爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

高井戸から烏山寺町の散策

2016-10-28 14:33:13 | 日記
10月の「退職者の会」日帰り散歩は、高井戸から烏山寺町を巡るコースである。北千住・下北沢と乗り換えし高井戸駅に到着。江戸時代には日本橋から最初の宿場町であったが、内藤新宿が新設された。もともと甲州街道は大名行列が少なく大きい宿場町ではなく脇本陣もなかった。地名は、高井家が代々務める寺に目印となる「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺の地名として残ったと言われている。
高井戸駅を降り立った前が環状八号線であり、南に歩いていくと吉祥院がある、明治16年に再興されたお寺で、もとは江戸時代の開創である。境内には石像を配置した築山があるが成田山を模して造られたと言われている。




さらに進むと高井戸第六天神社の石造の鳥居が見えて来る。当地の鎮守社であったと伝えられている神社である。中央自動車道の新設で改築や七社の境内社を祀る末社殿を再建した、本殿の精巧な彫刻は見事である。




中央自動車道を渡り住宅街を抜け医王寺に到着する、平安時代の創建と伝えられる古刹である。本尊の薬師如来像が眼病にご利益があると、江戸時代以降に「おめだま薬師」と信仰を集めた、庭は枯山水として砂利を掃き清めている。


医王寺を出て、甲州街道を西に向かい烏山に入る中央自動車道の高架下から寺町通に入る。所々、畑がある烏山は、区部に編入された最後の地区で世田谷区の田舎的な雰囲気がある、また、お寺が点在し京都的な雰囲気もあり、「おこしやす」と声が聞えてきそうである。


この烏山寺町は、大正12年の関東大震災後に区画整理により形成された地区である、浅草・築地・麻布のお寺が引っ越してきたがその数26ある。烏山寺町への入口の案内板に「烏山寺町環境協定」の説明文があったが、 都市化の中、地域住民と寺院が自らの手で自然を守ろうと立ち上がり昭和50年11月10日「烏山寺町環境協定」が締結され、「烏山寺町の環境を守る会」が発足したとある。
協定の第4条に「町なみの維持整備」があり、配慮事項を明記しているが、そのせいか「寺町通り」にはお寺につきものの花屋、石屋が見当たらない、もちろんコンビニもない。
どのお寺も綺麗に整備されており立派である、お寺の門も大きく開かれて見学しやすく感じのいい寺町である。参加者みなが屋根の飾り感心する。「すみ棟鬼飾り」と「ちご棟鬼飾り」と言うらしいが屋根の四隅に二段の飾りがあり、機能的な面と魔除けの面があるようである。













とても26カ所のお寺を回る事が出来ないため、主な所だけ見学させて頂き千歳烏山駅より帰宅する。

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深川界隈を散歩

2016-10-04 20:10:45 | 日記
門前仲町方面の散歩を考えていたところに、「退職者の会」日帰り散歩サークルの幹事であるMさんから「森下から門前仲町を巡る散策」の案内ハガキが届いた。門前仲町は一日では回りきれないので参加することに。
都営新宿線森下駅がSTARTである、清澄通りを南に歩き隅田川方面に曲がり「深川神明宮」に立ち寄る。
神社前の案内板「深川神明宮 由来」によると、徳川氏が関東入国後にこの地を巡視されたおり、深川八郎右衛門を呼び寄せ、地名を尋ねました。「まだ住む人も少なく地名もないと」と応えると家康公は姓である「深川」を地名とするよう命じました、これが深川の地名の起こりです。境内には和合稲荷神社と寿老神社があり、深川七福神の一つで、ご神徳は夫婦和合・商売繁盛です。


深川神明宮を出て隅田川に向かう、川沿いに「江東区芭蕉記念館」があり中に入るが、たまたま休館日で記念館に入館できなかったが、庭から裏木戸を抜けて隅田川に出る。川沿いに200mほど歩くと、芭蕉の座像が置かれた「芭蕉庵史跡展望公園」に入る、ここからの眺めは素晴らしい右手に「新大橋」 左に「清洲橋」が見える、この清州橋は建設当時に両岸にある、旧深川区清住町と旧日本橋区中洲町からとった、ドイツのケルン市にあるヒンデンブルグ橋をモデルに建設され、現在では重要文化財に指定されている。






展望公園から正木稲荷神社神社(おできの神様)・芭蕉稲荷神社に立ち寄り、万年橋を渡る。隅田川と小名木川の合流地点にあるこの橋は「万年」に渡って橋が長持ちするようにとの願いが込められた橋名とされた。(当時は洪水でよく橋が流された)また、ここからの景観が「ケルンの眺め」と呼ばれ、ドイツのケルンを流れるライン河に似ていると言われている。


深川稲荷神社、三野村ビル(創業者が三井の大番頭)、臨川寺(芭蕉ゆかりの寺)、霊厳寺(寛政の改革・松平定信墓石)と回りながら、





お楽しみの「深川めし」を初めて食す、こんなにアサリが入っているとは思わなかった、量も多くテーブルにはラップが置いてあった、どう見ても高級感は無く、シンプルで庶民の食事だったのだろう。

昼食後、「清澄庭園」に入る。「清澄庭園」は、豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられ、後に大名の下屋敷となり庭園が整えられたが、明治政府の廃藩置県により荒廃したが、この土地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り社員の慰安、賓客接待 施設として整備した。関東大震災で大きな被害を受けたため、一部を旧東京市に寄贈し現在に至っている。庭園は、中島を持つ広い池を中心に池の端を歩け、岩崎家が全国から集めた名石が配置されている。「清澄庭園」前に、私の好きなSpotがある、「旧東京市営店舗向住宅」で関東大震災後の復興事業の一環として建設された店舗付き住宅である。清澄通りに沿って立ち並ぶ鉄筋コンクリート造りの長屋で、80年以上経った今もなお営業している、一部改築されている部分があるようだが昭和初期を感じさせる建築物である。






門前仲町の方に進む、途中、仙台藩の蔵屋敷があり米などを運んだことから仙台堀川と名づけられた海辺橋を渡ると橋のたもとに芭蕉が住んだ採茶庵跡がある。
しばらくすると変わった門構えのお寺が見えてきた。深川えんま堂こと法乗院である、江戸三閻魔の一つである、日本一である3.5mの閻魔大王座像が鎮座していた、夜一人だと怖さが先に立つほど迫力がある。


門前仲町の中心となっている深川不動堂・富岡八幡宮に到着する。まずは「深川不動堂」からお参り、この日は「ご縁日特別大護摩供」で込み合っていた、大本山成田山新勝寺の東京別院で古くより深川のお不動様と親しまれてきた。中に入ることができ見学が順路として表示されている。本堂が新しく内部に多くの仏像や四国八十八カ所の巡拝所もあり、お参りする所が多い。
隣にあるのが江戸最大の八幡宮の「富岡八幡宮」である。境内を一回りすると下記の事がわかる。
・江戸三大祭りの一つ
・江戸勧進相撲発祥の地
・日本一の黄金神輿(宝石を多数使用)
・伊能忠敬が測量出る際、参拝し旅行の無事を祈願した。
・GPS国家基準点







この神社がいかに庶民に親しまれ、それが脈々と伝わり現在に至っているのがわかる。深川は、寺社を中心に下町情緒あふれ江戸時代を感じさせる街である。 今日は、江東区森下から富岡まで歩いて来たが16000歩を超えていた、意外に歩き出があったが、まだまだ立ち寄る所があり次回のお楽しみとなった。

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