10月の「退職者の会」日帰り散歩は、高井戸から烏山寺町を巡るコースである。北千住・下北沢と乗り換えし高井戸駅に到着。江戸時代には日本橋から最初の宿場町であったが、内藤新宿が新設された。もともと甲州街道は大名行列が少なく大きい宿場町ではなく脇本陣もなかった。地名は、高井家が代々務める寺に目印となる「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺の地名として残ったと言われている。
高井戸駅を降り立った前が環状八号線であり、南に歩いていくと吉祥院がある、明治16年に再興されたお寺で、もとは江戸時代の開創である。境内には石像を配置した築山があるが成田山を模して造られたと言われている。
さらに進むと高井戸第六天神社の石造の鳥居が見えて来る。当地の鎮守社であったと伝えられている神社である。中央自動車道の新設で改築や七社の境内社を祀る末社殿を再建した、本殿の精巧な彫刻は見事である。
中央自動車道を渡り住宅街を抜け医王寺に到着する、平安時代の創建と伝えられる古刹である。本尊の薬師如来像が眼病にご利益があると、江戸時代以降に「おめだま薬師」と信仰を集めた、庭は枯山水として砂利を掃き清めている。
医王寺を出て、甲州街道を西に向かい烏山に入る中央自動車道の高架下から寺町通に入る。所々、畑がある烏山は、区部に編入された最後の地区で世田谷区の田舎的な雰囲気がある、また、お寺が点在し京都的な雰囲気もあり、「おこしやす」と声が聞えてきそうである。
この烏山寺町は、大正12年の関東大震災後に区画整理により形成された地区である、浅草・築地・麻布のお寺が引っ越してきたがその数26ある。烏山寺町への入口の案内板に「烏山寺町環境協定」の説明文があったが、 都市化の中、地域住民と寺院が自らの手で自然を守ろうと立ち上がり昭和50年11月10日「烏山寺町環境協定」が締結され、「烏山寺町の環境を守る会」が発足したとある。
協定の第4条に「町なみの維持整備」があり、配慮事項を明記しているが、そのせいか「寺町通り」にはお寺につきものの花屋、石屋が見当たらない、もちろんコンビニもない。
どのお寺も綺麗に整備されており立派である、お寺の門も大きく開かれて見学しやすく感じのいい寺町である。参加者みなが屋根の飾り感心する。「すみ棟鬼飾り」と「ちご棟鬼飾り」と言うらしいが屋根の四隅に二段の飾りがあり、機能的な面と魔除けの面があるようである。
とても26カ所のお寺を回る事が出来ないため、主な所だけ見学させて頂き千歳烏山駅より帰宅する。
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高井戸駅を降り立った前が環状八号線であり、南に歩いていくと吉祥院がある、明治16年に再興されたお寺で、もとは江戸時代の開創である。境内には石像を配置した築山があるが成田山を模して造られたと言われている。
さらに進むと高井戸第六天神社の石造の鳥居が見えて来る。当地の鎮守社であったと伝えられている神社である。中央自動車道の新設で改築や七社の境内社を祀る末社殿を再建した、本殿の精巧な彫刻は見事である。
中央自動車道を渡り住宅街を抜け医王寺に到着する、平安時代の創建と伝えられる古刹である。本尊の薬師如来像が眼病にご利益があると、江戸時代以降に「おめだま薬師」と信仰を集めた、庭は枯山水として砂利を掃き清めている。
医王寺を出て、甲州街道を西に向かい烏山に入る中央自動車道の高架下から寺町通に入る。所々、畑がある烏山は、区部に編入された最後の地区で世田谷区の田舎的な雰囲気がある、また、お寺が点在し京都的な雰囲気もあり、「おこしやす」と声が聞えてきそうである。
この烏山寺町は、大正12年の関東大震災後に区画整理により形成された地区である、浅草・築地・麻布のお寺が引っ越してきたがその数26ある。烏山寺町への入口の案内板に「烏山寺町環境協定」の説明文があったが、 都市化の中、地域住民と寺院が自らの手で自然を守ろうと立ち上がり昭和50年11月10日「烏山寺町環境協定」が締結され、「烏山寺町の環境を守る会」が発足したとある。
協定の第4条に「町なみの維持整備」があり、配慮事項を明記しているが、そのせいか「寺町通り」にはお寺につきものの花屋、石屋が見当たらない、もちろんコンビニもない。
どのお寺も綺麗に整備されており立派である、お寺の門も大きく開かれて見学しやすく感じのいい寺町である。参加者みなが屋根の飾り感心する。「すみ棟鬼飾り」と「ちご棟鬼飾り」と言うらしいが屋根の四隅に二段の飾りがあり、機能的な面と魔除けの面があるようである。
とても26カ所のお寺を回る事が出来ないため、主な所だけ見学させて頂き千歳烏山駅より帰宅する。
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