爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

新撰組最後の陣営地流山を巡る散歩

2019-04-26 20:38:59 | 日記

 

「退職者の会」の「日帰り散歩」も2ヶ月ぶりとなりました。今回の流山のコースは一人で散策した地でもありました。前回は、JR武蔵野線南流山で下車し散策したが、見学場所まで距離・時間が掛かり疲労感が残ったが、今回は、流鉄流山線を利用しての散策であった。JR馬橋駅で流山線に乗り換えたが、新松戸からも外に出るが乗り換えられた、この乗り換えは知らなかった。流鉄流山線「平和台駅」で下車、幹事Mさんの小学生時代の同級生が流山に住んでいるとの事で案内していただくことに。前回と重複する部分もあるが、出来るだけ重複しないようにブログUPする。

※前回:2015.6.8にUPした「みりん・小林一茶・近藤勇の街 流山市」を参照願いたい

最初に訪れた所は、「赤城神社」である。この赤城神社は、TVで流山市の紹介番組では取り上げられる神社である、何と言っても大きな「しめ飾り」である。やはり参加者一同、大きさにビックリであり、この地域総出でこの「大しめ縄」を完成させるそうである。隣のお寺は、光明院は赤城神社の別当寺で一茶の句碑が多くあります。

二つの寺社の先に小林一茶と俳句仲間であった秋元双樹の秋元家が住んでいて流山市が買い取り記念館とした「一茶双樹記念館」がある。チョットお茶を飲もうとなり「双樹亭」にてお茶を頂くことに。前回は、入館料だけ支払い写真を撮っただけだったが、庭を観ながら優雅にお茶を頂く。たまたま部屋では、「つるし飾りちくちくの会」のつるし飾りのお披露目会をやっており、和室にピッタリのお披露目で一同かざりの素晴らしさ、見事な出来映えに感動しきり。良いときに来たと・・・

 

昼食を済ませ、見世蔵の寺田園茶舗を利用した万華鏡ギャラリー、閻魔堂、近藤勇陣屋跡、常与寺と回る。常与寺は、この地で「千葉師範学校発祥之地」の碑があった。明治5年(1872)学制発布後に設立された千葉師範学校は常与寺に設立された、新制千葉大学学芸学部(現:教育学部)の前身の一つとなった師範学校である。


常与寺の通りにあるえ浅間神社は、創建が1644年と伝わる神社で裏手にある富士塚は富士山の溶岩を使って築かれた大規模な富士塚で、他の富士塚に比べ溶岩のため登りにくい、頂上には明治19年に建立された「富士浅間大神」の大きい碑がある。

江戸川沿いにお寺・神社・見世蔵を観てきたが、ここで江戸川の土手へ上がる。江戸川は埼玉県との県境となり対岸は埼玉県三郷市である。丁度、階段を上がった所が「矢河原(やっから)の渡し跡」で渡し船は昭和35年まで存続した。幕末には新撰組近藤勇が包囲され出頭しこの渡しで流山を去り、板橋で処刑された。流山にはこうした渡し船の跡が3カ所ある。


この後、最後に流山市立博物館を見学。この博物館、この規模の市では充実しており、子ども向けの展示も工夫されている。

2回目の流山市であったが、新たな発見もあった。


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市制施行60周年の蕨市を散策する

2019-04-21 09:44:13 | 日記

蕨市は、現職中は何度も所用で訪れたが、意外と何も知らなかった・・・もっと足を延ばして観て回ればよかったと反省した。 私たちが地理の授業で多くの特徴のある市町村名を覚えてきたが、ここ蕨市も記憶に残る都市名の一つである。それは人口密度が日本一、面積が最小などの記憶がある。

蕨市は、埼玉県南東部に位置し川口市、戸田市、さいたま市に接するやく74万人の都市である。土地は埼玉県南部の特徴である平坦な地形であり蕨市は大きな河川もない。産業分類では、第一次産業0.2%、第2次産業19.7%、第3次産業81.0%と給与所得者が多く必然的に蕨市の土地利用は住宅地となっている。

 

「蕨市」の市名の由来は、根拠となるものが残っていないが二つの説があり、植物からと言う説と在原業平が藁の火で体を暖めたことから「藁火(わらび)」と名付けられたという説があるが、文献上は「藁火」と記されたものは残っていない。

京浜東北線蕨駅で下車し西口に出ると階段下に「蕨駅開設記念碑」がある。開業は、明治26年(1893)で、当時の列車発着本数は上下11本で鉄道の開通で往来が盛んとなった。現在は、一日の乗車人員は60,856人/日で県内のJRの駅では利用者6位となっている。

蕨は中山道69次のうち板橋に続く2番目の宿場町である。中山道は、西口から1Kmほど西に歩いたところにある。離れているのは、駅開業に際し蕨宿の人たちが反対であったからである。これが宿場街として面影が残せたことにつながったのだろう。 途中、長泉院というお寺があった。山門入口の案内には蕨市指定文化財「梵鐘(おしゃみの鐘)」とあった。このお寺、檀家をもたない祈願時で、梵鐘は1758年に作られたもので蕨宿の「時の鐘」であった。水戸の弘道館の鐘と並んで江戸時代の名鐘の一つにかぞえらており、戦時中は鐘の供出が免除されている。境内に入っても梵鐘が見あたらない、何処かで保管しているのかとコンクリートの本堂の上を眺めると本堂上に梵鐘の屋根があった。

中山道に着き、蕨歴史民族資料館分館を訪れる。蕨市第4代市長金子氏の旧宅で貴重な遺産として市に買い上げられ別館として公開しています。資料館というよりも、明治時代に織物の買継商をしていた家をそのまま利用した商家である。敷地は、516坪(1705㎡)、床面積95坪(313㎡)木造平屋建て寄棟造りで中山道に面している、住居内には内蔵や天井の明かり取りなどもある商家兼住居の貴重な建築物であり、池のある庭園は、庭と住居の配置などのバランスがよく考えられている。建物は、明治20年、戦前、戦後に増改築された部分があるようだが、店の部分は一番古い明治期の建築である。 商いである買継商の織物は、蕨では江戸時代後期から塚越村を中心に綿織物業が盛んとなり「織物ののまち」として発展した「双子織」に代表される綿製品は、良質てで値段も安価なため評判となった。

分館から300mぐらいの所にある、本館である「蕨市立歴史民俗資料館」に向かう。隣が本陣跡になっており館内は蕨宿の模型や宿場に関わる資料展示、織物器などが展示してある。中山道には所々に旧家がある。ビルも少なく街道を楽しめる。

中山道ふれあい広場から右に曲がり、古刹である三学院に入る。天正19年(1591)に徳川家康から寺領20石を寄進されたお寺である。正式名称は、金亀山極楽寺三学院と言う。お寺で三学院という名称は珍しい印象を受けるが、推測であるが仏道を修行する者が必ず修めるべき基本的な修行項目である、戒学・定学・慧学か、秘密3部経、三学録からと思われる。 大きなお寺という印象が強いが本堂などの建物は新しいく古い物はないが、仏像、石仏などに関しては多くの文化財が残されている。

続いて「和楽備神社」 に、何とも当て字的な神社ではあるが、隣の蕨城の守り神として室町時代に創建された。明治44年(1911)に蕨にあった18の鎮守社を合祀して出来た神社。万葉仮名の表記を用いて「和楽備神社」と名付けた、それ以前は、八幡社として渋川氏の蕨城の守護神であった。

 神社の隣が「蕨城跡」である。観応3年(1352)文献(賀上家文書)のなかに初めて「蕨」の地名があらわれる。中世の蕨は、足利氏の一族であった渋川氏が館を(蕨城)を構え、市(いち)も開かれた。大永4年(1524)頃に北条氏綱に攻められ落城となり、その後、渋川氏が合戦で戦死し廃されたと伝わる。 現在は、城址公園として整備されている。 この公園でTVでも紹介される有名な記念像がある。「成年式発祥の記念像」である。成人式は、今日、国民の祝日として、多くの自治体が成人式のお祝いの行事をおこなっているが、ここ蕨町(現在の蕨市)で戦後初めて成年式をおこなったが、名称は「青年祭」といった。第1回青年祭は、昭和21年11月22日~23日の3日間であった。蕨での戦後復興に対する青年の役割や新生日本の原動力を期待する一つの行事だったのだろう。

 

蕨市は、小さい市であるが古い歴史を大切にし、蕨市市制60年後のさらなる躍進を、期待せずにはいられない街である。

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新木場駅付近の散策

2019-04-14 19:19:01 | 日記

京葉線の新木場駅で降りる。北が「夢の島」、南が「若洲」、東に荒川があり、西は「辰己」に接する。廃棄物で出来た造成地である、「夢の島」は、東京湾の埋め立て地の通称で、昭和32年(1957)から昭和42年まで埋め立てられた。埋立当初、遊園地などが計画された事もあり、マスコミが「夢の島」と呼んでおり、これが定着し、昭和44年(1969)に正式に行政地名となった。 新木場駅の木場は、材木を貯えて置くところであり、材木商や関連業が多く集まる所でもある。新木場駅の南と北では街の様子が異なる。

まずは、現在の木材の街「木場」を知るため、駅から数分の「木材・合板博物館」へ。 新木場タワービルの3・4階が関係施設となっているが、ビル全体が木材・合板関係の企業のビルのようだ。

ビルの入口に、堀江謙一さんの単独太平洋横断ヨットの「マーメード号」のレプリカが展示してあった。合板製のヨットのため展示しているようで、初代マーメード号は、米国の「国立海洋博物館」が所蔵との事であるが、ほんとうに小型ヨットで、こんな小さいヨットで横断できたのが不思議であった。

3階の展示室に入ると見学者は、私一人であった、マイナーな博物館なのだろうか? 館長さんが直々に丁寧に案内説明してくれました。森・木のいろいろな事、木材利用と環境、合板の知識と歴史、木のまちの今と昔など多岐にわたって展示している。4階は、学習・体験フロアーで小学生から大学生まで利用しているようです。

貯木場の事を聞いた所、昭和60年(1985)以降、インドネシアの丸太輸出全面禁止、フィリッピンの原木の輸出禁止、南洋材の価格急騰、輸出国での木材加工輸出に転換されてきたため最上階から貯木場を見たが想像していた貯木場の光景はなかった。

合板は雨に弱いイメージがあったが、現在は、接着剤が進歩し悪いイメージはありませんでした。

江戸時代、江戸市中に点在していた木材置き場が大火により被害を大きくしているため、深川に木場を造り280年あまり、深川は木材の町として栄えてた。 しかし、昭和30年に入ると ・江東区の地盤沈下により運河の機能が失われてきた。 ・木場拡張のための用地不足 ・台風、おおあめによる原木や筏の流出 ・蚊・ハエなどの問題 ・道路の使用が禁止され、道路での荷役ができなくなった。 ・荷役コスト等により、港頭への移転がせまられた。 そのため、新木場への移転となた。 しかし、その新木場も木場としての役割が変わってきた。街を歩いていると「木材」を掲げている会社はあるが業務内容が昔とは違っている。

 一軒のお店を訪問してみた。昭和10年から営業しているという老舗の材木問屋である「梶本銘木店」である。「世界の優良銘木展示場」とあるが、どう見ても展示物を見るのに躊躇する感じのため1階だけ見学させて下さいと言ったら、うちのメインは3階ですの返答に3階から拝見することに。メインと言うだけあって展示物が「スゴイ」の一言である。よく床が抜けないと思うほど銘木がところせましと立て掛けてある。1階には茶室が造られている、造るのに京都から職人が来て造ったとのこと、ある書物によるとマンションが買える茶室のショウルームであると。サラリーマンや年金生活者にとって目の毒であり、思わず「ため息」が出た。

木場を離れ駅の反対側である「夢の島」に、木場と違いモダンというか人工的というか、しかし埋め立て地とは想像がつかないほど整備されている。明治通りの両脇が陸上競技場、コロシアム、東京スポーツ文化館など多くのスポーツ施設この一帯にあり、あらためて埋め立て地だからこんなに集中できたと。

明治通りの陸橋である「かもめ橋」の脇から「第五福竜丸展示館」に入る 今月、リニューアルしたばかりの展示館である。 展示している「第五福竜丸」は、昭和29年(1954)3月1日に太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けたマグロ漁船である。私が小学校入学する前の出来事で当時のことはわからないが。この被爆事件は、のちのちまで報道されて、白黒の画面で観た記憶はある。

第五福竜丸とは 昭和22年(1947)に和歌山県で建造されました、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学(現:東京海洋大)で使われていましたが、昭和42年に廃船になりました。夢の島の埋め立て地に放置されていた所、1968年3月に朝日新聞の「声」欄に会社員の「沈めてよいか第五福竜丸」の投書で全国で保存のための取り組みが進められ、現在の展示館での展示となった。 獲ってきたマグロも放射能で汚染されていたので、検査後に処分されました。南の海で漁業していた多くの船からも汚染魚が出て大問題となりました。東日本大震災の福島県での東京電力原子力発電所事故が、再び放射能による汚染魚問題が繰り返された。

第五福竜丸展示館の前には、「夢の島マリーナ」が広がります。

夢の島公園で落ち着くのが「夢の島熱帯植物館」である。1988年に開設された施設で、隣接する新江東清掃工場からの温水で賄われている熱帯植物を主に展示する植物園でテーマに合わせたドームを3つ重ねた特徴的な施設である。私たちは熱帯雨林地帯の植物に接する機会は少ない。施設内は、大温室3ドーム、映像ホール、食虫植物温室、イベントホール、ハーブ園、情報ギャラリー、喫茶室など充実している。毎月、イベントが企画されておりトロピカル雰囲気を味わいながら学習もできる。

新木場は、駅を挟んで木材の街と夢の島という新しい街、今後、ますます充実していくと感じる地域である。

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