爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

迎賓館と新宿歴史博物館のミニ散歩(3) ー「新宿歴史博物館」見学ー

2019-11-25 16:56:44 | 日記
新宿歴史博物館の企画展「測量X地図」の見学が終わり、博物館の常設展の見学に。


今日、JR四ツ谷駅付近を歩いていると急に坂道になる所があったが、この辺が武蔵野台地と低地の境界部分に位置しているようだ。区内の箱根山の標高が約44mで山手線内で一番標高が高い人造の山とのことで高低差が大きい地域である。

現在の新宿区は、昭和21年(1946)の東京都区域整理委員会の答申により四谷区・牛込区・淀橋区が一つになった区である。区名については、いろいろ案があったようだが宿場町として古くから「内藤新宿」が知れ渡っていることから「新宿」となったようである。

博物館内常設展の写真撮影については、撮影スポットを4ヶ所設けているので、その場所での画像のみUPします。館内では遺跡展示、江戸時代、昭和など年代にそって展示しており、常設展示解説シートがあり子どもの学習活動の参考資料が充実している。

 
☆内藤新宿のすがた
江戸四宿の一つ内藤新宿は、日本橋を起点とした甲州街道の最初の宿場です。はじめ下・上高井戸宿(しもかみたかいど)が最初の宿場でしたが日本橋から4里(約15km)と遠いため、元禄11年(1698)江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛(のち喜六)らが、茅野原(かやのはら)だったこの辺りを開発しました。こうして日本橋から2里のところに宿場集落ができ町の一部が内藤家の屋敷地でしたので内藤新宿といわれました。五街道は、道中奉行が管理し、脇住還は各藩や代官所が管理しました。幕府は、五街道の各宿場に人馬、荷物、乗物などの利用について細かい規定をし、大名といえどもこの規定に従うよう定めました。
 

※「江戸名所図会」の「淀橋水車」
左に「淀橋」左下に「淀橋水車」が描かれ、江戸近郊の農村である。

☆商家のたたずまい(新宿区内)
商人は職人とともに町の代表的な一員でした。江戸時代には、「士農工商」といわれ、武士、農民、職人よりも低く位置づけられていましたが、しだいに江戸の経済を支える存在となりました。展示している商家は、店蔵(見世蔵とも言う)で江戸時代から明治時代に盛んに建てられました。店蔵は周りを漆喰で覆った防火建築です。火災がおこると二階の扉や一階の防火戸を閉め、隙間は出入りの左官が土でふさいだといわれています。本来は、物資の貯蔵、保存する蔵ですが、江戸の商人は自らの財産をまもるため、住居や店舗にもその工法を使うようになりました。東京の蔵造り建築は関東大震災で非常にもろかったことが原因でこれを境に急速に少なくなりました。

☆新宿駅前のにぎわい
「チンチン電車」の名で親しまれた昭和のはじめの東京市電は、その路線が網の目のように広がり、市民の足として活躍する大通りの主役でした。特に新宿は、郊外から都心に向かう通勤者の乗り換え利用客が多く、昭和2年(1927)には乗降客が東京駅を抜いて日本一になっています。
昭和5年には、市電としては初めての半鋼製の大型ボギー車5000形が製造されて、11・12系統を走りました。
昭和10年(1935)の新聞に、東京の盛り場での騒音調査をした結果が掲載され。電車、バス、円タクで新宿が一番の騒々しい場所で、特に市電が通る時がひどく市電を「わめく鬼」とまで言われました。

☆文化住宅の生活
昭和10年頃の落合に、住んでいた若いサラリーマンの住居が展示してあります。
大正の末から昭和の初めにかけて、山手線の外側に、サラリーマンの住宅が建ち並びます。
これは、新宿・渋谷・池袋などを起点とした郊外電車の交通網が形成され、それに合わせて鉄道会社が沿線の宅地開発を進めたためです。当時、関東大震災で被害の大きかった下町の人々や、地方から東京へやってきた新市民がすでに住宅不足で飽和状態だった旧市域(本所・深川から山手線の内側)から郊外の沿線に移り住みました。
目白文化村、田園調布、大泉学園、成城学園、国立などがあります。本格的な洋風住宅が多く建てられました。そうした住宅にあこがれ、小規模な和風住宅の玄関脇に洋間の応接をつけた「文化住宅」が流行していました。
 

新宿区ほど街並みが変わった所は珍しいのではないだろうか。昔の面影を探すのに苦労するのではないか。
かつて私が若いころ母と一緒に新宿駅に降りたとき、戦前の新宿しか知らない母があまりの変貌ぶりに驚いていたことを思い出す。毎年、何かが変わっていく新宿である。

〇一部資料については、新宿歴史博物館の博物館案内チラシと常設展示解説シートを利用させて頂いた。
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迎賓館と新宿歴史博物館のミニ散歩(2) ー「測量と地図展」見学ー

2019-11-24 14:13:24 | 日記
迎賓館見学が思ったより時間がかかり、目的の「測量と地図展」の会場である新宿歴史博物館に。
 今年が近代測量150年の年に当たるとのこと。近代測量とは、明治政府が国家統治に必要な基本的な情報として、我が国の国土の姿を把握するため設けた枠組みが、1869年(明治2)から数えて満150年に当たります。歩いて測った時代から衛星測量の時代まで歴史が紹介されました。

1.近代測量前史
近代化以前の江戸時代にも幕府が諸大名に命じて作成した国絵図のほか、名所案内や道中図、都市図(切絵図)など様々な地図が作られました。これらは正確な測量によるものでなく、縮尺や描き方も様々。日本の近代的地図は、伊能忠敬らによる全国測量に基づいて作成させた「大日本沿海輿地全図」(伊能図)が始まりである。「伊能図」は、幕府の機密書類として公開されませんでした。

伊能中図
明治7年(1874)以降に陸軍参謀局によって模写された伊能中図
文政4年(1821)に幕府に上程された「大日本沿海輿地全図」正本の中図8鋪(ホ)のうち、蝦夷東・西半分の2鋪を除く、6鋪を繋げたもの。
御用旗(レプリカ)右端
測量が幕府御用であることを周知させるために作ったのぼり。
 
2.近代測量の幕開け
新政府は、正確な地図の必要性を意識し、明治2年(1869)に民部官庶務司戸籍地図掛が設置されたのを皮切りに、工部省、兵部省などの官庁がそれぞれの方法で地図作りを開始。その後、測量地図作成機関の移管・統合を経て、明治17年(1884)に陸軍参謀本部測量局(後の陸地測量部)に統一された。測量については、三角測量により順次作成されていきます。

3.近代測量の発展 大正~昭和戦前(1912~1945)
明治23年(1890)に国の基本図を縮尺5万分の1で整備する方針に改め、大正13年(1890)には本州・四国・九州・北海道の内地の整備が34年の歳月をかけ完成しました。完成した地図は、軍事・事業に使われるだけでなく、一般にも販売され広く国民に還元されました。

4.戦災からの復興 戦後~昭和35年(1945~1960)
敗戦(昭和20年・1945)による軍部の解体とともに陸地測量部も解体。しかし戦災による実態を明らかにし、復興へとつなげるため、地形図の修正や新しい地図作成が必要であり、同年9月に内務省に地理調査所が設置され、業務が引き継がれました。昭和35年(1960)には、国土地理院と名称変更し現在に至ります。

5.高度成長を支える  昭和35年~64年(1960~1989)
戦災復興も一段落し、土地利用の高度化や開発を図るための地図利用が増加し写真測量などの技術が向上しました。2万5千分の1地形図の本格的な整備が始まり昭和58年(1983)に全国整備が完了しました。また、昭和39年(1964)から人口衛星観測を開始し、宇宙技術の導入が始まりました。

6.情報通信技術との融合 平成から令和へ(1989~ )
天体や人工衛星からの電波を利用して地球上の位置を決定する方法が活用されていきます。平成5年(1993)度から衛星からの電波を受信するアンテナである電子基準点の全国整備が本格的に開始され、平成14年(2002)に全国整備が完了しました。人々の生活では、カーナビやGPSが普及し、紙の地図だけでなく、デジタル地図も一般化しました。

まさに、歩いて測った時代から衛星測量まで隔世の感がある、1枚の地図から過去と未来を感じる日であった。
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迎賓館と新宿歴史博物館のミニ散歩(1) ー迎賓館赤坂離宮見学ー

2019-11-22 15:46:39 | 日記

地図センター講演の際、「測量×地図展」の招待券をいただいたため新宿歴史博物館に。

博物館に行く前に同じJR四ツ谷駅付近にある、迎賓館に立ち寄る。
この迎賓館は、紀州徳川家の江戸中屋敷があった場所に10年の歳月をかけて、明治42年(1909)に東宮御所(皇太子の居所)として建設、地上2階、地下1階、幅125m、奥行き89m、高さ23.2mの明治時代としては豪華な建物です。実際にはあまり使用されることがなく、国に移管され行政機関で使用されるなどしましたが、外国の賓客の接遇施設として改修し昭和49年(1974)現在の迎賓館赤坂離宮として完成しました。

                            ※写真:迎賓館見学パンフレットより

見学受付は、西門からとなっている流れに沿っていくとテントがあり皆さん並んでいる持ち物検査で時間がかかっている。検査も終わり見学料1500円(本館・庭園)を支払う。和風別館も入れると2000円になる。シルバー料金はない、チョット高い感じを受けるが、最近の皇室ブームで見学者は多い。そういう私もブームに振り回されているかもしれない。
通年公開されたのが2016年4月からで、予約の必要がないため混雑は続きそうです。

やっとのことで本館内部へ、内部撮影禁止で豪華さを共有できないのが残念。バロック建築と言うのかヨーロッパの宮殿という感じ、参考にしたのだから当然かもしれません。あまりにも庶民とはかけ離れた建造物にフランスの宮殿を見学しているようです。

「羽衣の間」 天井画  ※写真:迎賓館見学パンフレットより

正面玄関、2階大ホールに続く ※写真:迎賓館見学パンフレットより
市松模様の白い部分は創建当時のイタリア産の大理石

「朝日の間」 最も格式の高い部屋 ※写真:迎賓館見学パンフレットより


「朝日の間}天井画     ※写真:迎賓館見学パンフレットより

「彩鸞の間」       ※写真:迎賓館見学パンフレットより
最初に案内される控えの間、大きい鏡にはビックリです

「花鳥の間」晩餐会が催される ※写真:迎賓館見学パンフレットより

「羽衣の間」        ※写真:迎賓館見学パンフレットより
オーケストラボックスを備えている、舞踏会を連想させます

館内を一巡後、庭園の見学となり撮影OKとなります。まさに内外ともに豪華の一言です。

主庭の噴水から本館を撮影

主庭より本館を撮影

前庭からの画像      ※写真:迎賓館見学パンフレットより

迎賓館というとこちらからの写真が多いのでは

前庭からの写真  この建物のカーブがなんとも言えません

平日の晴の日に行きましたが、職員の方、警備の方、警察の方の多さにビックリしました。

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台風被害の栃木市へ

2019-11-15 18:24:26 | 日記

11月の「退職者の会」日帰り散歩は、10月の予定が雨天で延期になっていた栃木市散歩。この栃木市は私は3回目の訪問、「退職者の会」の日帰り散歩も2回目の企画となる人気のコースです。ブログには、3回目のUPとなります、重複する部分が多くありますので前回、前々回のブログを参考にしていただき新しいものを中心にUPします。
        2014-12-27UP
               2017-12-04UPを参照してください。
幹事のMさんが台風被害のこともあり、市の観光課の方と連絡とって頂き2・3ヶ所見学、乗船できないが他は影響ないとのことで実施されました。

台風で不通になっていた両毛線も1か月たち11日に開通。駅前に関しては台風の影響を感じさせませんが、駅近くの空き地には処理されず残っている災害ゴミが山積みとなっていました。

定願寺、延命寺、満福寺、神明宮、山本有三の墓石のある近龍寺と立ち寄りました。延命寺は今回初めて訪れました。こちらも定願寺と同じ天台宗のお寺でした、入り口が分かりにくいお寺で参道?を行くと本堂の横に出る感じです、詳細は不明ですが庚申塔など石碑から古いお寺かと思われます。

  昼食は、前回と同じ評判の良かった「栃木グランドホテル」に入りました。
組合「退職者の会」サークルである日帰り散歩例会が、100回を超えて101回とのことで当日参加者より一番付き合いの長かったSさんより感謝を込めてMさんに感謝の品を贈りました。旅行の幹事というのは大変で、案内はがき、資料、記念写真と一人何役も・・・。今後も回を重ねられるといいですね。

午後のコースは、山本有三ふるさと記念館(生家)、とちぎ山車会館、栃木病院、旧市役所別館、横山郷土資料館、片岡写真館と巡り。栃木病院だけは初めて行く、旧市役所別館(大正10年)のような木造2階建の建物である。こちらの方は、もっと古く1912年(大正2)の洋館建築であり、大正レトロを感じさせる洋館である。南洋樹木が周りにあり2階部分のバルコニーが病院らしくない建築である。外国の雰囲気をかもしだしています。現在もまだ使われており、内部はどうなってるか??。栃木市は、見世蔵とともにこうしたレトロ洋館が残り、趣のある街並みを残しています。                                           

途中、「小江戸ひろば」で開催中の「とちぎ菊花大会」で菊鑑賞も・・・。
まだまだ台風の影響が残る栃木市でした、歩いていても「ここまで浸水したの!!」と、一日も早く元の生活に戻れますようお祈りします。

【その他のPhoto】


 

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台風被害の栃木市へ

2019-11-15 18:24:26 | 日記

11月の「退職者の会」日帰り散歩は、10月の予定が雨天で延期になっていた栃木市散歩。この栃木市は私は3回目の訪問、「退職者の会」の日帰り散歩も2回目の企画となる人気のコースです。ブログには、3回目のUPとなります、重複する部分が多くありますので前回、前々回のブログを参考にしていただき新しいものを中心にUPします。
        2014-12-27UP
                2017-12-04UPを参照してください。
幹事のMさんが台風被害のこともあり、市の観光課の方と連絡とって頂き2・3ヶ所見学、乗船できないが他は影響ないとのことで実施されました。

台風で不通になっていた両毛線も1か月たち11日に開通。駅前に関しては台風の影響を感じさせませんが、駅近くの空き地には処理されず残っている災害ゴミが山積みとなっていました。

定願寺、延命寺、満福寺、神明宮、山本有三の墓石のある近龍寺と立ち寄りました。延命寺は今回初めて訪れました。こちらも定願寺と同じ天台宗のお寺でした、入り口が分かりにくいお寺で参道?を行くと本堂の横に出る感じです、詳細は不明ですが庚申塔など石碑から古いお寺かと思われます。

  昼食は、前回と同じ評判の良かった「栃木グランドホテル」に入りました。
組合「退職者の会」サークルである日帰り散歩例会が、100回を超えて101回とのことで当日参加者より一番付き合いの長かったSさんより感謝を込めてMさんに感謝の品を贈りました。旅行の幹事というのは大変で、案内はがき、資料、記念写真と一人何役も・・・。今後も回を重ねられるといいですね。

          
                                                                                                午後のコースは、山本有三ふるさと記念館(生家)、とちぎ山車会館、栃木病院、旧市役所別館、横山郷土資料館、片岡写真館と巡り。栃木病院だけは初めて行く、旧市役所別館(大正10年)のような木造2階建の建物である。こちらの方は、もっと古く1912年(大正2)の洋館建築であり、大正レトロを感じさせる洋館である。南洋樹木が周りにあり2階部分のバルコニーが病院らしくない建築である。外国の雰囲気をかもしだしています。現在もまだ使われており、内部はどうなっているのか・・・。栃木市は、見世蔵とともにこうしたレトロ洋館が残り、趣のある街並みを残しています。                                                
  途中、「小江戸ひろば」で開催中の「とちぎ菊花大会」で菊鑑賞も・・・。
まだまだ台風の影響が残る栃木市でした、歩いていても「ここまで浸水したの!!」と、一日も早く元の生活に戻れますようお祈りします。

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