爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「東京ステーションギャラリー」と「将門塚」を散策

2022-09-24 10:13:35 | 日記

「東京ステーションギャラリー」にて、「東北へのまなざし1930-1945」~タウト、柳宗悦、ペリアン、今和次郎らは何を見ようとしたのか~の展覧会が行われた。


名前の挙がっている、今和次郎氏については学生時代のレポートの題材であった「中門造り」「南部曲り家」について今和次郎氏の書籍「日本の民家」を神田の古本屋で購入し参考にし、レポートを仕上げることができた。
各氏がどのように東北地方と関わったか興味があり、展覧会に。
私のブログでも取り上げた、イザベラ・バードも日本各地を回ったが東北地方では好印象を与えた。東北はどうい土地なのだろうか、外国人の特有の物珍しさから来るものなのか?・・・
「東北へのまなざし」展は、1930(S5)年~1945(S20)年の東北地方にスポットをあてて、調査・研究・収集品を展示している。


チラシによれば1930~1945年の年代は、太平洋戦争傾斜を深める一方で写真などのグラフィカルな視覚文化が到来し、建築や生活文化が変貌するなど、モダンとクラシック、都会と地方の両極の時代で揺れ動いた時期でもあった。この頃、先端的な意識を持った人々が東北地方を訪れ、東北の建築や生活用品に注目。1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウト、民藝運動を展開した柳宗悦、1940年、商工省に招聘されたフランスのデザイナー、シャルトット・ペリアンなどが一例です。
この時期、1926(T15)年に柳宗悦らにより提唱された生活文化にかかわる民藝運動により、素朴なこけしや郷土玩具を収集する動きが広まりました。考現学の祖として知られる今和次郎や弟の純三、東北生活美術研究会を主導した吉井忠ら東北出身者たちも、故郷の人々と暮らしを見つめ直し、戦中期の貴重な記録を残しています。本展は、東北に向けられた複層的な「眼」を通して、当時、庚申的な周縁とみなされてきた東北地方が、実は豊かな文化の揺籃であり、そこに生きる人々のいとなみが、現在と地続きであることを改めて検証するものです。と、あった。

 

 

秋田市は、全体として今なおすぐれた伝統的文化を保持している、秋田の文化は建築と酒と食べ物と版画であると言っている。

展示品の中に、岩手県御明神村(現・雫石町)の農衣があったが、吉川保正(岩手県)が柳、タウトから地域文化の中に美と見出す姿勢を学び民藝運動に傾倒、1938年の民芸品調査の際、御明神村(現・雫石町)で見た若い女性の野良着姿を特に吉川が気にいった。吉川は「郷土の美の発掘者」と言われた。私も、東北地方の野良着は実用性とワンポイント美があり印象に残る、雫石町には年頃の女性を「雫石あねっこ」と呼ぶ、「秋田おばこ」と同じで美人の代名詞となっている。雫石町では8月に「よしゃれ祭」が行われるが当地の独特の野良着が見られる。秋田県羽後町の「西馬音内盆踊り」の編み笠、彦三頭巾、端縫いの衣装は東北独特のものであり美しさを感じさせる。

ブルーノ・タウトは、日光東照宮を案内された時、過剰な装飾を日記に「建築の堕落」とまで書いた。逆に桂離宮・伊勢神宮を皇室芸術と呼び称賛した。タウトのこうした考えが日本に大きな影響をあたえた。

※ブログ内の展示写真については、「東京ステーションギャラリー」のホームページからの転載で、一部、編集してあります。

展示品については、残念ながら写真撮影禁止であるが、3階から2階に移動の際、旧東京駅のレンガ等を写真撮影ができました。

東京ステーションギャラリーの鑑賞を終わり、お参りしたことがないパワースポット「将門塚」へ。途中、妻が数十年前に通勤していた「新大手町ビル」に立ち寄ったが、中に入っていた会社も相当数変わっているようです。丸の内・大手町は都市再開発で面影はありません。
「将門塚」は、日本三大怨霊(菅原道真・崇徳天皇・平将門)の一つ。平将門は、平安時代の関東豪族で恒徳天皇の子孫と言われ、平一族の抗争から朝廷に対抗し「新皇」を名乗ったため朝敵となり討伐された。怨霊と言われる由縁は、都心のオフィス街の一等地で再開発のたびに事故や不審死が起きたためです。いまでは、「勝負運」や「リストラ防止」の御利益が場所がら多いようです。
箱根駅伝のゴール至近にありTVを見ていて場所が気がつかなかった。

 

〇2021.04.17UP「日本奥地紀行」(イザベラ・バード)についても参考に

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ふじみ野市を散策

2022-09-14 18:46:22 | 日記

東武鉄道各駅に置いてある「マンスリーとーぶ」(東武鉄道広報誌)は、沿線を紹介しているが、2022.9月号の「みちくさ写真帖」のコーナーに新河岸川舟運(旧福田屋邸特別公開)について掲載されていたので、興味がわき行くことに。
特別公開の日に、最寄り駅の東上線上福岡駅で下車する。

ふじみ野市は、川越市、富士見市、三芳町と隣接している。埼玉県から東京へ向かう沿線(通勤圏)は、武蔵野台地、関東ローム層上にあり平坦地が多く、高低差が少なく山が見られない。
ふじみ野市は、2005年(平成17)10月1日、所謂、平成の大合併で成立した市である。私が退職する数年前までは、上福岡市、入間郡大井町であった。隣に富士見市があるのに、何故、ふじみ野市になったのか不思議であるが、当初二市二町の合併案であったが、色々、事情があるようだ。ちなみに、ふじみ野駅はふじみ野市ではなく隣の市である富士見市にある。

駅から歩いて20分ぐらいの所に、「ふじみ野市立福岡河岸記念館」があった。そばには、新河岸川と養老橋があったが、舟運の面影はない。
新河岸川は、武蔵野台地北部の雨や伏流水などを集めた川が、川越にて新河岸川と名前を変え東京北区の岩淵水門の隅田川に合流する荒川水系である。

江戸時代の川越藩主が、流路を「九十九曲り」と言われる屈曲持たせ流路を安定化させる河川工事で舟運の流路を完成させた。沿岸には河岸場が設けられた。福岡河岸もその一つである。

福岡河岸には舟問屋などの商家が多くあり賑わったようだが、現在は、記念館として保存している市指定文化財・回漕問屋「福田屋」(星野家)のみである。記念館は福岡河岸が新河岸川の舟運で栄えた明治中頃の様子を再現している。
訪れた日は、月1回の特別公開の日で木造3階建ての建物が公開された。
福田屋は、建物が4つの部分に分かれている、帳場(兼住居)、離れ(客人用)、文庫蔵、土間である。

   

   

                              

〇帳場
回漕問屋にふさわしい帳場・土間となっている。帳場の奥の部屋は田の字型の座敷となっている。(2階部分は非公開)帳場の横には4畳の金庫室があり、いかに栄ていたかがわかる。

〇離れ
明治時代の建築としては珍しい3階建ての木造建築である。接客用として使用され、3階からは新河岸川や筑波山、富士山を眺められたとの事。(2・3階が特別公開)木造の3階建ての建物は数少ないようです。


〇文庫蔵
文庫蔵内部の展示室では、舟運と問屋の暮らし、十代目当主・星野仙蔵氏の功績等を展示しています。

〇土間
台所は、多くの使用人をかかえた福田屋にふさわしい台所で、2階には下男部屋などがある。(非公開)

 

星野仙蔵氏は、経営者として先見性のある方で、川越街道での荷馬車輸送から、新河岸川での舟運、そして鉄道輸送と物流に関しては功績があった。

蛇足であるが、この星野家は、女優・星野真里さんの実家で実業家でもある星野仙蔵氏は曾祖父にあたる。


ふじみ野市には、もう一つ近くに「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」があり、帰りに立ち寄った。ふじみ野市には、その他に大井郷土資料館があり、人口11.3万人の市では恵まれている。

資料館に入ると正面に「陸軍造兵廠川越製造所」と「三福学校」模型展示があった。上福岡駅から約10分の所に、現在のUR都市機構の団地付近一帯が「陸軍造兵廠川越製造所」があったところです。建物の総数は、大小600棟以上、働いていた人は学徒動員・女子挺身隊など勤労動員を含めて数千人にも及んだと言われています。昭和初期には2千人だった福岡村の人口は終戦時には7千人を超えていました。

もう一つ正面に展示されていた模型は、「三福学校」で、120年前の明治15(1882)年、上福岡に初めて開校した小学校が「三福学校」です。三福学校は、福岡村・中福岡村・福田新田の3か村の村民の寄附により設立された学校です。その後、町村合併によって福岡村立福岡尋常小学校となり、現在の小・中学校に変遷してきました。


その他、資料館には上福岡の原始・古代、中世、近世までの歴史の流れと新河岸川舟運、機織り、手づくりほうき、民家、民俗芸能などを展示していた。

※1. 画像については、一部、ふじみ野市役所(記念館・資料館)等の資料を利用しました。
※2. 新河岸川については、2018.06.08にUPした「小江戸川越 新河岸川舟運めぐり」もご覧ください。

【その他のPhoto】

 

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