爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

雨の鎌倉散策

2015-01-24 17:29:08 | 日記
「退職者の会」の日帰り散歩も今回の企画で50回である。50回記念の鎌倉散策であるが、朝から雨雲である、天気予報では夕方から雨との事だが、今にも降りそうな天気である。昨年も夏に鎌倉を訪問したが、今回は「北鎌倉駅」からのコースである。

駅を降りて左に進み「東慶寺」を訪問、入って直ぐ右手に夏目漱石の碑が立っていた。
「夏目漱石参禅百年祈念」と刻印されている、東慶寺の釈宋演に参禅した時の様子が刻印されており、漱石の再訪に同道した満鉄総裁中村是公と「連れションを」したと思われる場所に平成6年に建立された、受付を済ませると「はなごよみ」のパンフレットが置いてあったが春夏秋冬に楽しみがあり、お花の好きな方には散策にはピッタリかもしれない、訪問した時は植木職人が木々の苔を取っていた。コケが多いのは、北鎌倉一帯が凝灰岩質砂岩層の上に関東ローム層で水はけがあまり良くなく日陰が多く冬も気温があまり下がらない事で、シダ類、コケ類が多く、イワタバコやアオキが多く見られる。お寺の方に案内をしてもらい、本堂の奥くの水月堂にある「水月観音菩薩半跏像(県文化財)」を見学、また隣の「松岡宝蔵」にて蒔絵展も見学することができたが、お寺の中に有料の展示館があるのは珍しい。このお寺の大きい役割の一つは、「松岡宝蔵」にも展示されているが、駆け込み寺(縁切寺とも呼ぶ)であった事である。江戸時代には群馬県の満徳寺と、この東慶寺が幕府公認であった、明治4年に廃止されるまでの600年の間、駆け込めば離縁できる女人救済の寺であった。現代も離婚は大変であるが、昔は寺に駆け込まなければ離縁できず、よほどの事で駆け込んだ事が離縁状等を見るとわかる。
ここの墓苑には、旧安宅産業・出光興産・岩崎書店の創業者、和辻哲郎・西田幾多郎(哲学者)など多くの有名人多く眠っています。


東慶寺を出ると、もう昼である。幹事のMさんが案内葉書に「参加人数によっては豪華昼食になるかもしれない」と書いてあったが、参加者が13名ということで「鎌倉 鉢の木」に予約をしてくれた。精進料理のお店で動物性食材を一切使用しないというこだわりと、四季折々の旬の野菜の素材をいかした調理法で提供するお店である。肉食の好きな小生にとって、どうなのかなと思ったが、精進料理のイメージが変わる品のある美味しい昼食であった、ミシュランガイドに連続掲載されたお店はさすが違うと思った。

昼食を済ませて外に出ると雨がパラパラときたが、近くの浄智寺を参拝する。このお寺のパンフレットに鎌倉五山 第四位と明記してある、「鎌倉五山」とは、臨済宗のお寺を格付けする制度で、幕府が順次格付けの高い寺に僧侶を任命し昇進させようとする、今で言う人事管理制度で幕府の管理を強化するものである。(ちなみに五山は、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺である。)この浄智寺は、北条時宗の三男、宗政の菩提を弔うために創建された。本尊は、室町時代の阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏座像で、それぞれ過去・現在・未来を表しており、県重要文化財に指定されている。山門が竜宮城を思わせる中国式の山門である。境内は、全域が国の史跡の指定を受けているため、茅葺きの書院があったり、横穴墳墓ありと趣のあるお寺です。


 次の散策先は建長寺であるが、雨と寒さのため建長寺をカットし円応寺を参拝。受付の方がこんな天気だから来ないと思ったと言われながら本堂に入る、中には「閻魔大王座像」(国重要文化財)が鎮座している。そればかりでなく「十王」と言われる座像も祀っている、一つのお寺でこんなに祀られているのは珍しい。「十王」は、死後の世界で出会う十人の王様で、初七日、一周忌など十回の取り調べがあると言われている。何とも日々の生き方を考えさせるお寺である。

最後は鶴岡八幡宮へ、この寒さと雨の中でもここだけは混雑している、さすが源頼朝が鎌倉の町づくりの中心として創建した古社である。参拝後は「鎌倉国宝館」へ彫刻や仏像、工芸を展示、企画展として「肉筆浮世絵の美」が開催され展示されていた。

 雨と寒さで予定通り散策出来なかったが、鎌倉は、まだまだ散策する所が多い、次回のお楽しみに・・・

【その他の写真】

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生田緑地内の日本民家園・岡本太郎美術館を散策

2015-01-12 07:15:27 | 日記
前から一度訪ねて見たいと思っていたが、やっとの事で・・・。下車駅が小田急線の「向ヶ丘遊園」である、この駅、遊園地があるかと思っていたが平成14年に閉園したとの事、東急電鉄の「都立大学駅」「学芸大学駅」と同じで、駅名の大学が存在しないのと同じで遊園地は存在しない。南口の通りを道なりに歩くと生田緑地入口の標識がここ一帯は「生田緑地」と言われる多摩丘陵が多摩川に接する東側にある。川崎市内では一番大きい公園である、昭和2年には「向ヶ丘遊園地」が開園しているため、その頃から森林保全が進められ、昭和16年には川崎市が自然保護のための都市計画を決定した、自治体主導で環境保護を進めたことによる結果が都市化の中でも緑が残った所以である。生田緑地の中には民家園・美術館・科学館などの施設が点在しているが、今日は日本民家園へ。小金井市に「江戸東京たてもの園」があるが、それよりは年代的には古く日本民家の原風景が資料展示、移築展示されている。

展示品を見て入園すると、旧原家の建造物が、この民家は、川崎市内に明治時代に現存したもので、天井、欄間、障子がこっている。元々、肥料問屋で財を築き各方面に事業を広げてきた実業家の家である。



旧井岡家は、奈良市の商家で、17世紀末~18世紀初めの建築、油屋や線香屋として製造・販売してきた、正面に庇を設け、格子、揚見世のある商家。
※揚見世ー関西町屋の特徴で見世の間の正面外側に設けられた縁台。

旧佐地家門・供侍は、名古屋市にあった19世紀初期の建物で門は棟門(むなもん)と呼ばれる形式で両袖部分に突出している小屋根は提灯を吊すためのもの。供待(ともまち)は、お供が主人を待つための建物で、土間、門番部屋、囲炉裏からなっている、別棟があるのは珍しい、武士の見栄は相当なものか・・・

旧三澤家は、長野県の伊那宿にあった商家(薬)、石置板葺のゆるい切妻造り、式台玄関があり、板葺の屋根は、伊那の良質な木材を手で薄く裂き板葺にしたものである。

















日本民家園では、多くのボランティアの方が活躍している、5~6人であったが平日でも30分程度説明してくれる。
合掌造りは、4棟程あるが、豪雪にも耐えられるよう屋根は急傾斜であるが、実際見てこんなに急傾斜とは・・・
中は冬場も作業できるようゆったりした間取りで、外に出っ張りがあるのは仏壇を設置する所で、わざわざ造ったのは、住人が2階で仏壇の上にならないようにという事である。



【その他のPhoto】   

         photo
 
日本民家園の展示物は、維持費が相当なものだろう、その他、維持するための大工や職人の方が少なくなっている、貴重な歴史的文化遺産でもあり、川崎市の今後の整備保存に期待したい。

岡本太郎美術館は、日本民家園の「奥門」を出た所にある、この美術館、岡本太郎が亡くなり2年後に開館された。生前に開館されなかったのが不思議である。美術作品については、凡人の小生には、???だが、説明文を読みうなづくばかりである。良い環境の場所に、美術館があり、川崎市の力の入れようが感じられた。



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