爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座11  「山の不思議な話とマタギの世界」を聞いて

2022-11-29 13:38:05 | 日記

副題として~狩猟を通して見る東北の山人たち~となっていた。講師は、作家・カメラマンの田中康弘氏で、田中氏は山人たちが話す怪奇譚を集め「山怪(さんかい)」という本を出版、田中氏が30年以上マタギに接してきた、マタギの世界を語っている。

パート1 「山怪」のはじまりと阿仁マタギ
山の怪奇譚「山怪」とはなにか?本のタイトルのために作った造語です、秋田県阿仁町で出会った人達との付き合いの中で経験した山の不思議なことをまとめた本です。狐の話というのは多い(光が出る、家に帰ろうとするがなかなか着かない、夜店が出ていた等)、不思議なことは狐によるものと。地元の人は山に行くときに狐に化かされないように、手を打つ、ニンニクを持って行くとかした、阿仁では狸の話もある、狐・狸は妖怪のたぐいであるが、狸の話は狐とは違う、狸は物まねがうまいという(木を切る音、倒木の音など)不思議な出来事をたくさん聞いてきたが、これは何なのだろう?これはひょっとしたら山の中では、あるかもしれない。そして集めたのが先ほどの本です。こうした面白い経験をした地域が秋田県北秋田市阿仁地区という所です。

カメラマンとして取材していた時(30年前)に、「マタギの鍛冶屋」に会った人の話を聞き「マタギの鍛冶屋」という名称が面白くて会うべきだと思い、阿仁の「マタギの鍛冶屋」西根正剛に会いました。叉鬼山刀(マタギナガサ・フクロナガサ)を作っている方で、槍にもなる刃物で特殊な刃物を作っている、西根さんは話が面白く話がうまい方で、マタギにとって一日40Kmは日帰りの距離(山の中である)、マタギの方にキノコ採りやウサギ狩りにもついていった、すごく魅力的であった。身はボロボロだったが面白かった。マタギは山からの授かりものを得るため必死になって山歩きをする危険もあるし肉体的にも辛い、でも、それを超えるだけの喜びが山にあった。

最後まで残ったのか熊だった、マタギが狙う最大の獲物は熊。熊狩りは一般の人は連れててもらえない、猟友会に頼んでもだめだった。西根さんの仲間内の方に頼んで連れてってもらった。雪が降っていることが大事、足跡がわかる。マタギのやることは猟だけでない川でもいろんなことをやる、魚を獲るんですね、真冬の魚の漁「ジャガク」といって半凍結した川の中に雪を放り込んで踏み固めて魚を追い込む漁法。これが山里のタンパク源。

私が山怪的なイメージを抱くようになったのは宴会だった。山に行ってキノコを採る、ウサギ、熊狩りをする、何があっても深夜まで宴会をする。また、同じ話をするがこないだより面白くなっている話が変わったわけではなく話が育つと表現するんですが、前後関係、話の繋ぎ、言葉のはしばしを整理するだけで聞きやすくなる、面白さを増す原因だったのでは。その中で山の不思議な話などが人数が少なくなったりなどすると出てくる馬鹿話の連続である、不思議な話が見た人、見てない人がいる、全員見たならそれで終わるがこうした不思議な話は全国各地山で暮らす人にはあるような経験談ではないだろうかと思った。それがマタギの里から生まれた。

パート2 マタギの実態とブランド力
マタギについて詳しく話したいと思う。マタギは山猟師なんですね、所が「山猟師=マタギ」ではない、マタギはどういう人を言うか、北は下北半島(畑集落)南は長野県と新潟県の県境の秋山郷まで、ここにいる人が全員マタギかというとそうでもない。

なぜ、マタギの集落が点々としているかと言うと、阿仁(秋田県)には、根子(ねっこ)、打当(うっとう)、比立内(ひたちない)がある、一番北にあるのが根子集落です。ここがマタギ発祥の地と言われている。この3つの集落から移住した人がいる、その人達が住みついて熊狩りの作法を伝えた所をマタギの集落と言った。秋山郷は、縄文時代から住みつき猟師もいた、その人達はマタギとは秋田から来た人と言っているが秋山郷ではマタギの里と看板を掲げている、ここの人は阿仁から伝わった槍を持っている人がいる。秋山郷は米の出来ない貧しい所、「米=お金」ですから。「あんぼ」を主食にしていた「栃ノ実」を粉末にして、こねて野菜の切り端、山から獲ってきたウサギとか川魚を混ぜたりして団子にして「おやき」みたいな物ですが、これを囲炉裏の灰の中に入れて熱を通して食べた、これが朝昼晩そうだったと言う。昔はそれしかないそれが自然環境の厳しい所、栃ノ木を大事にした。阿仁の場合はどうだったか、実は栃をあまり食べてない、田んぼがあったみたいです。畑集落、秋山郷と阿仁は、食生活が違っている。共通しているのは雪です、雪のない所にマタギは存在しない、マタギは雪とともに生きる人、生かせる人、活用できる人、これがマタギである。

マタギの資格はありません、よくあるのは巻物があるそれが一つの証明と言われる事もある。「山立ち根本の巻物」巻物はさほど意味がない日本中にカワラ巻物はいっぱいあるがマタギの家には全部ある。

マタギが熊を追う最大の理由は「熊の胆(くまのい)」である、いわゆる胆のうですが、干したものが「熊の胆」、奥多摩では昔は年間30頭獲っていた、奥多摩では自家消費との事、「熊の胆」は「金」と同じ価値がある。マタギは一生懸命獲って売り歩く、売ることで山里にお金が入ってくる、経済と密接に結びついていた、これが熊だった。昔は胆のうだけでなく骨も血液も肝臓、脳ミソも、ありとあらゆる物を薬としたんです、今でも地元の人は持っている。昔は、医療が発達してないので草根木皮、漢方しかない漢方の材料としては「熊の胆」は有効であった。一般的に内臓系に効くと言われているが、地元に聞くと何にでも効く万能薬と言っている、重要な薬であったことに間違いない。

それと毛皮の価値があった、毛皮猟師みたいな人もいた、ウサギ、テン、タヌキ、タヌキは毛皮としては価値が高かった、いまでは世界的に使用しなくなったが、昔は、日本の最高級の毛皮は、タヌキだった。ヨーロッパでは、「たぬき」と書いてあったそうで、すごい人気だったそうです。熊はそういう扱いはしないが、敷き皮、剥製にして飾るのがメインでした。昔は、旅館、民宿、お金のある人の玄関に飾った、それが非常に人気があって高く売れた、上質のものだと50万で売れたと言われている、これも冬眠明けの熊なんです。冬眠中も毛が伸びて、歩かないので綺麗に伸びる、爪も綺麗に伸びる、そのため冬眠明けの熊の毛は高かった、熊というのは換金性が高かった。
どうやって分けたのか?肉は地産地消です、そこで獲ったものはそこで食べるしかない、昔は、冷蔵冷凍庫の技術がないので串にさして焼いて食べるとか、一番多いのは鍋、均等に分ける、いつも来ている人、来れなかった人の分も分ける、これを「マタギ勘定」といっている。肉というのは体の1/3位、部位によって分ける、マタギ勘定というのは全国的なようです。
金と同じ価値があると言われた「熊の胆」は、均等に分けられないので入札に掛ける。落札した人が加工して売る、狩猟というのは平等なんです。こうしていろんな薬を売り歩いていた。そうした中でも「熊の胆」が一番の儲ける道具だった。

マタギの特殊性を知るために、他者との比較をすると、阿仁はチョット違うなと、特殊性に気付き始める、阿仁マタギが面白い所は、自分の獲ってきた熊を金に変えるすべをおぼえたこと、全国各地に猟師がいっぱいいるが、そういう所はあまりない。有名なのは丹波篠山の猟師ですが、イノシシを獲って関西圏に出す、冬場大阪で食べられる「ぼたん鍋」は丹波が一番とブランドになっている、その他の地区ではなかった、阿仁では自分達が獲ってきた物を加工し銭に換えることが出来た、なぜかというのは阿仁鉱山だと思っている、今はないが鉱山にはたくさんの人が集まって来る、働く人の宿であったり飯し屋があったり、準備する人も来る鉱山技師も来る多種多様の人が集まってくる、一番大きいのはそこに経済が生まれる、金の流れが生まれる、米を買えば金が動く味噌を買えば金が動くその中にマタギの獲るような肉とか毛皮も入ったのでは、それは銭に換わる事がわかった。結構、早い段階で、やる方にとっては意欲が高まる、肉も出すことも出来るが冷凍冷蔵のない昔は加工して薬にした、薬を求める人が多かったのでは、その時、阿仁のマタギが作った薬が重宝された。早い段階で、狩猟、加工は、マタギの特殊性です。さらに売薬という商売があります売薬は阿仁を越えて他の地区まで売りに行く。雪国の出稼ぎが売薬が一つの出稼ぎであった。大阪や東京まで行っていたと言われている。売薬業は他にもいろいろあるが、マタギの薬売りの看板を持っていた。「熊の胆」は、俺が獲ったというセールス効果はあった、自分達の宣伝をしていた。マタギの特殊性はセルフブランディング、自分達で自分達の価値が分かって前面に押し出した、それが商売と結びついた。


また、口コミ・メディアの発達で全国区になった。吉村昭さんの「羆嵐(くまあらし)」という小説も大きかった、軍隊が出ても仕留められなかったのが一人の嫌われ猟師が仕留める。この物語が人の心に入り込んだ、このあとマンガ・TV・映画がほとんどラストは大熊との決闘になってしまうが、そんなマタギは一人もいない。ほとんどの熊は冬眠している、「羆嵐」の影響かと思われる。

パート3 山の不思議 語りが伝えるもの
山怪の話をしたいと思います。阿仁、東北地方では、狐・狸に関する話が多い。
山の中の不思議な出来事にどうして狐や狸がやらかしたと考えられたか、やはり身近な動物であった、集落の周辺によく出る動物であった、人間になじみが深い、山の中で不思議なことがあった時、狐・狸のせいにする、と都合がいい。不思議な事を狐・狸のせいにすると後の尾を引かない。不思議なままだと近づけなくなってしまうので狐・狸の悪戯にする。熊は身近な存在でない、身近な狐・狸に罪をなすり付ける、それで自分達は安心する、そうだったと思います。理解不能な事は狐のせいにする。
マタギには「語り」の文化がある、今みたいにスマホを持って歩いてない。TV・電気がない、人とのコミュニケーションツールは何かというと面と向かって話すことしかない。
その語りが山怪に変化していくか話したい。語りの大元は何かというと山での経験ですよね。あれは何だったんだと言う、山での不思議な出来事が種なんです。種は種のままだと芽を出さない。そこに水を与え肥料を与えるのは何かというと「語る」ということなんです。人と語ることで、この小さい種が「芽吹く」んです。そこでどうなるかと言うと、「話」が育つんです。話し言葉は、曖昧なことがあっても脳が補うんです、そうすることにより話は聞き易くなる。聞き易くなるというのは重要なんです、語りというのは聞くものでもあります、上手く「聞く」事が出来ないと「話」が育たない、上手く聞くことが出来るためには手を加えなければならない、編集ですよね、それを私は、語りの重要なことだと思います。語り手がいて聞き手がいて育つんですね。育つ重要なポイントは闇だと思っています、暗くすることにより一点に集中する。メインは囲炉裏端です、その場が重要だった、そこでいろんな出来事を延々と語る、そこで段々話が育っていく、話と話がくっついて壮大な話になっていく、それが地元の民話であったり昔話になっていくんだろうと思ったんです。雪の多い所で話を聞くとわかる、東北で集めた山怪の話も重要な所は雪なんです。今は話をする場もないが、まだ命脈を少し保っているのを感じます。

最後に山怪を取り巻く環境、現状を話したい。山での暮らしぶりが変わった、日常、山に入って生きるための糧を得てきた状況はほとんどありません。山に入るのは森林組合の人とか、材木系の仕事の人です。

山には日常的には入らなくなりました。山菜・キノコを獲る人も減ってる、お年寄が山の奥に入るのが難しくなりました、山の体験をする人の減少は語る人の減少にもなります。家庭の問題もあります、核家族化や一人で住んでいる人もいる、子どもはゲームをするなど都心の子どもと変わらない。山でも川でも入る子どもはいない、年寄りが子どもに昔の話をしても喜ばない。語る環境がない、山に入る環境がない、子どもがいない、いても語る状況が今はない。そうした中でも山に行く方は少なからずいて、そうした方々は私はいまだにいろんな経験をしていると思います。山怪で重要なことは、セルフブランディングと言ったが、もう一つ加わるのはアイデンティティなんです、自分達が山に行って自分達の能力を使って獲物を得て、自分達の知恵で加工して販売して行くというのはマタギの里のアイデンティティとしてはものすごく重要な事、自分達は何者か誰なのかという事を確認する大切な材料。山怪的なものも、アイデンティティの上ではすごく重要なんです。自分達がいつもいる山、、遊んでいる川、そしてそこで暮らしている集落の人達、その生活、長い歴史、その中と山怪が結びついている、はがすことが出来ない。地域の力を知らず知らずに身体に持っていたからマタギになれた。山怪の話は生活と密接に結びついている生きる知恵と表裏一体なんです、同じものなんです。現場で生きていくことが希薄になれば何処かに勤めに行く時代である。山があって自分になれた、川があるからここの住人になんだというアイデンティティが出来上がっていれば、出ていくことはやもえないが、忘れないと思う。山に入る人はゼロにはならない、山仕事はゼロにはならない、という事は何らかの体験をする人は少なくともいますからやはりその人達がいるかぎりは私は集めて行きたいと思います、それが出来るのはあと何年か、これからも一生懸命やりたいと思う。

※画像については、講師・田中氏と「マタギの里観光開発株式会社」によるものでオンライン講座の資料となっています。

【その他のPhoto】
講師の田中氏は、カメラマンだけあって素晴らしい写真が紹介されました。

講座の中心となった秋田県北秋田市は、親戚もおり私にとっては親しみのある所である。北秋田市は、平成の大合併(2005.H17)により鷹巣・合川・森吉・阿仁町の4町で市制施行した。秋田県の10%を占める行政面積であるがほとんどが山林である。
昔は不便な所だと思っていたが、1989年(H元年)に秋田内陸縦貫鉄道開業により田沢湖線角館駅(秋田新幹線停車駅)と奥羽本線鷹巣駅が繋がり便利になり、さらに北秋田市鷹巣地区に1998年(H10)大館能代空港が開港した。
講座のマタギについては、阿仁地区の熊猟師であることは知っており、35年前に映画「イタズ 熊」田村高廣・桜田淳子出演を鑑賞しマタギの生活については理解しているつもりであるが、本講座でさらに深めることができた。
北秋田市の主な見どころ:「世界一の大太鼓の里」「マタギ資料館」「太平湖」「阿仁異人館・伝承館」「浜辺の歌 音楽館(作曲家:成田為三)」「県立北欧の杜公園」「伊勢堂岱遺跡(国史跡)」「くまくま園」「秘境の宿 打当温泉マタギの湯」  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オンライン講座10 考現学の祖・今和次郎が描いた東北

2022-11-10 12:37:37 | 日記

副題として~大地に根ざした暮らしへのまなざし~となっています。講師は、今和次郎の研究、継承している青山学院大学総合文化政策学部客員教授・黒石いずみ氏です。

この講座は、東京ステーションギャラリーでおこなわれた展覧会・「東北へのまなざし1930-1945」~タウト、柳宗悦、ベリアン、今和次郎らは何を見ようとしたのか~の今和次郎氏の研究、業績等を掘り下げた講座となっています。展覧会の概要については、、2022.9.24のブログも併せてご覧ください。
講座を理解するため内容を記述し今和次郎氏が残した足跡をたどりたい。

Part1 今和次郎の民家調査と考現学
♢今和次郎の生涯♢

 *当時の図按科は、グラフィック、ファッション、建築とあらゆるものを含み、金細工、伝統工芸も       教えていた。
 *1959年定年退職(勤続47年)
 *東京オリンピックのユニホームを決める仕事をしました。
図按家・デザイナーとして見ると、人を引き込む表現力があり、彼は、人を引き付けるとはどういう事か考えながらデザインの勉強していた。


描写力、観察力を見込まれて、民俗学の創始者と言われる柳田國男に誘われ、新渡戸稲造という日本の国際化のパイオニアと言われる方と郷土会や白菜会の活動を1918年頃から始めます。柳田は、農政の官僚だから最初は、農業の問題意識を持ってなかったと思います。

1922年出版の「日本の民家」にいたるまで多くの所を廻っていて地図にプロットされているが、北の方は少ない、東北に重点を置かれていない時期だった。しかし、柳田や地理学者などさまざまな方と廻って目を養っていく。どんな視点が増えたかというと、左側の絵は囲炉裏の鉤の周りにはどんなものを置いてあるかの絵で、真中は山小屋にどんなものをおいてあるかの絵、右は漁村の住宅は家の周りにどういうふうに物を置いて漁から帰ってきた後の生活のマネージをしているかの絵。

柳田や今は、一つ一つの物を大事にして人々が暮らしにあわせて置いているたたずまいを美しいと、人間として豊かだな思って描いたスケッチだと思います。詩情というか人の生き方、自然との関係に豊かさを読み取る私的なポリティカルな視点が表れているのがこのスケッチ、1920年に書かれた「津軽の農家」(林檎のなる土地の家)でリンゴの木がリンゴの絵で書かれている、ここで彼の表現力を使って詩情を使い始めていた。このような人のたたずまいの中に詩情を読み解く視点を彼が育てながらいた。34歳の時で、これから変貌しいく。


1923年に関東大震災が起きます。いまでは架設とか避難所を用意してもらっている、これが普通になっているが、当時は、身の回りの物を集めて瓦礫を自分で片づけてそこに小屋を建てる。ムシロとか木の棒とかトタンとかいろんな物を使って小さい小屋を造る、そこに雨漏りしないようにコールタールで模様を書く、それは、たくまずして生まれるかわいらしい模様で彼はこういうのをたくさんスケッチして廻る、被災の中で人々がどういう面白い物を作り出しているか、お上から用意されている小屋のようなものでも変えている。いまでは公共のものを手を出せないものがあるが、昔はそんな事がなくどんどん変える、それが面白いと調査をします。スケッチの経験をいかし彼は建築家としての活動もおこないます。


考現学というのは?、考現学というロゴは、左側の図で考現学のロゴ周りに矢印がありますが、これは時計なんですね、時間ごとに都市の中で起きていると彼は観察します。この観察は仲間をたくさん動員して行われたもの、最初は右上に書いている「社会学の補助として・・・復興の過程を記録・・・消費社会の進展を観察し科学的に分析する」をしようとしていました。


彼は数字だけでなく人を見ている、その最たるものが、東京銀座街風俗記録でINPEXとかいてあるので統計ですが人のファッションの各部分部分の統計調査をして、全体として集めた時に男性がどのくらい洋服に変わっていて女性はどうなのか調べた、そうすると部分部分で変化の仕方が違う早く洋風化する部分と、しない部分、組み合わせ方も人によって違う、それを細かく調べた、結果は男性は67%が洋風に変わっているのに女性は1%でしかない新聞や雑誌は皆が洋服になっているが違っている実態はメディア、政府の意見とは違うという事を明らかにしている。一つ一つの統計も面白い、長く統計は取れないので、注目する部分が明確であれば面白い統計が取れる。


そこにその人の人生がどのように表れているか読み取るのが調査の目的。彼の空間や人や物を丁寧に物語を読んでいく、民家を見てその様子を見る事から一人一人のくらしのたたずまい、風俗そしていろんな場面で人々を見る絵が深まっていくのがわかります。

♢今和次郎は大正時代の末期、仲間とともに東京・銀座や深川の風俗を数多くのスケッチで記録した。行きかう人々の服装にその素材、カフェーに出入りする人の行動や従業員の制服など、その描写と書き込みは実に微細にわたる。調査研究手法に「考現学」という名を与えた。

彼の東北への思いがにじむ。街の華やかさの裏にある出稼ぎ者の貧しい暮らしぶり。その子細な描写に、近代化を進める都市と取り残される地方の落差が言葉にするより雄弁に描き出されているのである。♢

※考現学ー今和次郎が提唱した学問、現代の社会現象を場所・時間を定めて組織的に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問。考古学をもじってつくられた造語。(ウィキペディアより)

【その他のPhoto】

パート2 東北ルネッサンス 農村研究から積雪地方農村経済調査所の活動へ
日本の近代化のプロセスを動かした大事な人の中に東北出身の人が多かった。(写)渋沢栄一、原敬、後藤新平、新渡戸稲造、渋沢さんは違いますが、原・後藤・新渡戸さんは岩手です、渋沢も東北に深く関わっていきます。

年表でお見せします。左が近代化でどんな事が起きたか、右が今和次郎がどう絡んだかのリストです。新渡戸稲造の祖父は実業家で開発・開墾を行い近代化を進めた。新渡戸さんの事業を引き継ぎ持続させたのが渋沢さんです。日本の近代化で東北が重要である事を最初に意識した人です。そうした人間関係の中に今和次郎も入っていた。


1923年関東大震災では後藤新平が東京市長として復興に取り組み今和次郎がバラック調査、生活改善事業、考現学もあった。
考現学は、華やかな都市化の中で消費生活のメッカとなっていくことに危機というか、ついていけるのか他の部分の生活と繋がって行けるだろうか、そうした危惧があっての調査だったのかわかる。
日本の近代化は世界の中で見る時に中国・韓国との関係が重要であり、今和次郎は民家調査の延長として朝鮮総督府の調査の手伝いをする。
朝鮮でも家の中の道具の写真を撮る、細かい日々の道具に対するまなざしが徹底しておりまして、大工道具やお祭りの道具や農業の道具などあらゆる道具を写真に撮っております。今和次郎が日本での民家調査の手法が生かされ違う風土、違う風習の生活をどうやって描こうか工夫を重ねている。建物の素材、気候も冬は厳しい人々はオンドルを使ってどうやって換気をおこなって床を暖房し、そして洋服を部屋の中に掛けて乾かしているのか、庭に置かれている道具も物も日本と異なるのがわかります。
韓国の住まいのあり方を生かした改造・新築がどんなに優れているか今和次郎は説明した人々の住み方、暮らし方の実態を見ないで改善はかえって人々を不幸にしてしまうという考えを彼は持っている。


竹内芳太郎と今和次郎1934~1941年の間で多く東北を巡っています。地域地域の特徴ある住まいを見て、その暮らしも見て回っている。目的というのが東北の生活の改善のため様々な事が行われていて積雪地方の経済調査所の活動が重要であった。
調査所は三つの目標があり2番目の副業の中で民芸が重要なテーマになってくる。地方に行くと工芸品があるが民芸品との違い?民芸は柳の価値観で価値を見出しPickupしたもの、地域の工芸すべてを民芸と認めたわけではない。選んでその中のいくつかの物を洗練させて完成させ製品として民芸として売るわけです。

 

大量生産は工芸品、その中で手作りの特別の味わいを持っているのを民芸品、手作りと機械生産以前の段階で工芸と民芸は接触している事がわかります。工芸から民芸、芸術作品あるいはデザインへと曖昧なさまざまな次元の概念の橋渡しをした。もう一人の人がシャルロット・ペリアンです。シャルロット・ペリアンという人は、当時、仙台で地域工芸の産業化を進めていた人、工芸指導所が呼んだ人です、山形県新圧で指導にあたった。

新圧は、文化的交差点として文化的交流がおこなわれる場所でもあった。
地元の元々の文化と外からの文化の中で今和次郎は何をやったのか、地元の人々のため共同施設・恩賜郷倉の設計で東北六県に再建を意図する基準設計案を開発(現在も各地に残る)。

それとともに「農村家屋改善調査」も行っています。つねに囲炉裏の建物の問題、台所の問題を指摘していく。そこで造られたのが「試験農家家屋」、彼は東北の人達の暮らしを観察し建築家として、作品として実現したのが「試験農家家屋」である。1階に厩があり風呂があり、2階に台所など生活空間があり、3階に子どもたちが遊ぶような所が造られている。

♢大正後期から昭和初期にかけての東北は、度重なる冷害と飢饉、三陸地震津波などの被害にさらされた。農村部は著しく疲弊し、さらに金融恐慌が拍車を掛けた。そのような背景下で1933年(昭8年)、農林水産省により山形県新庄市に「積雪地方農村経済調査所(雪調/せっちょう)が設置された。その役割は東北復興にあり、農村・農家の生活を改善し、経済的な自立に導くことを目的としていた。

雪調は、農家に副業を奨励し、工芸品の開発には柳宗悦らの民芸運動を取り入れた。今和次郎は、民家研究の専門家としてこの活動に加わり、農村調査に基づき住宅改善計画を提案する。それを具現化する試験農家家屋の設計建築も手掛けた。♢

この生活によって時間的余裕が出来て雪降しも楽だし暮らしがどんどん楽になるかと思っていたら、逆に建築家が試験をしたり実験をしたりして造るのはいいんですが、住まい手はどうなんでしょうか、最初はいいんですが段々それについていけなくなる。実験をする側と、される側の状況に対する適応とか期待するものが違うんだという事を彼は気がついたと思う。しかし、まなざしは人々の今までどうやって暮らしていたのか、いまどんな事をやっているのかを、どうやって国の方策の中に還元していくのか努力に貫かれています。
都会のテーブル・イスの生活ではなく、実際の農家はお母さんが働いているのを見ているこれこそが大事、ダイニングキッチン、この原型はこういうものでは。今和次郎が草案したのではなく、すでに農家の方々が少しづつやっている工夫というのを彼は位置ずけた。住まいの大事な場所は団欒である、皆が生き生きと女性も生き生きと生きる団欒にあることを彼は東北・新圧の周りで発見し提案し図面化していく、そしてその運動が当時の羽仁もと子(自由学園創始・婦人の友)という女性運動家の東北セットルメント運動に協力していく。
女性達が集まって字を習い、家計を計算する事を習いそして裁縫を習いチョットでもお小遣いを稼いだのを子ども達の洋服に使ったり自分の雑誌を買うのに使ったり女性が自立し経済的な知識を得るだけでなく自信を持ち知識を得るように非常に身近な教育の場を運営する場にも協力して行くことになる。

※セトルメントー正確には「ソーシャル・セツルメント」で、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと。

パート3 現在に生きる東北考現学
今和次郎さんが行った事を、後の世代がどう展開して行ったか。


人々がどうやって生きていったら幸福なのかを考えていた。戦争が終わった時一気にアメリカの影響を受け入れ近代化を加速します。今和次郎が戦後に取り組んだ事は農村の改善に取り組んでいたが、女性の地位の向上の活動、生活研究という領域を開拓したり服飾学を一生懸命やります。西洋と日本の着物の対立ではなくファッションという文化を作ってきたと彼は解く。彼の知識が生かされて東京オリンピックにおけるユニホームが世界に対して訴えていく美しさを持つ事が可能になった。人は一人一人の暮らし方があって細かい所に理屈があってそれを読み込まなければ科学は意味を持たないと解いて分析していきます。
家政とか生活科学は、全体を合理的に整えていく必要な知識ではあるがそれだけではない広がり、文化的蓄積、無意識なものを尊重していきましょうと言うのはいまだに必要な事だと思います。生活を人々の個人の心の歓びから見る、戦後、彼はやって行きます。このアプローチを考現学から見ていきます。彼の民家調査というのは建物を細かく見るだけでなく中を見たり自然や地形との関係を見てるわけですが、それを直接生かした調査が1960年代に多くの研究者によって研究されてきた、地方の部落や都市の街並みから住まい、その住まいの各地に置かれている物の関係を細かく調査し地図に起こし断面図を書きたくさんのデザインサーベイというかたちに残しています。
考現学の応用と展開では1970年代のトマソン活動で街の中を調査していくオリンピックで表面だけがピカピカになった東京への問題意識からタバコの吸殻が捨てられている様子とか皆が忘れた置き去りの物とか、途中から使われなくなった物など無用のものを拾って歩く、そして表面だけピカピカにする都市のありようは人間的におかしい、汚い所面白い忘れられた所が大事ではないかと提案していく。

※トマソン活動:不動産に付属する無用の長物を指す芸術上の概念

現代も東京スリバチ学会の地形をグーグルアースで面白い所を探して見に行って実際はどうなっているか、行ってみないと分からない楽しさがある、散歩の中で出会う人々やチョットした発見は考現学の中での発見、チョットした興味からそこに埋もれている大事なものを再認識する、いまだに私達にとって大事な方法である。


東日本大震災ではガレキ掃除を行いましたが、被災者にとってはガレキではない、日々の物なんです、片づけていると、カセットテープがあり、辞書があり、化粧品があり考現学で今和次郎が農村の住まいを見たときどう思ったのだろう、これはゴミだ雑物とは見なかったのでは、これは自分と同じ人間が暮らしている証である、その人々がこんなに苦労しているんだと感じたのではないか。仮設の住宅、復興公営住宅がどんなに綺麗な住宅でも休まらない辛いと、住まいの変化は被災者はずうっと引き続いてそれが苦しい、だから今和次郎が東北で行った調査は非常に重要だった。

♢現在、考現学は独立した学問分野としては存在しえなくなっているしかし、その視点や手法は、さまざまな分野のフィールドワークにいかされている。今和次郎が考現学において大切にしたのは、その土地に住む人の生活の構造を把握し、何を重んじるべきかを考察することである。そのために、住む人の一人ひとりに目を向け、暮らしの細部から人々の心理までも読み解こうとした。♢

今和次郎達の調査の後追い調査、その調査で気付いた事、遠くの方の風景が意外と面白い事がある、メインの道路から離れた道路、昔の街道に昔の家が結構残っている、地域地域の気候・地形を反映した面白い造り方が残っている。窓先に何かつるしているとか雪囲いに何をやっているか、家と家の間は雪を落とす適切に距離を保っている、蚕を作る建物の維持など新幹線から地域の様子を眺めるのは地域を探す一歩である。これで分かった事は、大量生産の住宅の中、人々は古い家を少しづつ直しながら、その時その時の用途に合わせて使っている方がいっぱいいる、それが美しいかったりする。民家は、生き続けている時代時代の暮らし方、地域の産業や地域のあり方を反映しながら残るべきものは残っていく。そういうものを丁寧に見ていく事が大事だと思います。

今和次郎の民家調査というのは、柳田國男が日本文化の古層を探ると言っていろんな人々の暮らしを探るというのが重要な研究の一部として行われていたが、実際の場所の回りで人々がどう自分で作っているかを見るというのは柳田とは違う意味で重要な事だと思います。言葉で残るものと物の形や場所で残るものそれぞれ文化の構成物であり、それが芸術なのか文化なのかというのかその時代には分からなくても後になって大事だなと思う事がたくさんあるんだということです。

【その他のPhoto】

考現学について初めて知った。一建築家が設計だけではなく人々の生活面、心理面まで踏み込んで調査・研究されていることに驚きである。

今和次郎氏を研究されている、黒石教授の講演の内容を、忠実に記述と思っていましたが、なかなか・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする