爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

1年ぶりの再会でお花見と会食

2019-03-31 08:19:26 | 日記

40数年来の友人に会う。前回、会ったときはご馳走になったため、今回は、お花見を兼ねて会食することにした。 突然、妻が入院し延期かなと思ったが、月末までには退院し自宅療養となったので予定どおり会うことに。 東洋文庫と六義園のコースを考え、駒込駅で待ち合わせをした。 駒込駅は、お花見見物で混雑しているが、再会し、東洋文庫に向かう。

東洋文庫は、日本最大のアジア研究図書館であり、古く格調の高い蔵書を天井まで一望できる重厚な本棚は圧巻である。友人のS君も日本にはない雰囲気に気に入ったようである。

 現在、マハトマ・ガンディー生誕150周年記念の「インドの叡智展」を開催していた。多種多様な文化・歴史があるインドであるが、インドに関わる基礎知識が小生には乏しいため早々に併設しているカフェ「オリエント・カフェ」に。

前にも一度入り、気に入ったカフェで何と言っても「小岩井農場」という「ブランド力」からくる落ち着いたお店である。

東洋文庫から「六義園」に。

東洋文庫、オリエント・カフェ、六義園は、三菱財閥に関連する施設で、六義園は三菱より寄贈された庭園である。平日にもかかわらず混み合っている。六義園は、桜より紅葉の方が見事かと思うが、それでもメーイン?のしだれ桜はお花見客のPhotoスポットである。人が入らないようにS君は写真を撮るのに苦労していた。 整備された池や植栽を観賞しながら回遊庭園を回るのは日本ならではの楽しみの一つでもある。外国人も多く日本的な美を感じるのだろう。

S君は、年一回の海外旅行の他は、愛車のポルシェで国内旅行をすることが多いそうであるが、私のような近場の日帰り旅行中心とは違ってました・・・うらやましい!

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散歩コースの桜は8分咲きか?

2019-03-30 13:55:11 | 日記

が散歩する中川の土手の桜も見事に咲きました。東京は、満開とのニュースがありましたが、埼玉は少し遅れるのか。 曇り空の中、写真を撮りましたが、桜の薄桃色は曇り空では映えませんでした。難しいですね・・・

 

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獨協大学オープンカレッジ特別講座 「少数民族の世界」

2019-03-11 10:43:00 | 日記

獨協大学でオープンカレッジ特別講座「少数民族の世界 ー文化について知る、考えるー」のテーマで獨協大学国際教養学部准教授の松岡格氏の講演があった。松岡氏は、文化人類学の研究者で中国各地へ数多く訪問し、中国の少数民族の状況や文化についても熟知し、今回の講座を少数民族文化の意味や、併せて我々の文化を見つめ直す機会としている。

国の人口  2017年
中国    13億人           ポルトガル       1030万人
インド       13億人           スウェーデン    1012万人
アメリカ       3億人           ハンガリー          980万人
インドネシア   2億人           スイス                842万人
                                        ツバル         1万人(最小人口国)

中国の民族(講師数値)
漢民族   12億人
チワン族            1692万人
回族                  1058万人
満州族               1038万人
ウイグル族          1006万人
苗(ミャオ)族       942万人
イ族                      871万人

中国には56の民族があるそうだ。上記の統計でもわかるとおりチワン・回・満州族などは、ポルトガルよりも人口が多いのである。松岡氏は、少数民族の中でもイ族に焦点を当て文化人類学の視点で研究されている。
イ族
人口ー871万人(2010年)
語派ーチベット・ビルマ語派
主な居住地ー四川、雲南、貴州
文化
・多様、多彩な民族衣装 ※少数民族の中では民族衣装の種類が多い
・六大方言区を持つ言語(一定程度の)標準化
・独自の文字、イ文字(と儀礼の司祭であるビモの存在)
・たいまつ祭り、挿花祭
・食文化etc
自分達の文字を持つのは珍しいそうである。
このように少数民族は、文化面等で大きい違いがあり。中国では、省クラスと県クラスの行政レベルの中間である自治州を設けてあり、その州が30程度存在する。

◆私たちは、文化を共有していない◆
<日本の文化>
  ○温泉 ○桜 ○紅葉
中国ではお風呂の習慣がない。
日本人のような風景鑑賞が薄い。
「紅葉」は、他の国にはない。 →  これらは背後に文化がある。
<食生活の違い>
食べる・食べない
ウサギ・カエル・コウモリ・ワニ・ハト・カモ・鯉・クマ・イヌetec  ジビエ料理
日本人が食べる「生の魚」など食文化が多様
広東料理ー猿肉・ヘビ・ねこ 広東は何でも食べる!
イ族地域のフィールドワークでは肉が山盛りに出る、なぜ、ワンパターンの料理が多いのか?  (豚・羊・鳥・ジャガイモetc)
これは食べてはいけないのが多い、馬・猿・ヘビ・タカ・カエル・熊・虫は、食べない。イ族では、馬を食べたら「魂が堕落、人格が低下」する。食べたら儀礼をおこなう、儀礼はビモ(司祭)の呪い返しである。
食べる食べないは、人間の手・脚に似ていることのようで、人類と同族(同起源)であるからか。
「虹」「太陽」などもどう見るかによって違ってくる、太陽の色、虹の数は文化によって違ってくる。これは個人差の問題ではない。

文化とは人間が社会の成員として個々に身についたもので、社会組織ごとに固有の文化が存在する。
この世界に共存するためには、お互いの文化を知ることが大切であることを、あらためて講座で感じた。

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公民館でスポーツ吹矢

2019-03-03 09:52:26 | 日記

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「生き活き倶楽部」の”築地/佃島界隈の狛犬と豊洲市場を訪ねる”に参加

2019-03-02 18:53:30 | 日記

集合場所は、八丁堀の「桜川公園」である。八丁堀駅に至近のこの公園は、名前の通り桜のシーズンにはお花見の場所として賑わうようである、もう一つこの場所が八丁堀の地名の堀があった所でもある。江戸初期に掘削され長さが八丁(873m)あったことから呼称された。江戸湊に入った回船は、鉄炮洲沖に停泊し荷を瀬取舟という小舟に積み替え市中に運んだ。桜川公園前の新大橋通(関東大震災の復興事業で開通)の反対側には「八丁堀の旦那」と呼ばれた与力、同心の組屋敷があった。この堀も明治時代に桜川改称され現在では埋め立てられた。

桜川公園を抜けて「鉄炮洲稲荷神社」に入る。もともと鉄炮洲稲荷は、湊稲荷と称し京橋にあったが江戸市中が整備されるにしたがって移転して鉄炮洲に。この鉄炮洲の地名は、鉄炮の形をした州で後に鉄炮の試射をしたことから呼ばれた。神社の前が、千石船行き来し湊の入口に鎮座する神社として船問屋、船乗りの信仰をあつめた。神社の鳥居の下に対の中国獅子がありました中国獅子は珍しいそうで、これは皇紀2600年記念として奉納されたもの、彫りは浅く股間にはオスの印があり、尾の下の窪みは肛門と思われるそうです、獅子は気を体中に吸い込み、吸い込みすぎの気は肛門から出すそうです。境内の狛犬は、鎌倉時代に造られた大宝神社の狛犬をモデルにし、彫刻家「三木宗策」の原型から名工 木村旭晨が刻んだもので当時の流行とのこと。また、境内の奥には安政2年築造の富士塚がありました。お洞や富士講の銘板もあり古さがわかります。

鉄砲洲稲荷神社を出て、佃島に向かう途中「南高橋」を渡り「亀島川水門」を通る、この場所は江戸時代の八丁堀の入り口にあたる所で、南高橋は昭和7年に架けられ都内最古の鋼鉄橋である。関東大震災の復興事業が計画される中、この場所にも架橋の計画がされたが、震災による破損した橋の架橋による財源不足により原型の両国橋のトラス橋を再利用となった。亀島川水門は、昭和43年に完成した防潮水門です。亀島川が隅田川と合流する地点に位置し周辺流域を高潮の侵入から守ります。

合流部付近に変わった形の構造物がありました。水準点モニュメントとの事である、前に国会議事堂前の公園に行ったときにあった、日本水準原点標庫(千代田区永田町1丁目)の元になる「日本水準点検潮発祥地」で、かつてはここの東京湾平均海面高を0mとした大元であった。近くには、「一等水準点(交無号)」の標石もありました。
①この場所(霊岸島量水標:中央区新川2)で平均海面高を0とし。・・・海抜0m
 ※現在の量水標は、三浦半島油壷観測所でおこなわれている。
②付近の場所に水準点(交無号)として標高を反映させる。・・・水準点標石で示す
  ※交無号とは、水準路線が交差する点である「交」と、0を意味する無号を合わせたとのことです。
③さらに永田町にある、「日本水準原点標庫」高度差を反映させる。・・・これが基準!!  ※現在は、24.3900mが水準原点である。
④日本水準原点から日本各地の一般水準点に反映される
 ※一般の水準点は主要道等に沿って標石が設置されている

もう一つ史跡があり、案内板には「向井将監ゆかりの地」とありました。徳川家康の武将として東海道の水軍をひきいた向井忠勝は、数々の軍功を賞され。幕府は、水軍の総帥的地位につかせました。このあたりに屋敷があったようです。

中央大橋を渡り佃島に入ります。大橋を渡ると左が石川島公園、右が佃島公園となるがこの付近が石川島人足寄場跡(現在:大川端リバーシティ21)である。「人足寄場」とは、無宿人や軽犯罪人の更生施設で、寛政2年(1790)火付・盗賊改役の長谷川平蔵の提言により老中・松平定信(徳川吉宗の孫)が設置した。寄場の人足は、400人~600人で入所すると水玉模様の衣類を着せられ、水玉の数により入所年数が分かる仕組みになってました。作業は、大工・建具・油絞りなどそれぞれの得意の仕事をさせた。近くに石川島灯台があり油絞りの益金で築かれた。幕末には水戸藩の造船所となり後に官営石川島造船局製造所となった。これが現在のIHI(石川島播磨重工業)となり、近代造船業の基となった。

佃島の住吉神社に入る。佃島の地名は江戸幕府を開いた際、かつて攝津(大阪)にあった佃村の漁師に助けられことから、江戸に招き住み着いた場所を「佃」とした。幕府は、隅田川河口の干潟と漁業権を与え、諸藩の回船の監視にあたらせた。佃島の漁師は、「白魚」などを献上し余った魚は日本橋周辺で売ることが許された、これが日本橋魚河岸の発祥である。
住吉神社は、そうした佃島住民の故郷の住吉神社を思い、分霊を祀った。海運業・各問屋組合など多くの人から海上安全・渡航安全の守護神として信仰を集めています。狛犬は、愛知県岡崎の石工「酒井孫兵衛」が考案したされたもので同じく「二宮金次郎像」とともに全国的に普及した。眼光鋭く、いかにも神域を守る狛犬としての威厳が感じられます。
本殿近くに青銅製の灯籠がありました。裏に金子政吉君之徳・佃島住民と刻印されており、佃島住民の金子政吉氏に対する記念碑であるが、この金子政吉は「日本最後の侠客」と言われ、佃島のために体を張った親分で金子政吉を讃え銅像という話があったが本人が辞退したため灯籠になったそうです。大震災で防火につとめ、日本橋魚河岸の築地移転にも貢献したとのこと、豊洲移転も金子政吉がいれば混乱しなかったかも・・・。78歳で亡くなったがその葬儀は日本三大葬儀の一つと言われているそうです。この神社の御輿は「八角御輿」と言われ、関東では珍しく天皇陛下の御座高御座を擬したと言われてます。

住吉神社から佃大橋を渡り明石町に入ります。

明石町界隈は、外国人居留地のあった所で「東京における外国」と称された、明治32年には修好通商条約撤廃とともに廃止された。
川べりを歩きモダンな「聖路加ガーデン」に入る。再開発され「医・職・住・学・悠の融合都市」として都市空間をなしている。明治時代には「アメリカ公使館」が麻布善福寺からこの地に移転したが、明治23年には現在地の赤坂に移転している。

聖路加ガーデンから「聖路加国際病院」付近を散策する。講師のMさんが、この地の土地の変遷を話してくれた。
〇かつては、「浅野内匠頭邸跡」で赤穂藩の上屋敷でした。元禄14年「江戸城松の廊下」での刀傷事件で領地没収、お家断絶となった。
〇「芥川龍之介誕生地」でもあります。龍之介は名叔父25年、この地で牛乳業を営む新原敬三の長男として誕生、生後7ヶ月で母フクの実家芥川家の養子となりました。
〇「蘭学事始の地」聖路加病院の一帯は、中津藩(大分)の下屋敷。前野良沢・杉田玄白らは邸内の役宅で「解剖書:ターヘルアナトミヤ」の翻訳に取り組み安永3年(1774)解体新書を完成させました。
〇「慶應義塾発祥の地」同じ中津藩の福沢諭吉は、藩命によりこの地で蘭学塾を開いた。慶應4年(1808)には塾は芝に移転し、これを機に「慶應義塾」と名付けられた。
明治7年(1874)に外国人居留地にM.ウイリアムズ主教が立教学校を開く。

こんなにいろいろな事があるのも都内でも珍しい土地かもしれません。

埋め立てられた築地川公園から築地本願寺へ。とても浄土真宗のお寺と思えない外観である。古代インド仏教様式で東京帝国大学名誉教授・伊藤忠太の設計である、伊藤はこの他、明治神宮・平安神宮・大倉集古館を設計した建築家である。珍しい鉄筋コンクリート造りで内部は大理石彫刻をふんだんに用いられている。狛犬は、有翼獅子で日本では珍しい物で、百獣の王ライオンと鳥の王、鷲を合体させた霊獣の創造です。

お楽しみの昼食は?場所柄どこかなと・・・築地場外を離れて行った所が「江戸銀」でした。創業が大正時代という老舗すし店で、私が若いころはマスコミでも取り上げられた名店です、夫婦で食べに行きましたがお休みの日で残念でした、帰り有名なTVアナウンサー夫婦に会いましたが、「江戸銀」に行くのかなと妻と話した思い出がありました。

昼食後は、場外市場を抜けて波除稲荷神社へ。築地市場は昭和10年に日本橋から移転し、世界有数の卸売市場に発展しましたが、老朽化のため平成30年10月に移転しました、場外だけは残り営業をしておりますが活気は昔と変わりません。
波除稲荷神社は、万治元年(1658~1661)築地の埋め立てに際し波が荒くて堤防が築けなかった。この時、海中から出てきた稲荷明神の像を祀ったところ波が静まり、無事工事が完成した。人々は、神徳のあらたかさから「波除」の尊称を奉り、また、雲を従える《龍》、風を従える《虎》、一声で万物を威伏させる《獅子》の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼「つきじ獅子祭」の始まりである。以来、厄除・航海安全の神として信仰されてきた。

都営地下鉄・築地市場駅から「ゆりかもめ」に乗り継ぎ市場前駅で下車。市場と駅とをつなぐ歩行者デッキから見学コースへ、着いた時間が4時近くでは市場開市日でも店舗も閉まっており市場の雰囲気を味わうことができなかった。たしかに綺麗に整備され見学のための展示もそれなりにしてあったが、雑然とした市場の様相はなかった。
やはり市場は混み合っていないと・・・ネ

このコース、なかなか面白いコースでした。  

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