爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

九条の会集会&パレード

2014-11-25 07:35:52 | 日記

11月24日に「9条の会」主催の「安倍内閣の改憲暴走を許さない! 九条の会集会&パレード」が開催された。久々に集会に組合OBの仲間と参加した、と言ってもパレードのみの参加である。かつて、作家の井上ひさし氏が自分は「中立」だと思っていたが、現在は「右より」にいたと書物で読んだ事があるが、まさに、沈黙する事はそのような結果を招く。私が学生の時代は、学園紛争で大学が封鎖されるなど経験したが、現在は、当時と比較ならないほど、未来の日本が暗い時代になろうとしている。パレード参加者は年配の方が多い、皆さんこれで良いのかと叫びたくなる・・・祖父母・父母らの犠牲や辛苦により築いてきた石垣を壊していいのか。
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「谷根千」界隈の散策

2014-11-17 18:41:21 | 日記
11月の「退職者の会」の散策は谷根千を巡る散歩である。谷根千は、散歩としては定番コースであり「退職者の会」でも2回目との事、私も友人との「七福神巡り」以来である。幹事のMさんが前回と重複しないようコースを考えてくれました、それだけこの一帯は見どころ一杯の地域です。日暮里で下車し坂道を上がる、この坂道は、坂下に御隠殿があったことから「御殿坂」と付けられたと言われている、上がった所に「本行寺」がある。太田道灌の孫の太田資高が建立し、現在の地に移転したお寺です。景勝地であった事から別名「月見寺」と言われ江戸の文人墨客が集まったようです、その中の小林一茶と住職が親交があり、一茶の句碑があった。種田山頭火の句碑もあり「ほっと月がある 東京に来てゐる」はこのお寺の雰囲気が伝わる。

隣のお寺が経王寺である、上野戦争の時に「彰義隊」を匿ったとして、門には新政府軍の銃撃の跡が残っている。さらに経王寺の隣が延命院である、境内には東京都指定天然記念物の「延命院の大シイ」がある。参加者のNさんが「要介護5」だな!上手いこと言うと思うほど鉄の太い支えが何本も、Tさんが鳥居かと思ったと・・・・。このお寺「大シイ」の他に有名なのが「延命院事件」、僧侶が奥女中と密接な関係を作る手助けをし、寺社奉行に摘発された事でも有名に。こういう事件は、今も昔もあまり変わらないようです。

御殿坂の上にあるのが「夕やけだんだん」と「谷中銀座」である。沢山の猫が集まる事から「夕やけにゃんにゃん」とも呼ばれる。地名の由来はノンフィクション作家の「森まゆみ」さんが命名した、「谷根千」をこれまで有名にしたのは森さんの力によるものである。

「夕やけだんだん」を降りて左に進むと宋林寺がある、元禄14年よりこの地に本堂を構え、当時より多くの萩が植えられ、その事が萩寺として親しまれている。向かいにCAFE,ART,SALONなど複合的な建物「HAGISO」があるが、このお寺が大家さんのようである。お寺の先には「岡倉天心旧居跡」があり、現在は公園となっている。奥には「六角堂」があり中に「岡倉天心」の銅像がある。
公園を出て「蛍坂」を上がる、宋林寺付近は「螢沢」と呼ばれたため「蛍坂」と言われたようだ。

上がった所の先に観音寺がある、このお寺は赤穂浪士ゆかりの寺で、会合の場所に度々使用された事で知られているが、もう一つ有名なのが「築地塀」である、「築地塀」は、あまり残ってなく見ることが少なくなっているが、ここの「築地塀」は長く整っおり平成4年に台東区の「まちかど賞」を受賞している。下が舗装されてなければタイムスリップし江戸時代のような感じで、町人姿の人が歩いて出てきそうである。

「築地塀」を過ぎて右に曲がった所に谷中七福神の「長安寺」がある、鎌倉・室町時代の「板碑」や日本画家の狩野芳涯の墓がある。観音寺の脇道を入った所の安立寺には、現代日本美術の発展に寄与した画家である「下村観山」の墓がある、東京美術学校を卒業し同校の助教授となり、岡倉天心の日本美術院創立に参加し横山大観らと活躍した。

安立寺を出て、三崎坂(さんさき坂)を下る、別名「首振坂」と言い、右も左も 寺ばかりで首を振り振り上り下りしたという説があるようです。全生庵はそうした三崎坂にあります、このお寺は、古くはなく山岡鉄舟が明治維新の際に国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立した。幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家である山岡鉄舟、独特な人情噺・怪談噺で有名な落語家、初代三遊亭圓朝、「鯉のぼり」「浜千鳥」「叱られて」「春よこい」など数多くを作曲した弘田龍太郎が祀られている。このお寺、安倍総理が座禅をした事でも有名で、何かしら「靖国神社」的な感じも受けるが、山岡鉄舟が保守政治家の精神的な支柱でもあるのだろう。


谷根千のコースは、お寺や街並みが主になるが、Mさんが見せたかった一つが?ヒマラヤ杉のようだ。映画やドラマの下町風情を出す時のロケ地として有名との話である。みかどパン店とヒマラヤ杉が「昭和」を感じさせてくれ何となくノストラジックにさせてくれる。このヒマラヤ杉は、植木鉢から育った物との事、一同よくこんなに育つ物だと感心する。

お昼が近づきMさんが予約してくれた「はん亭」に入る。木造3階建てで、国登録有形文化財にしていされている。大正期1917年に改築された瓦葺寄棟屋根の木造3階建の町屋で、もとは下駄の爪皮問屋だったようである。建物は古いがランチ料理は前菜・串揚げ・デザートとモダンなコースでした。

降りて着いたところが根津神社である、左手に権現坂(S坂)を見てお参りを。境内は、権現造りで重要文化財の建造物が多く、東京十社の一社に数えられる古社である。この日は、七五三の前日で家族連れがお参りをしていた。近所に夏目漱石、森鴎外など文豪か住んでいた関係で因んだ旧跡もある。

境内にある「森鴎外奉納の石」は、現在は水飲み場として利用しているが、裏側に「陸軍医監 森林太郎」と銘がある。「文豪憩いの石」は、森鴎外、夏目漱石が想いを練ったと言われている。皆それぞれ「文豪憩いの石」に腰掛けたが、単に疲れて腰掛けた爺婆のようでした・・・


根津神社を後にして「藪下通り」へ昔は道幅も狭く両側が笹藪で覆われていた、脇にそれた所に「夏目漱石旧居跡」別名「猫の家」がある、「碑」がなければ気がつかないほど変わってしまっている、塀の上に「猫の像」が乗っていて「吾輩は猫である」事を思い浮かばせる。

さらに団子坂の通りに出て、駒込大観音が目の前に、この団子坂は、都内の坂の中でも文芸作品の中によく描かれる坂道である、「藪そば」の本家はこの団子坂にありましたが、本家そのものは「相場」で失敗し現在ではありません。さらに上がっていくと「青鞜社」発祥の地の標識が、平塚雷鳥が結成した女性文学者の組織で、その宣言は、「元始、女性は太陽であった。・・・」は有名であり、婦人解放運動の始まった場所でもある。
最後の訪問場所は、「森鴎外記念館」である。森鴎外の旧居「観潮楼」の跡地で明治25年から大正11年まで過ごしました。見晴らしのよい高台にあり、ビルとビルの間にスカイツリーが見えます、「観潮楼」は、2階の書斎から東京湾が見られたので付けられました。

 ここで、日帰り散歩は解散です。「谷根千」は、観光マップを見ても訪問しない所がまだまだ多くあり、次の行く機会を楽しみに。

【Other Photo】
晩秋の中の散歩、天気も良く爽やかな散歩でした。まだまだお花も綺麗です。根津教会は散歩コースには入っていませんが、国の登録有形文化財に登録されているとの事で写真をとりました。大正8年に建造されトンガリ屋根が当時から目立つ存在だったのでしょう。

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妻が介護から戻る

2014-11-03 17:55:37 | 日記
妻が1週間の介護から戻ってきた。「胃ろう」問題では「処置する・しない」で、インターネットで資料を取ったり、相談したりで心配をし、当面、「胃ろう」しない方向で進んでいるが、新たな問題として退院しなければならない時が家族にとって悩みだった。
看護師からは、今後どうするか聞かれるなど、田舎の母の介護施設を見つけるのは大変な事で、妻も「ケアマネージャー」や病院の「ソーシャルワーカー」に相談してきたが、たまたま見舞いに来た「いとこ」が施設を紹介し案内までしてくれた、経営者が妻にとって面識のない「いとこ」であったが、偶然とは言えありがたい事である。
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