爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座2 「大航海時代と政宗の智略」について

2021-02-06 19:08:11 | 日記

オンライン講座も2回目である。苦手な歴史・・・年号に対するアレルギーがあるが、大航海時代の文字に引かれて受講することに。
講演は、東北大学名誉教授 平川 新氏である。

大航海時代といえば、学校で習ったコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランを思い浮かぶが、平川氏の講演は副題として「慶長遣欧使節と鎖国をめぐる秘話」とし3つのパートで講演。

1,ヨーロッパ列強と日本の国力
大航海時代は、15~17世紀を指すが、主にヨーロッパ、中国の航路開発であるが、日本が接触するのは、1543年種子島への鉄砲伝来、1549年イエズス会のザビエルの鹿児島上陸である。その前に日本が紹介されたのはマルコ・ポーロの「東方見聞録」であり、日本は金の国と紹介、黄金のくにとして認識されていた。また、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」は、明国の加勢により撤退に終わったが、2回の出兵で15・14万人を派遣したことは世界をビックリさせた。
大航海時代における海外貿易は巨額の利益を伴うが、貿易には布教活動が伴った。布教はキリスト教国家になることで、日本征服であり海外ではそうであった。このことがこの後の禁教そして鎖国政策を進めさせた。

江戸時代初期(1600年代初期)の貿易は、西日本の海運の寄り付きがよく長崎や堺が南蛮貿易の中心であり。江戸は小さく、仙台はもっと小さくリスクをおかしてまで行くことはなかった、江戸・仙台にとって出遅れた感があった。
伊達政宗が目を付けたのが太平洋貿易であった、当時、フィリッピンとアカプルコ航路がが開発され、寄港地として仙台をとの思惑があった。スペインにとって布教可能、伊達政宗にとっては貿易が可能、ここでいう布教は仙台藩領内との条件で、家康の禁教と貿易の両立があった。
支倉常長の「慶長遣欧使節」は、1613年10月28日にサン・ファン・バウティスタ号が交渉に出帆した。スペイン国王の判断は、貿易がしたいなら日本の皇帝(将軍)は布教を許可すべきであると判断したが、在日宣教師からの布教に対する弾圧の報告も影響、また戦国時代の軍拡競争、朝鮮出兵による軍事国家であるイメージがあり交渉の成果はなかった。
支倉の帰国後、鎖国政策に入った。鎖国を実現できたのは、日本が小さくて、臆病な弱い国だからではなく、植民地国家のスペインとポルトガルを日本から追放し、ヨーロッパ勢力をコントロールできる軍事大国だったからであろう。

2,ソテロの不可解な日本報告の真相
 ソテロは、イエズス会に対立するフランシスコ会の宣教師として来日。
漂着した臨時総督ロドリーゴと徳川家康の外交交渉の通訳をつとめ、これを契機にスペイン領メキシコの交渉や慶長遣欧使節の派遣に繋がる役割を担いました。スペイン国王は、ビスカイノを大使として交渉に当たらせました。ビスカイノの狙いは、メキシコ貿易を足がかりにキリスト教布教、キリスト教国家に改造しスペイン国王の支配下に、オランダとの断行を条件にしたメキシコ貿易、日本沿岸の測量許可を求めるなどであった。家康は、沿岸測量を許可した。良港を探す一方、日本の地名にスペイン語の地名をつけた。属国あつかいである。
遣欧使節の通訳アマーティは、宣教師ソテロの話として、国王(政宗)は、礼拝所を荒らし祭壇を引き倒し、石像の首を打ち落とした。800体あった石の偶像と数体の巨象は一部は海に、一部は川に、一部は地面に投げ捨てられた。同時に、「キリスト教の神、万歳」という大きな歓声があがったと伝えた。 これは、ビスカイノの妄想記事みなされていたが、一部は事実であった。
それは松島の海中から板碑が見つかり、瑞巌寺の地中からも建て替えの際の礎石として板碑が見つかった。このような事は旧二条城・熊本城石垣、姫路城、福知山城でも使われており、転用石と言われていた。信長や正宗が不信心ではなく鎌倉から室町時代にかけて五輪塔・宝塔・板碑の供養から中国から禅宗の到来とともに位牌・戒名が伝わり、戦国時代には庶民が墓石を建てる習慣が始まった。このことから宗教感の変化、石材の不足のためお城の石垣などに転用された。
ソテロの話は、交渉が進展するように誇張したようである。

                                                                    資料;サン・ファン館

3,若林城の築城と廃城の謎
 江戸幕府は、一国一城令を制定し、諸大名に居城以外のすべての城の破棄を命じた、廃城にしたがった大名もあったが、例外もあった。伊達政宗の仙台藩には仙台城と例外として白石城があった。
さらに若林城の築城については屋敷としたが、堀と土塁を要する城である。若林城、白石城とも出城で若林城は東に回る敵を向かい打つ城の役割をもっていた。それは取りも直さず徳川軍への備えでもある。家康と政宗は、お互いに主従関係ではあるがお互いに油断のならない相手であると思っており、智略に長けた正宗には謀反の噂が絶えず疑心暗鬼が渦巻いたのだろう。正宗死後は、若林城は取り壊されたが堀と土塁だけは残した。

学校では深く掘り下げた勉強をしなかったが、時代背景が分かり面白いが新たな疑問も出てくるものである。 

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