爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

巴波川とともに歩む、蔵の街「栃木市」散策・・・②

2014-12-28 08:21:34 | 日記

巴波川沿いの散策から蔵の街大通りに移動する。道路が整備されていて電柱が地中化している。なぜ歴史の町で県庁所在地でないのか不思議である。宇都宮になったのは、栃木が名を、宇都宮が実を取る形で県名だけが栃木と残ったと言われている。
栃木市の蔵は、「見世蔵」が多いが「見世蔵」は江戸時代以降の商業建築様式の一つであり、江戸時代の防火から建築の土蔵の発展したもので、間口を広くし窓を取り入れ店と住居を一緒にしたものである。そのため防火については多少犠牲にした建築で、市内の通りには多く見られる。

 まずは山車会館へ、お祭りは隔年で行われる、歴史は明治時代から行われているようなのでそんなに古くはない。しかし、山車が町内ごとで、蔵の街を華やかに巡行する姿を想像すると、きっと京都のお祭りのようであろう。館内には、山車が3台展示されハイテクに「とちぎ秋まつり」を再現、紹介している。

 50m程先には栃木市生まれの山本有三の「山本有三ふるさと記念館」がある。生家は記念館の隣の理髪店であるが、誕生後は路地裏に転居した。記念館には、山本有三が愛用した椅子や回転書架、帽子、衣装、自筆稿、作品が映画化された時のポスターなどが展示されています。「路傍の石」「真実一路」の小説家の一面の他に、文化人、政治家として社会に寄与した事がわかります。

裏手の近龍寺には、山本有三のお墓がある。幼少・青年期は、栃木には良い事は無かったように本人は思っていたようであるが、晩年、文学碑の除幕式に訪れた有三は「ふるさとは、なんと温かく自分を迎えてくれるだろう」と挨拶し、昭和49年に亡くなるまで、こよなく栃木を愛し大切にした。


水運で栄えた栃木、それが蔵街を形成してきた。今も、水を大切にするする姿が市民の中に脈々と生きている。

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巴波川とともに歩む、蔵の街「栃木市」散策・・・①

2014-12-27 10:17:56 | 日記
昔の面影を残す街並みも少なくなったが、栃木市には残っていた。東武日光線栃木駅を下車し駅前に出ると意外に広々しており、駅前から「蔵の街大通り」が延びる、

大通りの左側の通りを進み川沿いに歩くと巴波川をまたぐように「瀬戸河原公園」と「うずま公園」がある、支流に分岐する所に公園を造ったようだ。水が澄んで綺麗だ魚やカルガモがいる。昭和38年に3万匹の鯉を巴波川に放流しているが、こうした取り組みが今につながっているかと思われる。川沿いに遊覧船の発着所があった、川幅、水深を見ると遊覧できるのかと思うが、営業しているから出来るのだろう。

発着所から川沿いに黒塀が長く続く、ここが塚田歴史伝説館である。江戸時代に木材回漕問屋を営んでいた塚田家跡である。塚田家は、木材を筏に組、巴波川から利根川を経由し深川の木場まで運んでいた豪商である。館内には歴代の当主が集めた家宝の展示物、からくり人形山車、全国の銘木が展示され、奥には数寄屋造りの離れ庭園が豪商の勢をつくした雰囲気が伝わってくる。



※中に入ると、おばあちゃんのロボットが説明してくれるが、精巧にできている、側で座って聞いている人もロボットで先客の人かと見間違うほどだった。

さらに川沿いに歩くと大きい建物が、入り口に「TOBU」の表示があり、並んで「栃木市役所」の表示も、再開発の建物であった。栃木県内に店舗展開していた百貨店である「福田屋」の撤退跡に、1階が「TOBU」2階以上を市役所が入っている、メイーンストリートに双方のメリットが合致し再生した珍し例である。

市役所の先に「例幣使街道」の表示が、この街道は、徳川家康の霊柩が日光山に改葬され、毎年、朝廷から日光東照宮へ捧げ物を奉納する勅使(例幣使と言われた)が使わされ、勅使が通る道を例幣使街道と呼んだ。まさに当時の主要道であったと言える。街道の一部が現在の栃木市の蔵の街大通りや嘉右衛門通りである。

例幣使街道に「岡田記念館」がある。現在まで続く旧家で、古くは武士であったが、帰農し栃木に移住し、荒地を開墾し、その功績により徳川家より「嘉右衛門新田村」の名称を賜り、代々の子孫は「嘉右衛門」を襲名(現在は26代)例幣使街道開設にともない名主役、13カ所の陣屋、代官職の代行など地域に大きな貢献をし、屋敷跡には親交のあった著名人などの作品や事業でのかつて使用していた用品を展示しています。


道を隔てた川沿いには22代当主が別邸があります、用材はすべて銘木を使用し、木曽産の桧、廊下は欅の一枚板を使うなど大正期を代表する別荘が現存する。


※浴場は、松竹映画「定」(大林宣彦監督作品)の黒木瞳さんの入浴シーンに使われた。天井は、今では珍しいから傘天井造りになっている。

嘉右衛門の名は地区名として残り、一帯が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。


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美味しい「いわて純情りんご”冬恋”」

2014-12-17 20:54:11 | 日記
姉より「りんご」が送られてきた、黄色い「りんご」だった。小さい頃に食べた黄色い「りんご」のイメージはボサボサした食感しかなく決してイメージが良くなかったが、これは美味しい。(りんご名は「はるか」)岩手大学圃場で開発され、岩手県内のりんご栽培の方が研究会を立ち上げ、栽培技術、糖度・ミツ入りを測定して出荷しているようである。岩手県は、りんごの出荷ランキングで全国3位である、今はブランド時代であり、開発競争が激し、消費者もその苦労の分も味わって食べないと・・・。
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美味しい花善の「鶏めし弁当」

2014-12-11 15:06:52 | 日記
義母の葬儀準備で買い物で行った、スーパー「いとく」で「鶏めし弁当」が陳列してあり、思わず懐かしさのあまり2度も買い求めた。埼玉のスーパーでも時折、駅弁大会なるものをやるが、この「鶏めし弁当」は置いてない。私は、好き嫌いが多く、駅弁や幕の内弁当を買っても全てが美味しいと思う弁当には当たらないが、崎陽軒の「シュウマイ弁当」と花善の「鳥めし弁当」は全てが美味しいのでお得感がある。「鶏めし弁当」なのに鶏以外のご飯、おかずの味付けが絶妙である。近頃、電車でご当地の駅弁を食べる機会が少ないが、味わって旅行したい・・・

奥羽本線 大館駅 花善「鶏めし弁当」880円
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「東京駅~日本橋百年散策」・買い物・甘味処「立田野」

2014-12-09 20:59:20 | 日記
香典返しの買い物のついでに(義母に申し訳ないが)東京駅開業100周年記念事業でマップと硬券を配布している東京駅の「みどりの窓口」へ立ち寄った。マップには、昔と現在が簡単に比較でき、いい地理資料となった。硬券については「懐かしい」の一言である。いろいろな企画をしたようだが、後日、じっくり個人的に散策をと自分に言い聞かせ、今日の目的である買い物のため京橋から銀座方面へ。

京橋から銀座に入る所に「碑」が建っている、いままでは歩いていても気にもとめないが、月1回の「日帰り散歩」のおかげで立ち止まるようになった。この碑には、「江戸歌舞伎発祥の地」とあった、歌舞伎は「出雲阿国」が京都で「歌舞伎踊り」をしたのが始まりとされ、20年後に猿若勘三郎が江戸の京橋に猿若座(のちの中村座)を開設した記念碑であった。その後、移転を繰り返し台東区にて廃座となった。当時の歌舞伎は女性も演じていたが風俗を乱すと言う理由で、現在の歌舞伎である男だけの歌舞伎になった。同じ敷地にもう一つ「京橋大根川岸青物市場跡」の碑があった。京橋川河岸は大根を中心とした野菜の荷揚げで昭和10年に築地の中央卸売市場ができ統合されるまで続いた。

 銀座に入り「松屋銀座」で買い物、この時期になるとお歳暮シーズンも終わりなのか混んではいなかった。妻に言われた買い物も終わり、何か旨い物をと「立田野」へ、母から銀座の甘い物は、「銀座若松」か「立田野」と言われており、十数年ぶりに行く事に。このお店、明治28年創業でお相撲さんの四股名を付けたとの事。店名も変わっているが、「立田野」の看板の文字が昔の書体で古さがわかる。甘味処に男一人入るのは恥ずかしい、中の客はシニア夫婦2組、シニア女性1組、30代?の女性と、私にとっては「早く食べて帰ろう」的な雰囲気である。あん・寒天にこだわりを持ち、手作り感を大事にしているお店です。「田舎しるこ」を食べましたが、しつこく無い上品な味でした。私だけいい思いをしては悪いので「おみやげ」のあんみつを買い求め家路に。

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