現在の新橋1~6丁目となり他に「西新橋」「東新橋」がある。ビルの谷間に石造り2階建て建物が「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」です。裏手にはホームと線路が引いてあります。
新橋停車場は、日本最初の鉄道ターミナル駅で新橋ー横浜間の29kmで開業。その後、東京駅が開業(1914年)するとターミナル機能が東京駅に移り、「汐留駅」と改称し、貨物駅へと変わりました。1923年の関東大震災では当初の駅舎は焼失、1934年にはプラットフォームも解体し、1986年には貨物駅としての役割を終わり廃止されました。1991年に土地の再開発のための発掘調査が行われ、1996年には鉄道発祥のち地としての国の史跡として再建されました。
日本での鉄道最初の開業は、新橋ー横浜間と言われているが、実際は現在の駅名間ではなく新橋停車場は場所としては旧汐留駅と横浜も桜木町駅でした。

旧新橋停車場展示室の近くに、アドミュージアム東京に立ち寄りました。日本唯一の広告に関するミュージアムで電通本社の隣のカレッタ汐留の地下2階にありました。
〇「広告は豊かな社会をつくる」
これは日本の広告界の発展に情熱を傾けた電通第4代社長・吉田秀雄氏の言葉です。吉田秀雄氏は、社長就任時に3つの施策を打ち出した、①商業放送の設立②クリエーティブ技術の向上③マーケティング理論の確立で、民放開局は彼の力によるところが大きい。電通の飛躍的発展をもたらし、世界有数の広告代理店に成長させた。また、広告業全体の社会的地位の向上に全力を尽くした。社内では「鬼十則」を作るなど広告の鬼と呼ばれていた。
吉田氏の没後の1965年(S40)、電通と吉田邸からの出資で「公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団が創設された。「アド・ミュージアム東京」は記念事業団の事業の一つでもある。
展示は、江戸時代の広告黎明期の資料展示に始まり戦前、戦中、戦後と時代ごとの世相・風俗に関する展示、タッチ式大型モニター、視聴ブース、広告に関する図書館が利用できる。

江戸時代は、「店売り」発達し「土用丑の日」の張り紙等の行事の表示があったようです、革新的な商売、斬新な広告手法で大繁盛した呉服店もあらわれました。また天秤棒による「棒手振り(ぼうてふり)」など盛んで、特徴ある「ラッパ」や「売り声」により買い求めることが多かったようです、いまでいう移動販売です。

日本初のヌード写真ポスター
1922年(T11)のポスターで赤玉ポートワインは最大のヒット商品です。

「広告の冬の時代」と「焼け跡に希望をともした戦後の広告」

(左)広告も満州事変後は、プロパガンダの一翼を担うようになり、国民の士気を高めるため利用されてきました。
(右)「映画スターが時代の顔に」戦後初の多色刷りのポスターで「東京物語」等の映画で人気の女優・原節子がモデルで、平和な時代を感じさせます。原節子は、資生堂のイメージガールとして活躍しました。

なつかしい東京オリンピックの広告


オリンピックのポスターは、躍動感溢れ多くの国民が感動したと思います。また、「男は黙ってサッポロビール」のキャッチフレーズは言葉の広告での大きい力を感じさせました。

また、企画展示も行われています。ここで新橋駅東側の散策を終え、ガードを通り西側に行く。

〇なぜ?ここに「日比谷神社」
東新橋交差点角地にわずかな敷地に盛り土の上に建つ神社ですが交差点角地のため目立つ神社です。創建年代は不明のようですが、元は名の通り日比谷公園の大塚山に鎮座しておりましたが、江戸城の拡張のため芝口(現在の東新橋)に移り、さらに明治時代、鉄道(東海道線)の敷設に当たり移り、2009年には計画道路の予定地に入ったことから現在の東新橋2丁目の国道15号(第一京浜)の交差点に遷座した、こんなに場所の変わった神社もないのでは。日比谷神社は、別名を「鯖稲荷」といい、「旅泊(さば)稲荷明神」と呼ばれている。
新橋駅の方に進み、「烏森神社」へ

〇人気の「烏森神社」
烏森神社縁起によれは天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷が武蔵野国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって乱を鎮めることができため感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。それが現在地である旧桜田村の烏森神社の始まりである。
癌封じで有名な神社で有名人も訪れているとのことで、訪れた時も列が出来ていました。また、御朱印、お守り、おみくじはカラフルであることでも有名です、これも企業努力(いや神社努力!)かもしれません。

〇美しい建築物・堀商店
TVでも放映された堀商店。堀商店は明治時代に創業、当初は、欧米より最新の錠前・建具金物・暖炉金物を輸入販売、大正に入ってから、錠前・建具金物・船舶金物などの製造などオリジナリティのある製品を開発し現在にいたっています。
周りの建物がどんどん建て替えられているのに何と風格のある建物でしょう。昭和7年に建てられた堀ビルは、1998年(H10)に登録有形文化財となっている。外観は角を大きくアールを窓とって、縦長の窓が並んでる、多数の細い溝の模様があるスクラッチタイル貼りでモダンな感じである。建物右手にある階段から塔屋の縦のラインはヨーロッパ中世風でありトカゲの飾りも珍しい。四つ角の角にこうした昭和初期の建物は目立つ。

堀商店前の通りに「新橋赤レンガ通り」というペナントがありました。江戸時代から明治にかけて火事が多く、明治5年の和田倉門外からの火災で銀座・築地一帯が焼失、明治政府は東京府に対し火災を免れるためレンガを使って建築kする方針を決定。「新橋赤レンガ通り」の名の由来は、この通りに赤レンガ造りの「清隆館」という勧工場が出来たことが由来と言われています。

散策の終わりに「ニュー新橋ビル」に立ち寄る。新入社員当時に開業したビルのため思い出のビルでもある。特徴ある格子状の外壁がモダンさを感じ、いまでも通用するビルと思う、内部は飲み屋が多かったように思ったが、現在は金券ショップ、占い、マッサージ店が目立ちます。50年たち再開発の計画があるようですが、サラリーマン時代の思い出の地でした。


                                                          
【参考資料】
・ウィキペディア
・旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
・アド・ミュージアム東京
・港区観光協会
・公益財団法人 吉田秀雄記念事業団
・雑学ネタ帳
・江戸史跡散歩
・トラベルJP
・Visiting-japan.com
・ぼくの近代建築コレクション
・新橋ネット
・日本経済新聞社

 《その他のPhoto》 
汐留付近は、もとは葦の生い茂る海辺で、江戸時代初期に埋め立てられました。この付近にあった土橋に堰を設けて、海の干満が外堀に入らないよう防いだことから「汐留」という地名が生まれたようです。

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「東京のおへそ・国分寺」を巡る散歩

2024-04-23 18:55:17 | 日記

東京都の多摩地域中部に位置する国分寺市は、東京都の中央部に位置し、武蔵野台地の上面は飲料水の得にくい乏水性台地、下面は湧水を得た森林の豊かな地域で石器時代には人間の生活の場所であり遺物も発見されている。市域の大部分を占める高台上の平坦地である武蔵野台地と、国分寺崖線を境に一段低い立川台地、及び高台を流れる野川(上流)でできている。乏水性台地も享保年間(1801~04)になって新田開拓が短冊型地割でおこなわれた。

地名の由来は、741年に聖武天皇の命により建立された国分寺(武蔵国分寺)がこの地にあったことに由来する。
国分寺市は、古い歴史と比高差のある地形を有する市である。今回の立ち寄り先は、殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園、お鷹の径、真姿(ますがた)の池、国分寺を中心に巡る。
JR国分寺駅を下車する。

〇殿ケ谷戸庭園
名称の「殿ヶ谷戸」は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名に由来する。殿ケ谷戸庭園は、9つある「都立文化財庭園」の一つである。多摩地域で唯一の「都立文化財庭園」である。大正2年(1913)、武蔵野の自然に目を向けた満鉄副総裁の江口定條はススキ野だったこの辺りを庭園にした。昭和4年(1929)に岩崎彦彌太に売却、そして昭和49年に東京都が買収し現在にいたっている。     
国分寺(1913)崖線と呼ばれる段丘崖と豊富な湧水を巧みに生かして築かれた。回遊式林泉庭園と言われ様々な木々が植えられ園内は周遊順路となっている。何と言っても他の庭園と違うところは武蔵野段丘の国分寺崖線(段丘崖)と、その下端部の礫層より染み出る湧水。その湧水を蓄えた「次郎弁天池」を中心とした和風庭園で、茶室「紅葉亭」や展示室もあり庭園を詳しく知ることができる。
国分寺市の散歩コースに歩いて「お鷹の道」と「真姿の池」に向かう。

〇「お鷹の径」・「真姿の道」
途中、不動橋という小さい橋がありました。国分寺街道沿いの不動橋は、元町用水と野川の合流点に位置しています。かつては野川にかかる石橋だったことから、北側に石橋供養塔があります。供養塔の西側には庚申塔と不動明王碑もあり、このことから昭和47年に不動橋と名称が決まりました。
※野川の源流は、駅の反対側にある日立製作所中央研究所敷地内にあります。


「お鷹の道」は、江戸時代、一帯が尾張徳川家の御鷹場だったことから名付けられました、清流沿いの風情ある約400m程の遊歩道である。
「真姿の池」は、不治の病に苦しんだ玉造小町が病気平癒のため国分寺を訪れ池で身を清めたところ、病が癒え元の姿(真姿)に戻ったことから「真姿の池」と呼ばれるようになったそうです。
湧水とは、こうした地形・地質でできるとという教科書的な場所でもあり、国分寺はこうした湧水が多くある。

〇旧本多家住宅(長屋門・倉)・武蔵国分寺跡資料館
「お鷹の道」を西に向かうと「旧本田家住宅長屋門」が見えてくる。長屋門からから入ると左手に倉、そして右手に「武蔵国分寺跡資料館」が敷地内にある。


・国分寺跡資料館
資料館から見学する、館内には市内の遺跡の出土品、文字瓦を中心に展示、国分寺跡の復原模型など。復原模型がないと全体の大きさがわからない。
・旧本多家住宅倉(市重要有形文化財)
倉は、木造2階建て切妻造鉄板の置き屋根で、1708年の創建、いくたの改修により現在は、モルタル洗出しとなっている。

・旧本多家住宅長屋門、倉(市重要有形文化財)
代々国分寺村の名主であった本多家の長屋門と倉が残されている。長屋門は表門としての役割と先代当主の隠居所として江戸時代末期に建築された。幕末から明治時代には、分家の本多雖軒(すいけん)が村医を開業し、教育や書画などを多方面に活動する拠点として利用し、大正時代には以降には養蚕もおこなっていた。長屋門の2階は展示室として昔の道具類が展示されている。一般的に長屋門は、物置や使用人の部屋だったするが、使用目的が珍しいし内部まで公開してくれるのはありがたい。 

〇国分寺
奈良時代の中ごろ、天平19年(741)に聖武天皇は鎮護国家を祈願して、僧寺と尼寺を「国分寺」として全国60余国に建立。国分寺の建設地については、仏教考古学者で元奈良国立博物館長・石田茂作氏によると、

地理的条件 
   ①国華として仰ぎ見るのによい地形
    ②水害の憂いなく長久安穏の場
    ③南面(向)の土地
都市計画的条件
   ④人家の雑踏から離れている
   ⑤人の集合するのに不便でなく、交通至便の地
   ⑥条里制区画(六町四方を一里とする方形地割にもとづく土地制度)の拘束を甘受すること
政治的条件
   ⑦国府(役所)に近いところ(国司が国分寺を監督したことによる)

により国分寺が選定された。

※国分寺の恵まれた環境を利用して武蔵国分寺が建立される適地となった。武蔵国府の所在地であった府中市の北2Kmのところに武蔵国分寺が建立された。その面積40万㎡と推定され往時は奈良の東大寺に次ぐ大堂塔がそびえ、東国の文化の中心地の構えであった。しかし鎌倉時代の戦乱のため武蔵国分寺は七重の塔とともに焼失し再建されることはなかった。
武蔵国分寺の遺跡は、東西1500m、南北1000mの範囲に及ぶとみられ、現在なお調査研究が進められています。遺跡は歴史公園として整備されているが、武蔵国分寺を知るには「武蔵国分寺跡資料館」でのみである。

〇国分寺楼門
国分寺門前にあり、前沢村(現東久留米市内)の米津寺(米津出羽守田盛の菩提寺として創建された寺)の楼門を明治28年に移築したものです。三間一戸の楼門で、2階には十六羅漢像(現在13体)を安置しています。

〇万葉植物園
万葉植物園は、万葉集に詠まれている植物を集め、往時をしのぶよすがにと国分寺前住職星野亮勝氏により 、造られました。現在、市の天然記念物に指定されています。
園内には昭和25年から現在まで、当地で栽植可能なすべての万葉植物を独力で採集し、丹精して育て、植物ごとに例歌を記した説明板があります。国分寺が栄えた時代に編さんされた「万葉集」の歌の題材となった植物が、現在約160種あります。

〇国分寺仁王門・薬師堂
国分寺境内にあり、建武2年(1335)に新田義貞の寄進により、僧寺金堂跡付近に建立されたものが、宝暦6年(1755)ごろに現在の場所に建て替えられました。
堂内には重要文化財の木造薬師如来坐像が安置されています。また、江戸の書家、深見玄岱が東大寺の寺額を模して書いたといわれる「金光明四天王護国之寺」の寺額が掲げられています。薬師堂の裏には、四国八十八ヵ所巡り石仏群があり、札所の番号や詠歌などが刻まれています。
現在は毎年10月10日にご開帳をしています。

歴史ある街は、それなりに整備されていて13万人都市の中では生活満足度が高いのではないか、しかし高低差のある生活は移動では大変である、今回も歩いてそれを感じた。


【参考資料】
 ・ウイキペディア
 ・巡検コースガイド「地図で歩く東京」東京都地理教育研究会・東京私立中学高等学校地理教育研究会
・国分寺市
・国分寺市教育委員会
・殿ヶ谷戸庭園
・国分寺跡資料館

《その他のPhoto》

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桜が満開

2024-04-07 18:48:45 | 日記

例年、桜は早く開花するが、今年は今がお花見の時期。小・中学校の入学式にピッタリ合わせた開花となった。
散歩コースの河川敷もビニールシートを敷いたお花見の光景も・・・

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銀座の神社と銀座楼蘭のランチを楽しむ散歩

2024-03-22 16:08:24 | 日記

3月の「退職者の会・日帰り散歩サークル」の企画は、銀座の小さな神社や史跡を巡り、昼は新装になった銀座楼蘭のランチを楽しむということになりました。
「退職者の会」の銀座巡りは、10年ぶりとなりました。10年前にブログにUPした「銀座の神社巡りと浜離宮」(2014・02・28)も参考にしてください。

歌舞伎稲荷神社
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宝珠稲荷神社
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三吉橋
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安平神社
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朝日稲荷神社
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奥野ビル
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龍光不動尊(松屋銀座店)
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銀座出世地蔵尊(三越銀座店)
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昼食・銀座楼蘭
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豊岩稲荷神社

☆歌舞伎稲荷神社
10年前と同じ地下鉄日比谷線・東銀座駅で下車、歌舞伎座の出口で地上へ、歌舞伎座の角に祠がありました。「歌舞伎稲荷」は、近隣の安寧や歌舞伎興行の大入り、安全、お客様や舞台関係者の平穏無事を祈願し祀られている。初日と千穐楽(せんしゅうらく)*1に「奉告祭」、例年二月に「午祭り」*2や、秋には「安全祈願祭」などを執り行い、興行や劇場の無事安全、此地や近隣の平穏安寧を関係者一同で祈願している。
*1 江戸時代の芝居小屋は、木造だったためよく火事で焼失してしまい、建て直すまで芝居ができなくなるため、「秋」の字の「火」をきらって「穐」という字を使ったのです
*2 稲荷社の祭の日である2月の初午をいう。

☆宝珠稲荷神社
1615年に屋敷神として家内安全、火除けの神として祀られたことに始まる。明治維新後に地元の木挽町3丁目氏子に寄進され現在にいたっている。

☆三吉橋
ここまで来ると近い駅が地下鉄「新富町駅」で、橋を渡ると中央区役所がある。デザインが古そうな橋で、「三吉橋」とある。関東大震災の復興事業の一環として、1929年(S4)に架橋されている。当時ここには築地川が流れ、川筋を荷を運ぶ船や屋形船が行き交い、川を中心に人々の生活が営まれる情緒ある風景があった。高度成長になると川が埋め立て*3られ高速道路が通り、今では陸橋となっている。三吉橋の特徴は、「Y字型の三又橋」で橋の袂からでは気がつかなかったが、築地川の水路の関係で橋の中央付近から左右に分かれている。
*3  1962年(S37)交通量の増大、オリンピックなどで埋め立てられたが。車の騒音問題が発生した。高速道路に今では錆びた屋根のようなものが懸かっているが、防音壁で対応している。
三吉橋は、小説にもなった橋です。三島由紀夫の作品では珍しく花柳界を扱った短編小説「橋づくし」(1956年発表)。中秋の名月の夜、家を出て七つの橋を渡り切るまで口を利かずにいられたら、望みがかなうと、願を掛ける4人の女性の物語。舞台は、東京都中央区の銀座・築地の橋でl、三吉橋が最初に出てくる。

☆安平神社
この神社も江戸時代の屋敷神から料亭に所有が移り、最終的には料亭がマンション・銀座タワーとなり神社が片隅に取り残されました。神社の詳細に関しては不明のようです。

☆朝日稲荷神社
前回のブログも参照してください。大変珍しい神社です。
手水に、なんで虫がいるのだろうと思っていたら、ミツバチとの事。近所のビルの屋上で飼育していて手水の水を飲んでいるようです。2006年から銀座周辺で働く有志で「銀座ミツバチプロジェクト」を結成しビルの屋上でミツバチを飼う活動をしていて販売もしています。

☆奥野ビル
昭和初期のビルがありました。銀座空襲で「鳩居堂」「教文館」「泰明国民学校」などに被害があったなか、90年以上の時を刻み、今なお愛されるアパートメント建築。外観をはじめ、エレベータ^や階段など、アパート建築の特徴が良く残されいます。建築当初から希少であった銀座の集合建築がほぼ唯一残る、現存建物として貴重である。多くのアーティストが建物を愛し、今もアトリエやギャラリーに活用されています。1932年(S7)に本館、1934年(S9)に新館が建てられましたが、本館と新館は左右対称となっています。建設当初は6階建てでしたが、何度かリノベーションをし現在は地下1階~7階建てとなっています。設計は、関東大震災復興期の先進的な集合住宅の建設で有名な「同潤会」の建設部長・川元良一氏が設計しました。当時は、民間の建築物で初めてエレベーターを設置するビルで共同浴場、洗濯場を備えている。
※エレベーターは、我々の年代では懐かしい手動式です。今はドアの開け閉めのみ手動で、運転は自動となっています。
大変趣のある有名な建物でドラマなどの撮影に良く用いられるようです。今では外国に見られる古い建物ようです。

☆龍光不動尊(松屋銀座店屋上)
前回のブログを参照してください。

☆銀座出世地蔵尊(三越銀座店屋上)
三越銀座店の屋上には、立身出世、開運に御利益がある出世地蔵尊と三井家の守護神である三囲神社が祀られている。

☆昼食・「銀座楼蘭」   
新装となった「銀座楼蘭」での会食となった。いつもグループの昼食場所に苦労している幹事Mさんに予約していただき豪華個室でのランチとなった。参加者皆、ランチに満足して、こうした企画をもっとと好評。     
アルコールも入りゆったりしたせいか、豊岩稲荷神社で帰ることに。

☆豊岩稲荷神社
この神社も前回のブログを参照して頂きたいが、この神社は特に縁結び御利益があると全国から訪れるそうです。現在では、商売繁盛、入試・入社試験の合格祈願も縁結びだと多くの参拝者が。

日本の神社の数は、8万8千社以上あるといわれている、神社は日本で最も多い宗教的文化建築物の一つとなっています。今なお発展・進化する銀座に神社やお寺のイメージがないが、以外に小さい神社が存在する。私が銀座ならではの神社で、珍しく訪れてはと思う神社は「朝日稲荷神社」と「豊岩稲荷神社」である。都市開発計画のなかでも片隅に存在し住民の心の支えとなっている。

【参考資料】
・ウイキペディア
・歌舞伎座
・中央区役所
・銀座なび
・TokyoBridge Walk
・東京新聞
・Trabel Book
・神社人

《その他のPhoto》

 

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旧安田楠雄邸庭園と千駄木周辺の散策

2024-03-05 14:01:02 | 日記

千駄木の高台エリアには森鴎外の旧居跡などがあるが、その周辺には「旧安田楠雄邸庭園」や「島薗邸」など大正・昭和初期の邸宅が残っているとのことで、最寄り駅である地下鉄千代田線「千駄木駅」で下車する。
地上に出ると目の前に「団子坂下」とあり、団子坂を上がって行ったところ、前に訪れたことがある山岡鉄舟ゆかりの寺「全生庵」があり再度訪れたが、途中、坂名案内表示に「三崎坂(さんさきざか」とあり、、逆に来てしまったことに気が付き戻る。
なお、「三崎坂」の由来は、諸説あるが、駒込、田端、谷中の三つの高台にちなむとあった。
※前回、訪れた谷根千については、『「谷根千」界隈の散策  2014.11.17』を参考に。

千駄木駅にもどり反対側の坂道を上がる、坂を上がったところに団子坂上の表示があり、右手に行く。

やっとのことで「島薗邸」に到着。「島薗邸」は、現在、定期的な公開はしてないようで公開日についてはインスタグラムを見てほしいとのことでした、外観だけ写真を撮り「旧安田楠雄邸庭園」に行く。

§島薗家住宅§
生化学者の島薗順雄氏が結婚を機にドイツ建築に造詣の深い建築家・矢部又吉に依頼し建築しました。内部を拝見できないのが残念です。設計・矢部又吉 竣工・1932年(昭和7)

§旧安田楠雄邸庭園§
立派な門を通り玄関へ大邸宅なのがわかる。この建物、旧安田邸となっているが、元々は豊島園の創業者である藤川好三郎が木造2階建てを建設、その後旧安田財閥の創始者の女婿安田善四郎が買取り、長男の安田楠雄が1995年に他界するまで大切に継がれてきました。応接間に隣接しているサンルームが特徴で、奥の和室に向かう廊下にも庭を愛でるための大きなガラス戸が続き、2階にも格式ある書院造りの客間があり、四季折々の美しい景色が眼前にせまり、各部屋から楽しめるよう建築されています。設計・清水組(現・清水建設)竣工・1919年(大正8) 大震災・空襲を潜り抜けた貴重な建築である。


      
①玄関
この家の当主と格の高い客が使用する正玄関。大きな沓脱石に板敷きの式台、格天井など格式のある造りになっている。玄関の右手には、昭和初期に普及したダイヤル式電話が残る。

②-A応接間
造作材や家具にクルミ材を用い邸内唯一の洋間。
壁のクロス・カーテンは創建当初のもの。家具や暖炉まわりの柱には動物のレリーフが彫られている。蓄音機は大正12年(1923)製造のビクトローラ製で、ピアノは昭和5年頃のヤマハ製。

②-Bサンルーム
ガラス戸を巡らせた明るい室内から奥行きのある主庭と中央党を望むことができる。床はパズルのようなはめ込み式のゴムタイル貼り。(復原)

③-A残月の間
一間四方(約1.8mX1.8m)の床の間と書院が備えされた客間。床の間に合わせ誂えられた安田家の節句飾りは日本橋にあった三代目・永徳齊の作品。座敷から見る主庭は、石の滝組と池を枯山水で表している。

③-B広縁
木目の美しい杉の化粧天井で、一部は網代が使われている畳をあげると地下へ続く階段があり地下へ続く階段があり、防空壕へとつながる。防空壕は、天井がコンクリート壁は大谷石積み。

④茶の間
家族のための部屋で床の間の意匠など格式ばらない造り、深い庇と濡れ縁がまわり、猫間障子と呼ぶ戸の小窓からも座敷とはまた違う角度で庭を望める。押し入れの中は水屋が造られ、天袋の桐の引き戸には墨絵が描かれている。

⑤台所
天窓がある明るい台所は、当初土間だったが昭和4年に床を張り、当時、最先端のキッチンに改造された。配電盤下の配膳棚は使用しない時はたたむことができる。レンガ壁で囲まれた一角はガスボイラー置き場で浴室へ給湯していた。

⑥化粧室・浴室
脱衣所を兼ねた化粧室には髪を洗うための流しが設けられている(現在は蛇口無し)浴室壁にはシャワーが取り付けられ、浴槽は小さく作り替えられている。無双窓や天井の換気口から湯気を抜く工夫がされている。

⑦二階予備室
床の間は天井際に板を渡し竹釘を打った略式の「綾部床」。庭側は雪見障子で庭を見下ろすことができる、押入れの襖は松原の模様が雲母の粉で型押しされている。

⑧二階客間・次の間
書院造の最も格式の高い座敷。一間半の床の間右に違い棚、左に出書院がある。縁側からは庭のしだれ桜を間近に望むことができる。二階の畳の藳床は創建当初のもので、高度の手縫いの技法で作られている。

庭園と建物の好配置や大正浪漫を感じさせる和洋折衷の内部、調度品を含め、保存状態が良く四季折々に風情を感じられます。他の季節にも訪れてみたくなります。

帰りに駅に向かっていると変わった建物で駒込大観音というお寺がありました。
 
§駒込大観音§
正式名称は、浄土宗・光源寺で元々は神田にあったお寺で1648年(慶安元年)に移転した。1589年(天正17)の開基し、「江戸名所図会」にも描かれているお寺です。変わった建物というのは、十一面観音像が安置している建物でした。現在の観音像は二代目で初代は戦災で焼失し48年後の1993年(平成5)に再建されたものです。


【参考資料】
・ウイキペディア
・旧安田楠雄邸庭園
・公益財団法人日本ナショナルトラッスト(JNT)、たてもの応援団
・「山手線の名建築散歩」和田菜穂子著 発行:エクスナレッジ
・文京区立真砂図書館


《その他のPhoto》

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