爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

銀座の神社巡りと浜離宮

2014-02-28 17:34:27 | 日記
2月の退職者の会「日帰り散歩」は、銀座の神社巡りと浜離宮の梅の鑑賞となった。幹事のMさんが銀座に行きますが「神社」ですからと念を押されたが、参加者は多かった。
銀座には、「銀座八丁神社めぐり」なるものがあるが。銀座1丁目~8丁目までの11カ所の神社が紹介されていた。私も銀座にはよく行く方だが、いままで興味が無く注意して見なかったが、改めてモダンな銀座の中の歴史を感じた。
東銀座で下車し、最初に行った所が「朝日稲荷神社」。この神社は、よくTVで放映される神社である、H58年、隣地のビルと共に共同ビルを建築する際、ビルの1・2階吹き抜け拝殿とし8階に社務所、屋上を本殿とした。1階の拝殿と屋上の本殿がパイプで繋がっており、賽銭を入れると本殿のスピーカーに「チャリン」と流れる、誰が考えたのかよく考えたものである。次が銀座通り手前にある「あづま稲荷神社」、丁度「銀座コア」の裏手になる。戦後、あづま通り、三原小路で火災が続き、調べると、この一角にお稲荷さん祀られていた事がわかり、再建した所、以後、全く火災にあわなかったとの事である。そのため、ご利益が火災守護、盗難守護が入っている。チョットした銀ブラを楽しみながら「銀座松屋」の屋上へ、高野山龍光院より迎えて「龍光不動明王」を奉っている。「龍光」の呼び名にあやかってファッション関係の祈願に霊験あらたかだと言われている。百貨店には「験を担ぐ」事が多く、「銀座三越」には、「銀座出世地蔵尊」がある。

「銀座松屋」を出て、「銀座発祥の地」碑を見、反対側の「電気灯柱の跡」に、この記念プレートは今まで気がつかなかった。銀座の街灯がガスから明治15年に日本最初の電気街灯が建設された場所である。当時は、アーク式でこの方式は、明治11年に日本で最初に電気灯が灯ったが、電極の距離調整や大量のススが発生するなどがあった、エジソンの白熱電灯は翌年の発明になる。
銀座4丁目には「宝童稲荷神社」がある。その昔、江戸城にあって将軍の子息が次々と早死にすることを防ぐため祀られた神社で、健やかな子どもの成育にご利益があると伝えられる子育て稲荷です。狭いのか。お賽銭は後ろの住宅?の玄関ポストに入れるように表示してあった。
銀座の裏通りをさらに南に向かい、6丁目には「石川啄木の碑」があった。「京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」と刻まれていた。3年間、朝日新聞社に勤務した時の歌碑で、銀座で石川啄木の歌碑に出会うとは思わなかった。
左に曲がると「交詢社ビル」がある、明治13年に福沢諭吉が提唱し、結成された日本最初の実業家社交クラブ。関東大震災で被災し、再建された歴史的建造物であったが、新しい建て替えられたが以前の建築の一部が保存されている。交詢社ビルを背に細い路地を通る、皆、銀座とは思えない路地のため、何処へ行かされるのか不安になる路地であったが、薄暗い壁に「豊岩稲荷神社」が。知る人ぞ知る銀座NO.1のパワースポットとの事、美輪明宏さんの紹介で有名になったようである、由緒は、明智光秀まで遡るようであるが、昭和初期より芸能関係者の崇敬が厚い。縁結びの神社として多くの女性が立ち寄ることでも知られている。

「金春通り」を歩き、昼食を予定している汐留へ、この「金春通り」付近は、世界でも珍しい煉瓦街があった、明治5年から10年にかけて国家予算の4%掛けたという壮大なもので、遺構の一部が通りに祈念碑として保存されている。
 午前中は、銀座の神社巡りで終わったが、とても11の神社は回れない。残りは、いつの日か回れたら。
昼食は、汐留の汐留シティーセンター42Fの「The Oregon Bar & Grill」バイキングであった。42階ともなると見晴らしがいい、このパノラマは夜もきっと宝石を散りばめたような美しさなのだろう。

 午後は、浜離宮の梅の観賞である、汐留は大きいビルと道路工事でなかなか浜離宮にたどり着けない、やっとの事で大手門に到着、シニア割引の150円で入園(初めてのシニア割引、複雑である)。ガイドは「ユビキタス」と言う、コミュニケーターで見どころを音や映像で自動的に説明。この庭園は、徳川将軍家の庭園で、海水を引き入れた潮入の池と、鴨場のある江戸城の「出城」の機能を果たした。「潮入の池」は、海水を引き入れ潮の干満によって池の趣を変える様式で、江戸の庭園では唯一現存する海水の池との事です。「三百年の松」「内堀」「中島の御茶屋」「富士見山」「庚申堂鴨場」などを散策、梅もじっくり観賞する事ができた。帰りは、浜離宮から水上バスで浅草経由で帰路に。

歩き出はあったが(2万歩超える)、日本の近代化、戦後復興など、最先端を進んできた「銀座」、片隅ではあるが、その時代時代の庶民の心のより所が残されて、現存する事に嬉しくなった。
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今、「東京市品川区大井鈴ヶ森町1961と日本橋区呉服橋3丁目1番地4」は

2014-02-23 17:29:24 | 日記
「大井鈴ヶ森」が姉の生まれた地で、「呉服橋3丁目」は母の実家の地である。以前に母の実家についてはブログに掲載したが、古い地番と現在の地番の正確な位置の確認できなかったが、地図センター(埼玉県立文書館)で古地図を調べ、ある程度まで分かってきた。
母が、「大井鈴ヶ森」に住んでいた時期の事については、「立会川」「鈴ヶ森刑場」「大森貝塚」の事をよく話していた。古い住所地を現在の地図に合わせてみると「鈴ヶ森刑場」に至近距離であった。現在の最寄り駅は「立会川駅」である、1942年まで「鈴ヶ森駅」が存在していたため、父が「鈴ヶ森駅」「立会川駅」のどちらか利用していたは不明である。
「立会川駅」で下車した、駅の階段を下りるといきなり小さい商店街がクロスしている、こんな狭い商店街で搬入の車が入れるのだろうか?不思議である。

第一京浜道路で目的の「鈴ヶ森刑場」へ、江戸時代の三大刑場(鈴ヶ森・小塚原・大和田)の一つで1651年に開設され1871年(明治4年)閉鎖されるまでの220年の間10万~20万人が処刑されたと言われている。当時は、江戸に入る人への見せしめのため主要道路に処刑場を設置したようである。最初の処刑者は江戸時代の反乱事件の丸橋忠弥、平井権八、天一坊、八百屋お七、白木屋お駒、といった人が処刑された。刑場は記念碑、供養塔などがコンパクトに配置されており、当時はもっと広かったであろう。

 姉の生まれた所は、刑場にある大経寺より駅寄りに浜川神社があり、その西側がその地域である。第一京浜と京浜急行がクロスする付近はだいぶ変遷しているのか「この辺かな」ぐらいしかわからない。

東京湾に近く海抜2~3mで鈴ヶ森中学校で2.1mとなっていた震災規模の津波があると大きい被害が想定される地域である。帰りは第一京浜を避け駅に向かった、駅に近づくとレトロな橋があった「浜川橋」と表示があった。別名、涙橋と言うそうで、処刑される罪人が裸馬に乗せられ江戸府内から処刑場に護送されましたが、この時、親族らが密かに見送りに来て涙を流しながら別れたことから涙橋と呼ばれたとの事である。

それにしても立会川は7km程の2級河川で、昔はザリガニ取りで遊べたそうであるが今では暗渠で塞がりあまり綺麗とは言えないが、遊歩道を造るなど整備されているようである。行けなかったが,立会川沿いに歩くと浜川砲台跡がある。、この辺一帯が土佐藩の敷地との事で、駅の近くに坂本龍馬像があり、ペリー来航の際に屋敷に待機して警備に当たったそうである。

 東京駅からの帰り際に母の実家と思われる所に寄ってみた。日本橋区呉服橋3丁目1番地は、さくら通りの南側で外堀通りに近い所で、番地も外堀側から1,2,3・・・となっていたようである、今は小さい店舗が並んでおりこの一角なのだろう。この地にくると母と伯父伯母の幼少の頃の事を知りたくなり、聞いておけば良かったと思う。

2つの住所を調べると住所表記はもう無く、名が残っているのは交差点や高速ランプ、学校名、町会名のみである。昭和も遠くになりにけりの感が強くなった。
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埼玉県立文書館の「地図センター」

2014-02-05 20:09:00 | 日記
 文書館に行ったのは2度目である、前は、会議室に出向いただけで、文書館は、行政文書の整理ぐらいにしか考えがなかった。
 「地図アラカルト」展を見たあと、「地図センター」の表示があったので母と姉が住んでいた東京市の地図があるかと4Fに。東京の「地図センター」(国土地理院)の分室かと思っていたが、係の方の話では、まったく関係なく埼玉県の運営であり、自治体としては全国的にも珍しいのではとの話。埼玉県の地図が中心であろうが、埼玉県以外でも私の求める地図もあり、まあまあ充実している。係の方が親切で天眼鏡を貸してくれたり、検索して取り出してくれたり、ありがたい行政サービスである。
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埼玉県立文書館の「地図アラカルト 世界と地域」展

2014-02-05 20:05:38 | 日記
 新聞の紹介欄に埼玉県文書館での「地図アラカルト 世界と地域」展の開催が紹介されていたので、早速、行ってみた。この展示会は、埼玉県文書館と外務省外交史料館の共催による展示である。古地図と言われる物は絵地図に始まって見る機会多く、芸術的と思える物が多いが、行政目的に沿った「地図」を見る機会はない。この展示会は、幕末以降の日本の外交に関わる地図がされていた。特に、ペリーによる開国に始まって、日米修好通商条約の調印から、日本人との摩擦を防ぐため「江戸在留外国人遊歩規定下調図」を作図、外国人は築地に居留し、地図上の朱線の範囲内の行動できるとした地図(埼玉県は川越・所沢市等が範囲に含まれる)は目にする事はない。その他「日清講和条約」に関わる資料や「旅と地図」「戦争と地図」「復興と地図」が展示されていた。「地図」だけでなく付随した資料がその時代における「地図」の役割の大きさが分かってよかった。
 残念なのは、展示室の照明が少し暗かった。重要な資料のため照明を暗くしているとの事でした。
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