爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

駅ハイー鴻巣歴史散策と「鴻巣びっくりひな祭り」

2025-02-28 15:42:10 | 日記
一度、雛人形のビラミッド状に飾る「びっくりひな祭り」を見てみたいと思っていたが、たまたまJR東日本の「駅ハイ」の企画があり、参加した。鴻巣市というと「運転免許センター」と「人形」の町のイメージであるが、その鴻巣市も「市制施行70周年」とのことで、今回の「駅からハイキング」も記念企画となっている。

□鴻巣市の概要□
埼玉県中央部に位置する市で人口は約11.6千人。
西部を「荒川」*1、南東部から中央部にかけて「元荒川」が、北東部を「見沼代用水」が流れ、中央部は大宮台地に位置する。市の標高が約10mから25mと歩いていても標高差が気にならない。市内の直下には中央構造線に関連した綾瀬川断層があります。

鴻巣市は、江戸時代に整備された中山道7番目の宿場町(日本橋から数えて)*2として栄え発展し、現在は東京から約50km圏内で住宅衛星都市となっている。産業は、稲作や花卉栽培*3が盛んであり、江戸時代からの続く「ひな人形」(鴻巣雛)の産地である。鴻巣市の地名の由来は、諸説あるようですが、かつてこの地に无邪志国(むさしのくに)の国府が置かれたことから、「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「こうのとり伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったと伝えられています。
 
*1ー川幅日本一
*2ー鴻巣宿は、元々、隣の北本市に位置していたが、江戸幕府の宿駅整備に伴い、それまでの鴻巣宿より北の、市宿新田に移設された。
*3-ポピーの栽培面積が日本一


§鴻巣市の日本一§
①日本一長い水管橋(全長1100.95m)
②日本一高いピラミットひな檀(31段で7m)
③川幅日本一(荒川 2,537m)
④1分あたりの尺玉以上の花火打上数(1分間平均約75.5発)
⑤ポピーの栽培面積日本一、面積12.5haで東京ドーム2.5個
⑥プリムラ⑦サルビア⑧マリーゴールドの出荷量日本一(2006年度)

JR大宮駅で高崎線に乗り換え、「鴻巣駅」で下車する。今回の企画、鴻巣市の中心街を巡って5km、所要時間約2時間30分となっており、高齢者向けのコースとなっている。それでも、コースの一部をカットしてしまった。

(1)勝願寺鎌倉時代創建の古刹、関東十八檀林*4の一つであり徳川家の庇護を受けて栄えた寺院です。今でも徳川家の家紋「三つ葉葵」を見ることができます。本堂と仁王門は明治15年(1882)の火災により焼失後に再建されたもの。惣門に「栴檀林」の額がかけられている。「宿泊のため訪れた加賀藩前田家一行が「下馬札」を見落として寺僧が追い返した」とか「槍を立てたまま通行しようとしたため、寺僧が槍を取り上げた」という逸話が残されている。
境内には、徳川家家臣で本多忠勝の娘で、真田信之の正室である小松姫の墓石や伊奈忠治夫妻と伊奈忠次夫妻*5の4基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。伊奈一族の治水・大改修は、江戸水運の土台を築くとともに河川の付け替えや水田地帯の開発を行い、現在の東京の基盤を作りました。

*4ー檀林とは栴檀林(せんだんりん)の略語で、僧侶の集まりを栴檀の林にたとえた寺院の尊称で仏教の学問所を意味し、多い時で600から800人ほどの学僧が学びます。
*5-400年ほど前に、伊奈備前守忠次が埼玉県伊奈町に陣屋を構えたことから、伊奈氏の功績から伊奈町と命名した。



お寺を出て、「ひなの里通り」を南に進み旧中山道に入り北に進み「広田屋人形」店と鴻巣市産業観光館「ひなの里」を見学する。
(2)広田屋人形
広田屋は、人形のふるさと鴻巣で一番大きなお店です。250坪の広い展示場にたくさんのお人形を展示。
スタッフさんのお話では、少子化や住居の関係でコンパクトな雛飾りの需要が多く、飾り台が収納ケースになるものに人気があるようです。
※ひな人形と共にギネスに登録された日本一の大玉が陳列されていました。
 
(3)鴻巣市産業観光館(ひなの里)
鴻巣市人形町に開設し、伝統工芸であるひな人形や赤物の展示、中心産業の花卉栽培や川幅グルメなどの特産品の紹介及び販売、観光案内などを行っています。「鴻巣びっくりひな祭り」期間中は明治期築造の蔵にて、鴻巣びなとつるし雛を展示しています。施設は、江戸時代から続く老舗人形店の資料館が閉店のため寄贈したもので、明治時代の蔵は埼玉県の景観重要建造物に指定されています。
鴻巣宿の時代から農間期の農民の余技でこしらえてきて、天正年間に京都伏見の人形師が移り住んで豪華な衣装で着飾った古代雛が作られるようになり、人形産地として知られ、「鴻巣雛」あるいは「鴻巣人形」と言われる400年の歴史を持つ伝統工芸品となっている。近代関東三大ひな市(鴻巣、越谷、江戸十軒店)の一つに数えられている。埼玉県は、ひな人形の出荷額が日本一の県。江戸時代に日光街道や中山道の宿場町として栄えたことに加え、豊富な水源があったこと桐などの材料に恵まれていた。

※ひな祭りの由来 ひな人形の起源は、中国の「上巳節」という3月初旬の節句と言われ、季節の節目に悪いことが起こらないように、厄払いの行事が、平安時代中頃にもともと紙人形を作って海や川に人形を流し、身のけがれをおはらいする行事からきているといわれてます。江戸時代になると幕府により5つの節句が制定され「端午の節句」や「桃の節句」には男の子や女の子の成長を祝うようになり、流すものから飾るものへと変化しました。職人の手により、人形作りの技術も発展し、ひな人形も美しく精巧なものへと変わりました。


さらに旧中山道を北に歩き、鴻巣宿本陣跡・法要寺・鴻神社に立ち寄る。
(4)鴻巣宿本陣跡
本陣跡と言っても他の宿場町と同様に「碑」が建っているだけで、周りを見ても想像がつかない、碑がなければ通り過ぎる。ここに、1843(天保14)年には人口2274人、戸数566軒であったと記録が残っています。


(5)法要寺
加賀藩前田家が参勤交代の際の宿所としたことから、前田家と同じ梅鉢紋が使用される室町時代創建の寺院。鴻巣市の指定文化財となっている庚申塔をはじめ、彰義隊士関弥太郎などの墓があります。
※加賀藩前田家の宿所は、当初、勝願寺であったが宿泊を拒否され法要寺となった。前田家は、それに感謝し堂の改築費用を出し、前田家の家紋を使えるようになった。



(6)鴻神社
鴻巣宿にあった氷川社・熊野社・雷電社を明治6年(1873)に合祀、その後、明治35年(1902)に日枝社・東照宮・大花稲荷社・八幡社を合祀して、現在の鴻神社と改め現在地に移転した。合祀した氷川社は、鴻巣郷総鎮守として広く崇敬をあつめた古社、また、「鴻巣」の地名の由来の一つ、こうのとり伝説の由来となっている。  
鴻神社の樹齢500年以上と言われる「夫婦銀杏」は夫婦円満・子宝にご利益があると言われています。訪れた日は、着飾った子どもと両親がお参りしてましたが、2月と3月の午(うま)の日に行っている「初午祭」なのでしょうか。



いよいよコース最後は、「鴻巣 びっくり ひな祭り」メイン会場です。この企画のメインでもあります。「エルミこうのす」というショッピングモールの吹き抜けを利用した。高さ約7m、31段のピラミッドのひな檀」(2012年に1807体の人形が飾られた)はまさに日本一、このピラミッド型の飾りも20周年迎えマスコミにも取り上げられたこともあり込み合っていました。



【参考資料】
・「駅からハイキング」配布資料
・ウイキペデア
・鴻巣市役所
・鴻巣市観光協会
・埼玉新聞
・荒川上流河川事務所
・勝願寺
・法要寺
・広田屋人形
・鴻巣市産業観光館「ひなの里」
・エルミこうのす
・にほんご日和

《その他のPhoto》
城下町と同じように宿場町も古い商家が残っていることが多いが、鴻巣市も残っているほうです。
 
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ふぐ料理で新年会

2025-02-03 20:23:30 | 日記

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駅ハイ 歴史・自然・文化のまち、佐倉 ~坂道を越え、城下町を巡る~

2025-01-25 21:04:09 | 日記

今回のJR「駅からハイキング」は、佐倉市を巡る企画に参加しました。自宅から1時間半かかる佐倉市、JR総武線も千葉駅を過ぎると田園風景となる、車窓から小さい丘陵を眺め、、目的地の佐倉駅に到着。

§佐倉市の概要§
佐倉市は、千葉県中部に位置する人口約16万5千人の市で千葉県で10番目に人口の市である。千葉市と成田国際空港の双方から15Kmの中間地点に位置する、東京の都心から約40KmでJRと京成の二路線が通り近年住宅開発が進んでいる。
小田原や川越と並び、江戸防備の要として重要視された佐倉城は、房総最大の城下町である。佐倉藩(11万石)の城下町の後も軍都として栄えた。市内には佐倉城跡、武家屋敷群が整備されている、また、「国立歴史民俗博物館」などもあり文化都市の面も有する。佐倉順天堂を中心とする蘭学の先進地で「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれ西洋医学の街でもある。
地形的には、下総台地(北総台地)の中央に位置し、南東から北西に向かい緩やかに傾斜している台地と、台地を侵食した谷津から成り立っている,
標高が30~35mとなっている。北部には印旛沼と調整池があるが、佐倉市の河川は印旛沼地域に流れている。

観光情報センターで受付と資料を頂き、武家屋敷方面に向かいます。途中、小さい公園の中に正岡子規の碑がありました。子規の歌碑については城址公園内にもあるようですが、子規と佐倉市との関係については、新聞記者時代に総武本線開通(明治27年12月)した際に取材で訪れ詠んだと言われています。句碑は、「霜枯れの佐倉見上ぐる野道かな」子規、佐倉駅から城を見て、城に行く途中が宅地化され淋しい気持ちにさせると詠んだようです。

配布された地図により、傾斜地を上がり「ひよどり坂」(サムライの古径)に京都にも竹林の道があるが、佐倉市の「ひよどり坂」も趣があって良い、木々の間から心地よい日差しが降り注ぎます。


「ひよどり坂」を上がると武家屋敷の通りに出る、右手に大聖院がある、鎌倉時代に開山したお寺で、佐倉七福神の布袋尊・大黒天をお祀りしている。


公開している武家屋敷は3軒あるが、旧河原家住宅が受付場所となっている。武家屋敷3軒は、
          〇旧河原家住宅
          〇旧但馬家住宅
          〇旧武居家住宅

(1)旧河原家住宅
佐倉藩士でも上級武士の屋敷とのことで、部屋数を見てもうかがえます。建築年代は不明ですが、最も古い建築様式と言われ、千葉県の指定有形文化財となっています。





(2)旧但馬家住宅
旧但馬家住宅は、中級武士の住宅です。当時より現在の場所に建っていた武家屋敷です。佐倉市指定有形文化財となっています。





(3)旧武居家住宅
旧武居家住宅は、下級武士の住居だけあってコンパクトの印象です。1751~1830年の建築で1997年に移築しました。木造平屋建で建築面積76㎡。接客と生活空間を二列に分けた平面が特徴的。木柄の細い柱を一間毎に立てる古式を見せ、それぞれの列に入口を設けて武家住宅の特色をよく示し、表向きの割合が小さく、座敷には長押し*1を付けないなど、比較的小規模な武家住宅の遺構として貴重です。なお、移築にともない出土した品は住居に展示している。
*1長押し(なげし)ー部屋の壁全体をとり囲むように付けられる横木





この通りには、3軒の武家屋敷の他に「侍の杜」という緑地があった。2軒分の武家屋敷があった敷地を利用し、武家屋敷の庭園を再現したもので、当時の武士の生活が垣間見られる。


佐倉城はというと、城郭が残っておらず、もともと石垣もほとんどなく崖など自然地形を利用、また石垣の代わりとして、土塁を見ることができる。明治時代に入ると、陸軍佐倉連隊の駐屯地となり貴重な建築物がすべて破却された。

武家屋敷の見学を終わり、「くらやみ坂」を下るが、夜は通りたくない坂です。坂を下ると佐倉市民体育館の裏手に出ます、体育館前の通りの左にかつては大手門があった所です、現在は防災施設を兼ねた公園として整備されております。

体育館の場所には、佐倉藩の3代藩主の堀田正睦(まさよし)が、いままでの藩校を1836(天保7)年、佐倉城追手門前(現佐倉市民体育館)に移転拡充し、「成徳(せいとく)書院」と改称した。温故堂は儒学を中心として小規模に運営されていたが、成徳書院では医学、武術、兵学、砲術その他いっさいの教育を行い、現在の総合大学に相当する教育機関となった。

次に麻賀多神社に向かうが、神社の前に「佐倉養生所跡」の碑がありました。佐倉藩の西洋式病院があった所です。幕末から明治維新まで開業しました、佐倉藩の西洋式医学の進展を考えるうえで貴重な場所です。
麻賀多神社
麻賀多神社は、佐倉藩の総鎮守として代々の藩主・家臣によって厚く信仰されました。現在の本殿は店舗14年(1843)に当時の藩主堀田正睦により造営され市の指定文化財になっています。


ここからは、佐倉城址公園・国立歴史民俗博物館へのコースを外れ、商家と佐倉市立美術館を重点に見学しました。城下町特有の鉤型に折れた道が多く、城を守るために配置されたのだろうが、今となって交通渋滞となっている。それでも古い商家を見ると当時の街並みに思いをはせらまする。
(1)旧平井家住宅店舗兼主屋・座敷棟・脇蔵
平井家は、江戸時代以来、の有力商家で文久8年(1863)の藩の記録にも御用商人として薪炭類を扱う平井屋儀兵衛の名があります。明治5年(1872)には、新制度の郵便御用取扱い人になり、佐倉郵便局の起源となっています。一時、休業の時期もありましたが、明治後期以降は酒屋を経営し、大手商家の勢いを取り戻しました。昭和33年に当主が高齢のため閉店、平成20年に遺族より市に寄贈されました。旧城下の町人地に位置し、店舗兼主屋の脇には蔵を建て、背面側に座敷が付属しています。店舗兼主屋は明治中期、座敷棟は昭和6年、脇蔵は大正6年の建築となっています。城址公園、武家屋敷の新町通りを結ぶ角地に建ち地域の歴史的景観に寄与しています。





(2)旧今井家住宅主屋
明治時代の1883~1897年建築、木造平屋建、瓦葺、建築面積60㎡の建物。旧佐倉城下の元呉服店で妻入り正面を寄棟造りとして深い下屋*2を付し、背面は切妻造り座敷棟に接続する。前面のミセは前土間とし、通り土間を持たず床上部から後方ので居住部に続く平面とする。佐倉の商家の佇まいを良く伝えている。
*2下屋(げあ)ー主屋から差し出してつくられた屋根。



佐倉市立美術館は、旧城下町の中心部に位置する。
♦佐倉市立美術館♦
施設としては、地下2階・地上4階建ての美術館である。正面のエントランス部分はクラシカルな雰囲気のレンガ造りの建物で、大正7年に竣工された「旧川崎銀行佐倉支店」(千葉県指定文化財)です。旧銀行と近代建築を合体させた美術館となっています。


美術館の近くには「夢咲くら館」という図書館:子育て交流センター・佐倉市の発信スポット・カフェ・佐倉を学ぶフロアーなどの複合施設がある。
佐倉市は、古さを感じる所が多く残されている反面、新しい佐倉市を模索する市政が感じられる。


このコース・歩行距離約9.0km、4時間(見学含む)となっているが、だいぶ個人的には立ち寄り先をカットしたが、コースを完遂しても見所が多く、時間が足りないと思う佐倉市散歩でした。

《参考資料》
・JR駅からハイキング資料
・佐倉市
・佐倉市観光協会
・ウイキペデア
・文化庁 文化遺産オンライン
・猫の足あと
・さくらぶ
・先端教育オンライン
・中高年からの歴史歩き街並み 逍遥(ロマン)編

【その他のPhoto】


                                                                                     武家屋敷通り
                    郵便ポストも「さくら色」
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駅からハイキングで紅葉を満喫

2024-12-08 10:17:30 | 日記
JR「駅からハイキング」の企画で、千葉県新松戸駅出発の~紅葉彩る寺院と戦国時代の城址を訪ねて~が行われて参加した。参加したと言っても、身体を考えて訪れるのを寺院の紅葉だけにした。北小金の本土寺・東漸寺を訪れた。

二寺のある小金地区は、古くから栄えた町で中世からの寺院や城跡が残り、江戸時代には「水戸街道」の宿場町「小金宿」が置かれた。この地に「小金」や「小金原」といった地名があるのは「下総台地」一帯には幕府の軍馬育成のための牧場「小金牧」が整備され、そのため「小金宿」には「野馬奉行」も置かれた。地名は、平安時代から江戸時代の終わりまで続いた野生馬の放牧地にちなんだもの。1889年(M22)、町村制施行により、旧・小金町を中心に周辺の村を合併、改めて小金町が誕生して以降、戦後まで単独で町として発展、1954年(S29)、東葛市を経て、松戸市に編入された。
♢本土寺♢
本土寺は、鎌倉時代の1269年に建てられた「法華堂」を起源とし、1277年、現在地の平賀(現・松戸市平賀)に豪族の屋敷内に移され日蓮上人の高弟日朗を導師として開堂がはじまったと伝わる。日朗が開創した「鎌倉妙本寺」「池上本門寺」と共に「朗門の三長三本」*1といわれ日蓮宗の由緒あるお寺である。
日蓮直筆の書状類をはじめ貴重な中世の資料を所蔵している。
境内には約5万株の「あじさい」が植えられ、「あじさい寺」の別名でも親しまれている。その他、参道には水戸光圀の寄進と伝えられる古松・老杉があり、ウメやサクラ、花菖蒲、コブシや藤、曼殊沙華、紅葉など一年を通じて常に見所がある。

















次にJR北小金駅の反対側ある「東漸寺」に向かう。駅近くの十字路に「小金宿」の案内板があった。それによると、この一帯は、約3万年前の旧石器時代には人が住み、約6千年前の縄文時代には、緑豊かな台地で暮らしていたようです。小金が形成されたのは鎌倉から室町時代と言われ、特に鎌倉時代、小金城主であった高城氏の支配の元、所縁の寺社、東漸寺(浄土宗)大勝院(真言宗)広徳寺(曹洞宗)等が城周辺に集められました。江戸時代には旧水戸道中の起点日本橋から数えて4番目の宿場町小金宿*2が栄え、名のある屋敷跡や旅籠が点在しています。
小金宿は、南北1km程の範囲に広がり家並みは1万件あまりで、宿場町としての規模は大きかったようで、周りには軍馬牧場の「小金牧」「小金城」「本土寺」「八坂神社」があり、重要性も高かったようです。
*1ー日蓮宗の大寺院でいずれも長と本の字がつくところからいわれた。
*2-水戸街道の起点は、千住のようで千住からは3番目の宿場のようです。


「小金宿」の案内板の他にもう一つ案内板がありました。「マツモトキヨシ創業の地」とありました。ここに1932年(S7)に「松本薬舗」として開業したマツモトキヨシ創業の地です。トタン屋根の古い民家からスタートした松本薬舗は創業者のアイデアで多くの人が集まる店となりました。「親切なお店」「良い品をより安く」をモットーにした創業の地とのことです。松本清氏は商才に長けて大手ドラグストアーにまでしましたが、政治家としても素晴らしい足跡を残した。松戸市長在任中、「市役所は『市民に役立つ・役に立つ人がいる所』を標語として、お役所仕事の打破と市民サービスの向上を目的として、日本初の即応部門「すぐやる課」を松戸市役所に設置し、全国的に報道されました。課の壁には松本氏の揮毫による書
すぐやらなければならないもので
すぐやり得るものは
すぐにやります

が掲げられている。
昨今、首長の質が取りざたされているが、首長の役割を学んでほしい。



♢東漸寺♢
540年の歴史がある浄土宗の寺院。1481年の創建で江戸初期には関東十八檀林*3の一つになり幕府の手厚い保護を受けて大いに栄えた。明治維新に伴う廃仏毀釈や先の大戦後の農地解放で一部の敷地を失うが開創500年事業により整備した。
*3-江戸時代初期に定められた関東における浄土宗の檀林(僧侶の養成機関)18ケ寺、増上寺・伝通院・霊山寺(東京)、東漸寺(千葉)などで、宗派の重要事、僧侶の養成を檀林のみで行う。










紅葉を満喫することができた、もみじの赤とイチョウの黄色が美しい、紅葉は、構図と陽の光によって出来栄えを左右するが、なかなか上達しない、出来の悪いのはカメラのせいにしておこう・・・

【参考資料】
・JR駅からハイキング資料
・松戸市役所
・松戸市観光協会
・ウイキペデア
・三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」
・本土寺
・東漸寺

《その他のPhoto》
〇本土寺






〇東漸寺

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重文・旧前田家本邸をめぐる散歩

2024-11-24 15:11:48 | 日記
京王・井の頭線の駒場東大駅付近に旧前田家の建物が残っているとのことで出かけた。JR埼京線で渋谷駅で乗り換え、渋谷駅構内は複雑で案内表示がないと京王・井の頭線に乗り換えできない。井の頭線は、渋谷駅と吉祥寺駅を結ぶ路線で京王電鉄の主要路線で関東私鉄の中で最初に冷房化率100%を達成した路線です。旧前田邸の最寄り駅である「駒場東大駅」で下車する、この駅は「旧東大前駅」と「旧駒場駅」とが1965年に統合されて出来た駅である。井の頭線は、路線距離が12.7Kmで17駅もあり区間距離から統合したようです。

旧前田邸に向かうと歩道に数人が・・・、覗いてみると半地下にパン屋さんかありました、「ル・ルソール」で美味しいパン屋さんのようでTVでも紹介されてました。 

 落ち着いた住宅街を通り「旧前田邸」に入ります。
♦なぜ?この地に前田家が♦
旧前田邸が駒場公園の一角にある建物と思われるが、明治期は、この一体は駒場農学校があった、その後東京帝国大学農学部となり、文京区本郷へ移転した。跡地には逆にそれまで本郷に屋敷を構えていた旧加賀藩主家の家族前田*1侯爵家が移住した。第16代当主である前田利為侯爵の駒場本邸として、1929年(S4)には洋館が、1930年(S5)には和館がそれぞれ竣工した。前田侯爵は、1942年(S17)に航空事故死すると邸宅は他人の手に渡り、戦後は米軍に接収され、接収解除される1957年(S32)までの12年間に連合軍司令官の官邸などとして使用された。その後、1964年(S39)に東京都の所有になり、1967年(S42)に東京都立駒場公園として開園、1975年(S50)に目黒区に移管された。

♦なぜ?旧前田家本邸(洋館)が建てられた♦
この家を建てた前田利為(まえだとしなり)は、前田家の武人としての伝統にしたがい陸軍大学校を卒業し、20代からヨーロッパに留学した。イギリスには長期滞在しこの館の設計当時は、駐英大使附武官を務めていた。その影響もあり建築様式は*2チューダー様式の洋館となっている。敷地内には洋館の他に広大な庭園、テニスコートや馬場、熱帯植物や果物、花を栽培する温室や畑、海外からの賓客をもてなすための和館と日本庭園、車庫がなども設けられ、前田家の家族6人のために約140人の使用人が働いていた。
※和館については、現在、庭園部分の工事で臨時休館中です。
*1ー当時の日本の華族制度は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵制となっている。
*2-約16世紀にイギリスのチューダー朝時代にで生まれ流行した建築様式、中庭のある構成、レンガ積みの壁、非相称な建物の配置、高い煙突が特徴、柱・筋交い、梁などの骨組みが外部に露出したデザイン。

♦旧前田家本邸(洋館)の概要♦

昭和3年から5年にかけて建てられました。主に生活の場として使われた洋館と、迎賓のために建てられた和館で構成されてます。洋館は、壮麗なチューダ様式の外観、城郭のような尖塔を持つその建物から、竣工当時”東洋一の洋館”と謳われた。城郭のような建て方は、英国の100年戦争(薔薇戦争)が影響しているかもしれません。
建物は、地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造りです、現在の耐震基準で補強することがあまりないようです。
玄関を入ると豪華な階段広間があります、装飾が彫りこまれた大理石の柱があり重厚な空間を演出しています。1階部分は応接間と2つの客室、大証の食堂で構成され部屋ごとに装飾が異なり豪華さは目を見張るものがあります。2階部分は私的なエリアで寝室や書斎、夫人室や子ども部屋が並んでいます。絢乱豪華な織物や、*3金唐紙(きんからかみ)など最上級の素材で飾っている。戦前の上流華族の暮らしぶりを伝える貴重な建築です。
*3-日本の伝統工芸品で和紙に金属箔(金箔・銀箔・錫箔等)をはり、版木に当てて凸凹文様を打ち出し、彩色を施し、全てを手作りで製作する高級壁紙。









































蛇足であるが、映画「華麗なる一族」のロケ地にもなっており、まさに華麗さが伝わる名建築である。

♦日本民藝館♦
もう一つ訪れる予定だったのが「日本民藝館」だったが、訪れた日が西館(旧柳宗悦邸)の公開日となっており、混雑しているようなので、外観の写真撮影のみとした。
柳宗悦は、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任し72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集、執筆活動を展開した。
本ブログで「民藝」と「柳宗悦」については、掲載しましたがこんなに人気があるとは思いませんでした。





♦駒場野公園♦
帰り、駒場東大前駅に向かう途中、線路の反対側に「駒場野公園」がありました。入口付近に小さい田圃(たんぼ)がありました。「ケルネル田圃」という案内板がありました。明治時代、駒場農学校に招かれたドイツ人教師オスカー・ケルネルの名を冠した。ここで、土壌やイネの肥料の研究がおこなわれ日本の近代農業の礎となった地です。今は、農学校をルーツに持つ筑波大付属駒場中高生たちが水田実習に取り組んでいます。


この辺を歩いていると、「ハチ公物語」の上野博士が住まわれ、ハチ公と上野博士も歩いていたのか思う散歩であった。

【参考資料】
・ウイキペディア
・旧前田家本邸
・テレビ東京 「出没!アド街ツク天国」 ・東洋経済オンライン   
・東建コーポレーション
・BS朝日 「百年名家」
・日本民藝館
・東京新聞
・目黒区
・東京都

《その他のPhoto》


























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