2月の退職者の会「日帰り散歩」は、銀座の神社巡りと浜離宮の梅の鑑賞となった。幹事のMさんが銀座に行きますが「神社」ですからと念を押されたが、参加者は多かった。
銀座には、「銀座八丁神社めぐり」なるものがあるが。銀座1丁目~8丁目までの11カ所の神社が紹介されていた。私も銀座にはよく行く方だが、いままで興味が無く注意して見なかったが、改めてモダンな銀座の中の歴史を感じた。
東銀座で下車し、最初に行った所が「朝日稲荷神社」。この神社は、よくTVで放映される神社である、H58年、隣地のビルと共に共同ビルを建築する際、ビルの1・2階吹き抜け拝殿とし8階に社務所、屋上を本殿とした。1階の拝殿と屋上の本殿がパイプで繋がっており、賽銭を入れると本殿のスピーカーに「チャリン」と流れる、誰が考えたのかよく考えたものである。次が銀座通り手前にある「あづま稲荷神社」、丁度「銀座コア」の裏手になる。戦後、あづま通り、三原小路で火災が続き、調べると、この一角にお稲荷さん祀られていた事がわかり、再建した所、以後、全く火災にあわなかったとの事である。そのため、ご利益が火災守護、盗難守護が入っている。チョットした銀ブラを楽しみながら「銀座松屋」の屋上へ、高野山龍光院より迎えて「龍光不動明王」を奉っている。「龍光」の呼び名にあやかってファッション関係の祈願に霊験あらたかだと言われている。百貨店には「験を担ぐ」事が多く、「銀座三越」には、「銀座出世地蔵尊」がある。
「銀座松屋」を出て、「銀座発祥の地」碑を見、反対側の「電気灯柱の跡」に、この記念プレートは今まで気がつかなかった。銀座の街灯がガスから明治15年に日本最初の電気街灯が建設された場所である。当時は、アーク式でこの方式は、明治11年に日本で最初に電気灯が灯ったが、電極の距離調整や大量のススが発生するなどがあった、エジソンの白熱電灯は翌年の発明になる。
銀座4丁目には「宝童稲荷神社」がある。その昔、江戸城にあって将軍の子息が次々と早死にすることを防ぐため祀られた神社で、健やかな子どもの成育にご利益があると伝えられる子育て稲荷です。狭いのか。お賽銭は後ろの住宅?の玄関ポストに入れるように表示してあった。
銀座の裏通りをさらに南に向かい、6丁目には「石川啄木の碑」があった。「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」と刻まれていた。3年間、朝日新聞社に勤務した時の歌碑で、銀座で石川啄木の歌碑に出会うとは思わなかった。
左に曲がると「交詢社ビル」がある、明治13年に福沢諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブ。関東大震災で被災し、再建された歴史的建造物であったが、新しい建て替えられたが以前の建築の一部が保存されている。交詢社ビルを背に細い路地を通る、皆、銀座とは思えない路地のため、何処へ行かされるのか不安になる路地であったが、薄暗い壁に「豊岩稲荷神社」が。知る人ぞ知る銀座NO.1のパワースポットとの事、美輪明宏さんの紹介で有名になったようである、由緒は、明智光秀まで遡るようであるが、昭和初期より芸能関係者の崇敬が厚い。縁結びの神社として多くの女性が立ち寄ることでも知られている。
「金春通り」を歩き、昼食を予定している汐留へ、この「金春通り」付近は、世界でも珍しい煉瓦街があった、明治5年から10年にかけて国家予算の4%掛けたという壮大なもので、遺構の一部が通りに祈念碑として保存されている。
午前中は、銀座の神社巡りで終わったが、とても11の神社は回れない。残りは、いつの日か回れたら。
昼食は、汐留の汐留シティーセンター42Fの「The Oregon Bar & Grill」バイキングであった。42階ともなると見晴らしがいい、このパノラマは夜もきっと宝石を散りばめたような美しさなのだろう。
午後は、浜離宮の梅の観賞である、汐留は大きいビルと道路工事でなかなか浜離宮にたどり着けない、やっとの事で大手門に到着、シニア割引の150円で入園(初めてのシニア割引、複雑である)。ガイドは「ユビキタス」と言う、コミュニケーターで見どころを音や映像で自動的に説明。この庭園は、徳川将軍家の庭園で、海水を引き入れた潮入の池と、鴨場のある江戸城の「出城」の機能を果たした。「潮入の池」は、海水を引き入れ潮の干満によって池の趣を変える様式で、江戸の庭園では唯一現存する海水の池との事です。「三百年の松」「内堀」「中島の御茶屋」「富士見山」「庚申堂鴨場」などを散策、梅もじっくり観賞する事ができた。帰りは、浜離宮から水上バスで浅草経由で帰路に。
歩き出はあったが(2万歩超える)、日本の近代化、戦後復興など、最先端を進んできた「銀座」、片隅ではあるが、その時代時代の庶民の心のより所が残されて、現存する事に嬉しくなった。
銀座には、「銀座八丁神社めぐり」なるものがあるが。銀座1丁目~8丁目までの11カ所の神社が紹介されていた。私も銀座にはよく行く方だが、いままで興味が無く注意して見なかったが、改めてモダンな銀座の中の歴史を感じた。
東銀座で下車し、最初に行った所が「朝日稲荷神社」。この神社は、よくTVで放映される神社である、H58年、隣地のビルと共に共同ビルを建築する際、ビルの1・2階吹き抜け拝殿とし8階に社務所、屋上を本殿とした。1階の拝殿と屋上の本殿がパイプで繋がっており、賽銭を入れると本殿のスピーカーに「チャリン」と流れる、誰が考えたのかよく考えたものである。次が銀座通り手前にある「あづま稲荷神社」、丁度「銀座コア」の裏手になる。戦後、あづま通り、三原小路で火災が続き、調べると、この一角にお稲荷さん祀られていた事がわかり、再建した所、以後、全く火災にあわなかったとの事である。そのため、ご利益が火災守護、盗難守護が入っている。チョットした銀ブラを楽しみながら「銀座松屋」の屋上へ、高野山龍光院より迎えて「龍光不動明王」を奉っている。「龍光」の呼び名にあやかってファッション関係の祈願に霊験あらたかだと言われている。百貨店には「験を担ぐ」事が多く、「銀座三越」には、「銀座出世地蔵尊」がある。
「銀座松屋」を出て、「銀座発祥の地」碑を見、反対側の「電気灯柱の跡」に、この記念プレートは今まで気がつかなかった。銀座の街灯がガスから明治15年に日本最初の電気街灯が建設された場所である。当時は、アーク式でこの方式は、明治11年に日本で最初に電気灯が灯ったが、電極の距離調整や大量のススが発生するなどがあった、エジソンの白熱電灯は翌年の発明になる。
銀座4丁目には「宝童稲荷神社」がある。その昔、江戸城にあって将軍の子息が次々と早死にすることを防ぐため祀られた神社で、健やかな子どもの成育にご利益があると伝えられる子育て稲荷です。狭いのか。お賽銭は後ろの住宅?の玄関ポストに入れるように表示してあった。
銀座の裏通りをさらに南に向かい、6丁目には「石川啄木の碑」があった。「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」と刻まれていた。3年間、朝日新聞社に勤務した時の歌碑で、銀座で石川啄木の歌碑に出会うとは思わなかった。
左に曲がると「交詢社ビル」がある、明治13年に福沢諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブ。関東大震災で被災し、再建された歴史的建造物であったが、新しい建て替えられたが以前の建築の一部が保存されている。交詢社ビルを背に細い路地を通る、皆、銀座とは思えない路地のため、何処へ行かされるのか不安になる路地であったが、薄暗い壁に「豊岩稲荷神社」が。知る人ぞ知る銀座NO.1のパワースポットとの事、美輪明宏さんの紹介で有名になったようである、由緒は、明智光秀まで遡るようであるが、昭和初期より芸能関係者の崇敬が厚い。縁結びの神社として多くの女性が立ち寄ることでも知られている。
「金春通り」を歩き、昼食を予定している汐留へ、この「金春通り」付近は、世界でも珍しい煉瓦街があった、明治5年から10年にかけて国家予算の4%掛けたという壮大なもので、遺構の一部が通りに祈念碑として保存されている。
午前中は、銀座の神社巡りで終わったが、とても11の神社は回れない。残りは、いつの日か回れたら。
昼食は、汐留の汐留シティーセンター42Fの「The Oregon Bar & Grill」バイキングであった。42階ともなると見晴らしがいい、このパノラマは夜もきっと宝石を散りばめたような美しさなのだろう。
午後は、浜離宮の梅の観賞である、汐留は大きいビルと道路工事でなかなか浜離宮にたどり着けない、やっとの事で大手門に到着、シニア割引の150円で入園(初めてのシニア割引、複雑である)。ガイドは「ユビキタス」と言う、コミュニケーターで見どころを音や映像で自動的に説明。この庭園は、徳川将軍家の庭園で、海水を引き入れた潮入の池と、鴨場のある江戸城の「出城」の機能を果たした。「潮入の池」は、海水を引き入れ潮の干満によって池の趣を変える様式で、江戸の庭園では唯一現存する海水の池との事です。「三百年の松」「内堀」「中島の御茶屋」「富士見山」「庚申堂鴨場」などを散策、梅もじっくり観賞する事ができた。帰りは、浜離宮から水上バスで浅草経由で帰路に。
歩き出はあったが(2万歩超える)、日本の近代化、戦後復興など、最先端を進んできた「銀座」、片隅ではあるが、その時代時代の庶民の心のより所が残されて、現存する事に嬉しくなった。