爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

自転車で寺社めぐり

2015-04-26 19:35:06 | 日記
3月の越谷市の日帰り散歩で、回れなかった所が数カ所あった。自宅から比較的近い所であるため、我が家から自転車で出かける。この地(大相模地区)何回か自転車で通っているが、道がくねくね、道幅が狭く、おのずと歩道もあって無いような状況で自転車では気を遣う道である。この一帯は、明治22年の町村制施行により7村が合併し大相模村として成立した。その後、昭和28年の町村合併促進法(昭和の大合併)により10町村が合併し越谷町となり、昭和33年に市制施行により越谷市となった。大相模地区は、鉄道から離れ都市整備が遅れている。メイン道路は、「越谷流山線」である、車に気をつけながら最初に着いてのが「浄音寺」である。旧見田方村の浄音寺は、1594年に開山したお寺で、きれいな境内の中に本堂、鐘楼があり、一層、静寂さを醸し出している。山門を入って六地蔵があった、六地蔵は、都内の散策でも見たが、地蔵の上に「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道」と書いてあった。これは、仏教の六道輪廻の思想に基づいており、人は六種の世界に生まれ変わり、それぞれの地蔵が救うと言われている。

高齢者の自転車では車との接触が心配なので、越谷流山線を避けて元荒川に近い道を西に進むと偶然?「八坂神社」に、鳥居が無いと神社とは気がつかないような神社であるが、旧見田方村の古社である。

この一帯は古くから開けた地域で古墳時代の住居跡や土器が発見されている、そのためこの地域の寺社は比較的古い。さらに西に向かうと「大相模久伊豆神社」にたどり着く、北越谷にある久伊豆神社には3月に行ったが、ここも同じ名の神社であるが越谷には7カ所ほど同名の神社があるとのこと。鳥居をくぐると、右手にヒノキとエノキの神木の珍しい双樹がある。

大相模久伊豆神社の入口に「大聖寺」と「日枝神社」の表示があったので、その方向に進む、日枝神社の裏手に出る、東京の日枝神社と関係があるのか?、元は山王社と言っていたがこれも山王信仰からくるものか?この一帯の寺院を治めていた古社の一つのようだ。

さらに自転車で西に進むと「大聖寺」がある、越谷最古のお寺(750年)で本尊の不動明王は奈良東大寺の大仏の鋳造に功労のあった良弁僧正が相模国大山で彫刻した二体の不動明王を安置したことから、地名の 「相模」と「大山」から大相模、山号を真大山と付けた。関東三大不動尊の一つと称されている。その他、徳川家康が鷹狩りの際には宿泊した寝衣などが保存されたり、北条氏繁が岩槻城の繁栄祈願を命じた古文書が残されている。蛇足であるが、境内に「虹だんご」の看板があった名物なのだろう、また、9月4日は徳川家康の出陣を記念し「梨」が売り出されて賑わうそうである。




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大宮公園でお花見を堪能

2015-04-08 14:10:34 | 日記

4月の「退職者の会」の日帰り散歩は、幹事のMさんがお花見のコースを企画してくれた、西日本から天候がくずれて雨が心配されたが、どうにか日中はもちそうな予報で、気温も上昇との事、JR武蔵野線の南越谷駅に集合。
40数年のサラリーマン生活で、年度末・年度初めは仕事に追われて、お花見なんてなかった。ゆったりお花見は、今回が初めてである。
大宮駅から氷川神社へ向かう、氷川神社の参道は長く2Kmほどある、大宮駅の隣の駅である「さいたま新都心駅」からでも行くことができる、参道だけなら「さいたま新都心駅」の方が近い。参道入り口には「官幣大社 氷川神社」とある、神社にもランクがあり、最高位の伊勢神宮を頂点に官幣大社があり氷川神社はその一つであり、お正月の初詣の人出もベスト10にも入る。参道を歩いていると神橋の前で「花しづめ祭奉納弓道大会」が行われており、袴姿の高校生や一般の方で賑わっている。神橋を渡り楼門を通ると舞殿と拝殿となる、4月5日~7日は「鎮花祭」の儀式が行われていた。鎮花祭とは、氷川神社HP・チラシによると「無病息災、五穀豊穣を祈願するお祭りです。桜の花の咲く頃は様々に生命が冬籠りから起きますが、病気や種々の災害も起こりやすい為、疫病を鎮め、また桜が長く咲く年は豊作であるということからいつまでも花が散らぬようようにと祈ります」 「三日間とも祭典中氏子中の童女による花しづめの舞を奉奏します。花しづめの舞は千早という装束を着、桜のかんざしに桜の枝を持つ「乙女」四人と、さらに年若の「つぼみ」二人による舞です。前半は桜を持ち、田植えの所作が入り今様の曲で舞い、後半は桜と鈴を持ち琴の伴奏で舞います」(一部省略)
なかなかこうした儀式にはお目にかかれない。かわいい女の子が踊る「花しづめの舞」が、冬から春・夏・秋へのこれからの営みを感じさせられる。


 氷川神社の裏手が大宮公園となる、多くの屋台が点在しているが、屋台を撤収している所を見ると、昨日の日曜日で見頃は終わったのだろうが、今日は花吹雪のようであったが、まだまだお花見ができる。幹事のMさんが第2公園もあるとの話で行って見ることに、大宮公園は、第2・第3とあるとの事。

大宮公園そのものは、明治中期に開発されたが、第2公園は、昭和55年に完成した公園で、都市化のなか芝川・見沼代用水の調節池としての役割をもって整備された。第2公園の方が、高低差があり広々していて参加者の皆が、こちらの方が良いと、満足した様子であった。

大宮公園の線路を挟んで反対側にあるのが盆栽村である。関東大震災で被災者した東京の盆栽業者等が集まり、この地で盆栽村を形成したのが始まりである。近年の盆栽ブームで外国人の姿も見かける。盆栽村の中の清香園は、国内の盆栽業者では3本の指に入る園との事で、当主である山田香織さんは、マスコミに度々出る有名人である。盆栽そのものは非常に手間がかかるようです、訪れたいくつかの盆栽園は、手入れに余念がありません。参加者の声は、「ため息が出るネ」・・・それは金額なのか?飾れる部屋がないのか?

 盆栽村にある「さいたま市大宮盆栽美術館」はゆっくり盆栽を鑑賞できる。盆栽は撮影禁止が多いが、美術館の中の盆栽は一部撮影OKの盆栽がある。

今まで神社仏閣巡りが多かったが、今回の日帰り散歩、氷川神社だけだった。しかし、こんなに桜や緑を堪能したのは無かった。4月なのに、6月の気温のなか歩数計も19000歩に跳ね上がっていた。

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中川河畔の桜

2015-04-03 20:54:12 | 日記

今年もゴミ出しのついでに、散歩がてら中川河畔の花見を。入居後に植えた桜も見事に咲きほころび目を楽しましてくれる。なかにはビニールシートを敷いて食べているグループもおり、そこらへんの花見とかわらなくなってきた。

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久々の「健康ランドの会?」

2015-04-02 07:08:59 | 日記


Tさんよりお風呂のお誘いが・・・前回は義母が亡くなったため出席出来なかったが、今回は出席する事に。今までは、東武スカイツリー沿線の健康ランドだったが、今回はIWさんの自宅に近い千葉県の印西市であった。Tさん、ISさんとJR武蔵野線・新京成を乗り継ぎ新鎌ヶ谷駅へ到着、電車の中でIWさんはベンツで迎えに来ると言っていたが、やはり白のベンツで迎えにきた、前の車はボルボだった。IWさんは、一緒に仕事をしていた頃も、持ち物,着るもの、食べるものにこだわりをもっていた。今日はこだわった所を案内してくれるものと期待、古民家での昼食を予約しましたとの話。着いた所が千葉県印西市の「展示・茶房 宮崎邸」である、木・金・土曜日の11時から17時までの営業という、これもこだわりのもった茶房での昼食であった。古民家の中では、地元のアーチストの作品の常設展示、また、個展・ミニコンサート・撮影会などにも利用できるようです。


お風呂は「ビーリングヴィラ印西」という、東南アジアをコンセプトに営業しているようで、全館、内装・音楽ともに異国情緒たっぷりのひろびろとした健康ランドでした。

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三田~泉岳寺~高輪付近の散策

2015-04-01 11:35:06 | 日記

「日帰り散歩」の幹事Mさんから友人の墓参り行くが、その後、泉岳寺に行きませんかのお誘いがあり、前の日帰り散歩で、赤穂浪士討ち入りの吉良邸を訪問したが、泉岳寺訪問で完結と思い、二つ返事で「OK」。お墓参りが主のため、Sさんを含め3人で行くことになり、いつもの集合場所で集まり、三田駅で下車をしました。
この田町付近は、妻とともに思い出の地の一つで、変貌ぶりにはビックリするばかりであるが、40年以上前のことだから当然である。時期が違うが、私はJR田町駅芝浦口で、妻は三田口で降りたが、妻の勤務していた電気会社が入居していた「森永プラザビル」は現存していた。
付近に三菱自動車本社があるが、この場所が江戸城開城会見の地であり、敷地内に記念の碑が設置されていた(40年前はそんな場所である事は、気がつかなかった)。かつては薩摩藩のお屋敷で勝海舟と西郷隆盛が2回にわたり会談し合意したが、これが歴史的な大転換であり、戊辰戦争などが優勢に進められるきっかけとなった、その後、江戸城が宮城となるなど文明開化が急速に進んだ。
第一京浜を品川方面に進むとビルに御田八幡神社の表示が現れる、(現在の地名「三田」の元となった神社)このビルの脇を上がると境内がある、赤穂浪士も引き揚げの際にこの前の道を通り、この辺一帯の氏神様である。

本殿の裏に階段があり、上がった所が、港区立亀塚公園である。東京の地形はこんなに高低差があるのかと思わせる風景である。公園内には「亀塚」「亀山碑」があります、古くから古墳と、学者により指摘されてきたが、確定されてはいないようです。


公園の隣に「済海寺」があるが、1859年にフランス総領事館となり、2年後には公使館となり1874年(明治7年)まで続いた、現在は境内に「フランス公使宿館跡」として碑がのこされている。Mさんのお参りする「玉鳳寺」行くのに「幽霊坂」を通ったが、この辺、お寺が両側に多くあり、物寂しい坂であるため付けられたようだが、この「幽霊坂」という呼び名は、都内には多くあるようです。

「玉鳳寺」に到着し、お参りを済ませるが、このお寺の山門横に「化粧延命地蔵」(おしろい地蔵)があった。このお寺、開創は八丁堀で三田が寺町として指定され際に移転したが、八丁堀の橋のたもとに放置されていたものを修復し泥まみれだった事から白粉を塗って祭った所、和尚さんの顔のアザが消えたので、人々が病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったと言われている。ここには観音像があるが、宝塚歌劇団卒業生で日本航空123便御巣鷹山墜落事故犠牲者の北原遙子さんの実家が玉鳳寺の檀家であったことから観音像(遙子観音)として有志が建立、黒木瞳さんをはじめ北原さんをしのぶ人たちが参拝しているとの事である。

お参りを済ませ、儒学者「荻生徠」が祀られている「長松寺」に立ち寄り「魚籃坂下」交差点に出る、魚籃という名は珍しいが、「魚籃寺」からきている。横溝正史の小説である「病院坂の首縊りの家」がこの近辺に設定されており、病院坂がこの「魚籃坂」である。中途には別名「三味線寺」(三味線製作の始祖石村源左衛門の墓所がある)と言われる「大信寺」を過ぎて「魚籃寺」に、「魚籃観世音菩薩」が祀られているが、中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて作られた菩薩から付けられた。

隣のお寺が「薬王寺」である、俳人「加賀千代女」が旅の途中に薬王寺に霊水の井戸があることを知り立ち寄り、あの有名な“朝顔に釣瓶取られて もらい水”と詠みました。また、明治の三筆の一人と言われる書家の「中林梧竹」もここに祀られています。

魚籃坂を進み「伊皿子交差点」さしかかると角に黒御影石の碑が建っています、こんな歩道の所に?読んでみるとこの地が東京歯科大学の前進である、最初の歯科医師免許をとった高山紀齋が歯科医学校を設立した地であるという碑であった。この交差点から伊皿子坂を下がった所に「泉岳寺」がある。

赤穂浪士・浅野長矩の墓所であまりにも有名なお寺である(国の史跡)。泉岳寺では、赤穂浪士ではなく「赤穂義士」と呼んでいる。境内には「赤穂義士会館記念館」があり、ゆかりの品々な展示されているが、中には吉良上野介の首の請書?の書状があった、Sさんと「こんなのがあるんだ!」とビックリ。境内には学寮があり、これが現在の「駒澤大学」に発展した。泉岳寺は、最近、TVで隣のマンション建設が話題となっているが、工事はすでに始まっていた。8階建ての建物はやはり圧迫感があり何とか景観を保てないものだろうか。

泉岳寺の近く、都営高輪アパート内に「大石良雄外十六人忠烈の跡」があった。熊本藩細川家の下屋敷の場所であり、現在、都営アパート内にその小さい一角を保存している。

承教寺は、泉岳寺の南にあるお寺である。山門脇には、二本榎の碑、本堂前に英一蝶(江戸中期の画家)の墓石がある。古い鐘楼の下では子どもたちが車座になっておしゃべりをしていた、今でもこんなほほえまし光景が見られるなんて・・・


都営高輪台駅に向かっているとレトロな建築物が?高輪消防署(二本榎出張所)との事、場所がら何かしらモダンナ感じさえ受ける、昭和8年に落成の庁舎で当時は東京市全体が火の見櫓から見渡せたとの事である。中には展示室があり見学ができるためTV旅番組での紹介も多いようです。

消防署の隣の高輪警察署の裏手に高野山東京別院があります、今回の散策の中ではゆったり、広々している寺院で、お遍路さんの受け入れも出来るようである。桂坂・洞坂を通り東禅寺に入る、桂坂は大きい通りであるが洞坂は狭い通りで車が通れるのかと思う。

この辺、昔は海辺で、東禅寺からは東京湾が見渡せたのでしょう。山門の所に「最初のイギリス公使宿館跡」の石碑が建っており、境内は深い緑に囲まれ、中には三重塔があり当時が忍ばれます。

高輪警察署の通りに戻り、Mさんが幽霊地蔵のあるお寺へと光福寺へ、小さいお堂の中に祀られていましたが、何とも異様な感じがしました。この地蔵は、品川沖からあがり、死んだ母親に代わって子どもを育てたという伝えがあり、昔からある子どものために飴を買うという、飴買い幽霊の言い伝えと石の形状からも幽霊地蔵と呼ばれるようになったようです。
これで本日の田町から泉岳寺・高輪台の散歩は終了、味の素グループ高輪研修センター前を通り高輪台駅に向かう、この研修センターには「食とくらしの博物館」が併設され一般公開されている、創業者の私邸跡地で立派な門(保存されている)や塀に囲まれています。

Mさんの墓参りを兼ねての泉岳寺参拝が、月一回の散歩と同じとなり多くの寺院・史跡を訪ねることができました。

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