爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

講座「描かれた城下町水戸」を聞いて

2022-12-23 13:11:27 | 日記

副題として「偕楽園・弘道館・千波湖の魅力」、偕楽園や弘道館を開いた9代藩主徳川斉昭、さらに徳川慶喜が過ごした水戸は、歴史の痕跡が色濃く残っています、そんな水戸を茨城大学名誉教授・小野寺 敦氏が紹介してくれました。小野寺氏は、NHKブラタモリにも出演され、水戸市の観光パンフレットにも協力しており、茨城県の歴史地理には精通している方です。
お聞きした内容とインターネットで調べた事を合わせて、まとめてみました。

◇水戸市の概要◇
関東平野の東で太平洋に面している茨城県の中央部に位置している、東京から100Km。那珂川と千波湖に挟まれた水戸市は、那珂川付近は低地、他は舌状台地に発展した市である。水戸市の地名由来は、那珂川の舟運の河港として盛え、水運の戸口からとの事である。人口は、269,466人(2022.11.1)で県庁所在地の市では1割に満たず、全国では最低です、水戸市以南では東京等への通勤で分散しているのだろうか。気候は、茨城県は太平洋側の三陸・東海と同様に比較的温和ですが東北に近いため朝夕に冷え込みがある、降雨による災害があるものの穏やかな土地柄と言えます。

◇水戸城・城下町◇ 

城郭は、土塁と空堀のお城である。那珂川と千波湖に挟まれた台地状にある。堀の造成に莫大な費用がかかるため、天然の谷を利用と河岸段丘を最大限利用し堀を整備しました。江戸時代の城主は、転封や急死のため徳川頼宣となり、以後、御三家(水戸徳川家)の居城として明治の初めまで続きました。水戸藩は、藩主が代わられても城を造り直さず、最大限利用しました、まさしく節約精神で藩政にあたりました。水戸徳川家は、御三家のなかでも江戸での暮らしが長かったため、家臣は水戸と江戸での生活のため膨大な費用がかかりました。そのためか参勤交代を行わない定府大名でした。
*定府大名ー江戸時代に参勤交代を行わず藩主が江戸に定住する

◇城下の整備◇
(1)田町越え
城下を整備するため大規模な区画整理を行いました。上市の町人を田町越えと称し下市(現在・本町周辺)に移住させます。そのために湿地帯の排水整備を「備前堀」として行いました。
(2)笠原水道
しかし移住後、飲用水が不適との問題が生じ、そのため台地からの湧水を確保することになりましたが急勾配のため配水がうまく制御できないため1962年笠原水道に着手し無事完成しました。その水道を引いた人物こそ水戸光圀です。構造は、暗渠の水道で、石は水戸城の下に石切り場がありました。石は泥が固まってできた凝灰質泥岩で、軽いので湿地帯に埋めても沈下することがないそうです。なお、光圀は水源を保護するため敷地内の肉食や釣を禁じている。(漱石所規約)

(3)備前堀
備前堀とは桜川と涸沼川を結ぶ用水路。水戸市の桜川・柳堤水門から涸沼川へ流れる、農業用水路として使われ千波湖の水害対策の側面もあった。1610年に徳川頼房が千波湖の治水と周辺の農業用水として関東郡代であった伊奈備前守忠次によって造成された、名称は彼の名からとられた。

水戸藩のまちづくりは、低湿地を埋め立てするなどし武家屋敷を北側に配置し、自然から守り陽光を利用した町並み配置を考えた町づくりをしました。上市と下市との間は、千波湖の中を通る(柳堤・新道)で結ばれ、それ以外は通行できなかったようです。  

城郭は、舌状台地の先端に築かれ、城郭を中心に、家格や役職によって上級、中級、下級武士と、武家屋敷を同心円的に配置した。堀の内部は武家屋敷のみの場合と、内部に町人地を含む城下が構成された。城から離れるほど下級武士、城下に入れない者もいる。城下の外縁には寺町が配置された。城下人口の増加などを理由に、寺町を移動した例は多い。水戸でも1666年から寺院を移動させた。水戸では追い出され神道になる。水戸城下では、城郭を中心に台地上の武家地と町人地、低湿地上の武家地と町人地にわかれる双子町の城下となった。

◇徳川斉昭の功績◇
水戸藩第9代の藩主で、最後の将軍徳川慶喜の実父である、藩政改革に成功した幕末期の名君の一人である。藩政では弘道館を設立し、門閥派を押さえて下士層から広く人材を登用することに努め、下級武士層の藩士にて改革を実施した。大規模軍事訓練、農村救済、西洋近代兵器の国産化推進した。こうした改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたと言われる。宗教に関してはお寺の釣鐘や仏像を没収して海防のための大砲の材料とし、廃寺や地蔵の撤去を行った。村ごとに神社を設置するなど、仏教抑圧、神道重視政策は明治初期の神仏分離、廃仏毀釈の先駆けとなたが、時節柄やむを得ない政策とも言われた。
晩年は、大老井伊直弼との政争に敗れ蟄居のまま死去した。
*水戸学ー水戸光圀の歴史書「大日本史」によって形成された学風・学問。徳川斉昭によって尊王攘夷論に発展させた。この思想が明治維新につながった。

◇弘道館と偕楽園◇
天保12年8月1日、日本最大の藩校弘道館を仮開設し、15歳~40歳までの藩士とその子弟に、儒学、歴史、和歌、剣術、馬術、砲術、水練に加え医学、蘭学、天文学など学ぶことが出来る総合大学として順次整備。
弘道館建設の翌年、天保13年(1842)に偕楽園を作り始めます。徳川斉昭の自撰自著の「偕楽園記」には、「衆と偕に楽しむ」を語源とすることが記されています斉昭の教育に対する考え方を示す「一張一弛」は、
「一張」は弘道館で藩士の子弟が緊張感をもって勉学に打ち込むように。
「一弛」は偕楽園で心安らに自然としたしむことを意味していました。
弘道館と偕楽園は個々にあるのではなく二つで一つです。偕楽園は、3と8の日に領民に開放され、明治以降も人々に愛される園です。水戸藩は上屋敷に「後楽園」があり、庭園は藩主が回遊して景色を楽しむ場、馬術・弓術の鍛錬の場でもあったが、競って築庭し江戸城下の面積の半分は、大名屋敷とその庭園とも言われた。また、領民の苦労を忘れないため「神田」としての水田(彦根・玄宮園/水戸・後楽園)が設けられた庭園もあった。
江戸時代から続く庭園は多くあるが水戸・偕楽園が日本三名園の一つであることがうなずける。

 

 

◇千波湖◇
周囲3km、平均水深1mのひょうたん型の淡水湖である、水深が1mでは湖というより沼の感じだが、湖の定義は、周囲を陸地に囲まれたくぼ地で水をたたえた所。池や沼よりも大きく沿岸植物が生育できない深い深度(5m以上)をもつものとあるが・・・。千波湖の南北を台地に挟まれ、桜川が千波湖の湖岸に沿って流れており、河川法上は桜川に含まれている。偕楽園とともに代表する景観である。 
千波湖の原型は、古那珂川の堆積物により古桜川が堰き止められた出来た(堰止湖)、当時は現在の湖の3倍の広さがあった。水戸城にとって千波湖は、天然の外堀です。湖南東端には「備前堀」の水路が造られ周辺の水田へ水が供給された。

◇水戸光圀と「大日本史」◇
TV水戸黄門では、諸国漫遊の旅で有名であるが、それはTVでのこと。水戸光圀は、「大日本史」(402巻)の編纂した人物である。初代から100代目までの天皇の治世を記した史記である、光圀の死後も水戸藩の事業として継続し2百数十年かけ、明治時代に完成した。携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。光圀は、勉強家で学問による教育の重視、人材をつくる学問も重視しました。光圀は、大日本史のため資料を収集のため全国に藩士を派遣したと伝えられ、それが水戸黄門の諸国漫遊伝説のモチーフとなったともいわれています。「大日本史」は、水戸藩以外にも流通し50ヶ所以上の藩校の教材として使われ光圀の名は日本中に広まりました。

◇横山大観 生誕の地◇
明治時代の近代画家としての「日本画」を確立し、牽引力となった横山大観(1868/慶応4・明治元年~1958/昭和33年)の生誕の地です。大観は水戸藩武家屋敷の酒井家の長男として生まれました。東京英語学校に通学の時から絵画に興味を抱き、東京美術学校入学し岡倉天心の影響を受け独自の画風を確立した。


                  

◇水戸納豆◇      
納豆といえば水戸納豆とすぐ出てくる。それだけ現在では健康食品として好まれて食しているが、歴史は古い。平安時代の武将・源義家が奥州に向かう途中、水戸に泊まった際に馬の飼料である煮豆の残りから納豆が出来たと言われている。自然に発酵した豆を美味しかったことから、義家に献上したところ大変喜ばれた。以来、将軍に納めた豆という意味で「納豆」と名付けられた。(名前の由来は諸説あり)近代食品工業として製造技術を確立、近代的マーケティングによって販路を拡大したのが、明治創業で水戸の発祥といわれる「天狗納豆」で、初代の笹沼清左衛門が目にした古文書に「江戸では糸ひき納豆を好んで食べる」と記してあるのを水戸の名物にしようと商品化した結果と言われる。


よく話題になる「都道府県魅力度ランキング」は、今年は47都道府県中46位であった。相変わらず下の方で低迷しているが、本講座を聞いて、こんな歴史・文化、山・川・湖と豊かな自然に恵まれ、素晴らしい食材を提供する茨城県がなぜ?と思う。茨城県はTVの水戸黄門のイメージがあるが、黄門様のように理知的・努力・行動力のある人材が江戸時代の水戸には多かったのでしょう。

参考資料
 ・本講座ー「描かれた城下町水戸」配布資料
 ・ブラタモリ11(株式会社KADOKAWA)
  ・茨城県・水戸市観光パンフレット及びHP資料
 ・Wikipedia
 ・その他、画像に記載

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印刷博物館で「地図と印刷」展

2022-12-06 14:14:33 | 日記

地図に関わる展示会はあるが、「地図と印刷」展は珍しく興味があり印刷博物館へ。

地下鉄・江戸川橋駅が近いようであるが、JR飯田橋で下車。博物館に向かったが間違って神楽坂に、神楽坂は何十年ぶりだろ、せっかくなので「善国寺」に立ち寄る。創建は安土桃山時代で日蓮宗のお寺である。本尊は、毘沙門天で江戸三毘沙門の一つといわれていました。

印刷博物館を併設しているトッパン小石川本社ビルへ。創立100周年記念事業のひとつとして2000年に建設され、博物館、クラシックホールの文化施設を複合したモダンなビルとなっています。

企業による博物館のため、期待はしなかったが、ビックリ!! 入ってすぐにプロローグとして壁面に印刷初期のレプリカ等を圧巻の展示。展示室には、印刷の始まりから近代の印刷技術まで年代ごとに展示。「印刷」とは紙などの媒体に文字や写真などを刷り上げる工程ことを言いますが、印刷は、世界四大発明(羅針盤・火薬・紙・印刷)の一つになるほど人間社会にとって画期的な発明である。

博物館では、印刷の日本史・世界史のコーナーを中心に、印刷×技術、印刷工房として展示、ワークショップとなっている。(一部事前申し込み)
日本史では奈良時代から始まったとされる「百万塔陀羅尼」の印刷の宮廷・寺院から、近世では民間に広がり、近代では印刷産業の近代化、現代では消費社会と印刷。世界史では、700年~の書写から印刷へ→1400年~活版印刷の東西→1500年~宗教改革、各国語の成立→1600年~科学の勃興、大学からアカデミーへ→1700年~ニュースメディアの台頭、市民革命と出版の自由化→1800年~新しい印刷表現、大量生産時代→1900年~戦争とプロパガンダ、光学から電子化へ。

中国から始まった印刷が、木版印刷から活版印刷によりフレキシブル工程となった、グーテンベルグがより機械的な印刷術により、欧州のルネッサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学の進展に大きな役割を果たした。
海外・日本とも、宗教による発展が大きく、娯楽、科学・文学・芸術の発展に寄与したがプロパガンダという側面もあった。

 

企画展である「地図と印刷」は、地図と印刷という面白い組み合わせ興味のある所ですが、当然、写真撮影が禁止となっており残念です。京都で木版印刷による民間での印刷・出版が始まり、地図の印刷も同様、最初は中世以来の世界観の日本図が描かれる一方で、印刷された都市図も早い段階で誕生しました。

展示は第一部から第三部まで分かれて展示しています。

第一部は、「日本の印刷地図の始まりと文治の展開」
地図印刷の始まりは、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」の図との事である、拾芥抄は、中世日本で出された類書、いわゆる百科事典のような物のようです。江戸時代元禄期の石川流宣の「日本海山潮陸図」でスタンダードとなり地図(絵図)が大衆化しました。

第二部は、「地誌の大成と拡がる世界」
今までの武断政治から世の中を治めるため学問や儒教を中心とする教養で治められ地図や特に地誌づくりが展開されました。地図では長久保赤水の「改正日本路程全図」がベストセラーとなりました。また、地誌では世界に目が向けられ地理知識が求められるようになりました。

第三部は、「世界との接近と伊能図の衝撃」に分かれて展示。
江戸後期に入ると、ロシアの南下政策など海外の列強が日本に急接近し、地図の重要性が認識されるようなり、伊能忠敬が作った「実測日本図(伊能図)」は、あまりの正確さに国家機密とされましたが、国外へ情報が伝わり印刷物として逆輸入されるにいたりました。

地図の資料については、各界の協力により展示されていましたが、印刷との関りが少なかったのが残念でした。

印刷に関わる展示品については撮影は可能ですが、企画展であった「地図と印刷」については不可のため配布資料による概要だけ。

トッパン小石川ビルの住所は、「東京都文京区水道1丁目」となっている。

水道という地名が珍しく調べてみると、この地に「神田上水」が通っていたからとの事。神田上水沿いを水道という名が付けられており江戸時代から小日向水道町、小石川金杉水道町と言われた。現在は、巻石通りとなっており通りを歩いていると「水道端」という名の図書館がある。

この通りに数軒のお寺があり、その中の本法寺は夏目漱石と関りがあり、実家のお墓があります。また、作品「坊ちゃん」の「清」の墓もあると言われ、漱石の句碑のあるお寺です。江戸城にも近く大名屋敷や寺社があったのでしょう。


トッパン小石川ビルの前に神田川に架かる「中ノ橋」がありますが上流と下流にある橋の間のはしのため「中ノ橋」と名付けられたようです。明治時代中期この両岸一帯に桜が植えられ明治末期まで東京市内屈指の桜の名所でした。

地図でもわかるが、この一帯は紙に関わる業者が多く見られるが、神田川も清流だったのだろう。かつては文学者等が多く居住し、いまなお、落ち着いた地域となっている。

【その他のPhoto】

 

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