爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

堀切菖蒲園から向島百花園を散策

2014-06-21 11:58:36 | 日記
6月は、紫陽花と菖蒲の季節である。幹事のMさんが「堀切菖蒲園」と「向島百花園」のコースを企画してくれた。
 東武スカイツリー線の牛田駅で乗り換え京成の「堀切菖蒲園駅」で下車、昔ながらの商店街を通り右に曲がれば「堀切菖蒲園」という所を直進し「極楽寺」へ立ち寄る、門前に塩に埋もれそうな「お地蔵」さんが、「いぼとり地蔵」で「いぼ」に塩をつけると綺麗に取れると言い伝えられている。「いぼ取り地蔵」は、全国的にも各地に存在する、「塩地蔵」とも呼ばれてもいる、「塩」と「いぼ」の関係は不明だが、私の母も、私がよく「ものもらい」?で目を腫らすと、下着に塩をのせて糸でしばり「いぼ状」にしてくれたことを思い出す。

極楽寺からは「堀切菖蒲園」は近い、入り口には露天の屋台が置いてあり、まさに菖蒲の開花時期である。

堀切には、江戸時代後期から戦前にかけ菖蒲園が他にもあったが今では「堀切菖蒲園」だけになった。200種6000株あり、それぞれ名前が付けられている。江戸時代には、「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、歌川広重の浮世絵に登場する、今では高層マンション、高速道路に囲まれ昔が偲ばれる。

 園の正面を出て2階建てのような高速道路をくぐると「堀切水辺公園」がある、綾瀬川と荒川が流れ、広々とした荒川の河川敷の先には「東京スカイツリー」が見える。心地よい風が吹き癒される、整備されたのはそんな古くはない、昔は単なる河川敷だったのだろう、今ではサイクリングロード、野球などの施設がある。 対岸に渡るには「堀切橋」を渡らなければならない、500m以上の2つの川をまたぐ長い橋である、今の時期、風が心地よいが・・・渡りきるとグッタリである。

時間も11時を過ぎ食事所を探しに「堀切駅」に、この駅、いつも通過するたびに東側が直ぐ土手で変わった駅と思ったが昭和初期を思わせるレトロな駅、

小さいラーメン屋が一軒あるだけ、13人のグループなのに9席しか席がない、他を探そうにも何もないとの事で結局交代で済ませるが、ラーメンそのものは昔の支那そば風で美味しかった。この駅付近は、「3年B組金八先生」のロケ地になっている、ドラマの区立桜中学校は、足立区立第2中学校で現在は統廃合で廃校になり、現在は東京未来大学となっている。また、小津安二郎の名作「東京家族」のロケ地にもなっている、東山千栄子と笠智衆の黄昏時のシーンが思い出される。
密集している住宅を通り「カネボウ公園」へ 、この地は「カネボウ」の創業の地でもあり、現在でも近隣に「鐘」のマークの「カネボウ物流」がある、カネボウの旧社名である鐘淵紡績、鐘淵化学は、鐘ヶ淵が創業の地であることにちなんでいる。この公園には、「鐘ヶ淵紡績発祥の地」・「震災記念観世音菩薩」の碑があるが、公園そのものにベンチや花も無く石碑だけが建っており、カネボウ自体そのものも解散され、夢の跡と言う感じである。

 多聞寺に向かって歩く、この一帯、道路が狭い火事になったら消防車が入れない道が多い、荒川と隅田川に挟まれ戦災に遭わなかったのか、建物も「看板建築」や「出桁造り」などが見られ、昔のままである。

多聞寺は、隅田川七福神の一つになっている毘沙門天である。茅葺の山門は、墨田区の指定文化財になっている見事な山門である。山門を通って右側には東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨を展示している、左側には、「映画人の墓碑」がある、共同映画の創立者の遺族が資金提供し日本映画の民主的発展のためつくされた映画の仲間の生涯を顕彰し、追悼する墓碑である。墓碑の裏には懐かしの監督・俳優等が刻印され参加者一同、あの人・この人と名前を呼び合う。このお寺、戦災の遺物、映画人の平和と民主主義の墓碑、門前の掲示板には日本国憲法9条の条文を掲示するなど反戦平和のお寺である。お寺としては、多くの檀家の中に、先の大戦で外地で亡くなられた方、空襲で亡くなられたなどを抱え、反戦平和を訴えるのは至極当然だとう思う。私も父の墓参りの時に、墓石に陸軍○○○や外地名の戦死場所を多くあった。今の政治状態を考えると、多くの方々の犠牲を無駄に出来ないと思う。

多聞寺を出て東白鬚公園にある木母寺へ、公園の手前に13階の高層住宅が並んでいる。この一帯は江東デルタ地区の防災拠点であり、高層住宅は防災シャッターや避難用ゲートが設置され、屋上には放水銃(公園に吹き込む熱風や火の粉を冷却し避難者を守る)が設置されている、震災・戦災の経験が生かされている。

公園の中に木母寺、隅田川神社がある。木母寺は、歌舞伎などで取り上げられた「隅田川物」の12歳で亡くなった梅若丸の悲話で有名である。

お寺には、梅若塚があり、奥に梅若堂があるが、お堂は木造建築で、ここが防災拠点のため許可されないため大きなケースの中に保存されている。
東白鬚公園を出て東向島駅の方に向かう途中に「向島百花園」がある、佐原鞠塢が入手した土地に1805年に開園したのが由来であり、江戸時代には文人墨客のサロンとして利用された民営の公園であったが、1939年に東京市に譲渡され現在に至っている。当時は、「梅屋敷」「花屋敷」と呼ばれていたが1809年に「百花園」と呼ばれるようになった。園内に「百花園」の名の通り多くの植物が鑑賞できるほか、多くの文人の句碑が置かれており江戸時代の花園が今に残る貴重な場所である。

今回の「日帰り散歩」湿度が高かったのか、歩数もあったようで、皆、疲れ顔であった。
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「退職者の会」の会議

2014-06-18 19:44:45 | 日記
5月の総会が終わり、初めての役員会が組合事務所を借りて行われた。それぞれ担当がやるべき事をやってきているので、会員への広報等の発送業務が主である。4時から始まり5時ちょと過ぎまでである。その後が長い、おきまりの居酒屋で一杯である。なにやら話を聞くと、1ヶ月に1回の役員会はこのパターンとの事である。何やら酒好きが集まったようである。この日もおきまりのコースで、帰りが同じ方向のSさんとは、2次会まで行ってしまった。
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