爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

サントリー美術館と乃木神社を散策

2016-12-27 18:07:53 | 日記
サントリー美術館で2017.1.9まで「小田野直武と秋田蘭画」が開催されているが、チケットが手に入ったため行くことにする。
美術館に行く前に、赤坂にある「乃木神社」に立ち寄る。乃木神社は、両親が昭和11年に結婚した場所でもあり訪れた。メトロ乃木坂駅で下車、目の前が「乃木坂」である、「乃木坂46」でこの坂はさらに有名になったが、謂れは乃木大将が殉死し坂の上に乃木邸があった事によるが、元々は「幽霊坂」と言われていた。
「乃木神社」は、駅の隣にあった。明治天皇の崩御に殉じ夫妻で自害を遂げたが、関係者が夫妻の精神を後世に伝える運動の中、乃木神社創立の許可がおり、明治神宮創建の後に造営の事業がおこされ、大正12年に鎮座祭が行われた、昭和20年の空襲により本殿等が消失されたが、昭和37年に復興された神社である。
戦前の配置を聞いてみたが、手水舎、乃木邸が残り、本殿は建て直したが位置は変わらないとの事、よく昔の写真を持ってきて確認する人もいるそうである。私の両親の記念写真を見たが位置が分からなかった。夫妻で殉死ということから昔から結婚式が多く、家庭円満や勝負関係の勝ち守りなどの祈願する方がお参りするようである。そういう私も、夫婦円満、孫の学業成就の願いをしました。










明治神宮・靖国神社・護国神社(道府県)・乃木神社(陸軍)・東郷神社(海軍)は、新しい神社ではあるが国体護持、国家感では大きな役割を果たしてきた。
乃木神社から六本木ミッドタウンに向かう。 ある大学教授が港区は不動産バブルの状況だ!と言っていたが、ミッドタウンに行くとそう感じる、中には多くの店舗があるが、思わずやっていけるのだろうかと心配になる。
サントリー美術館は、このビルの3・4階にある。
秋田蘭画とは、久保田藩(秋田県)を中心とする江戸中期の絵画の手法の一つで、日本的な画材に西洋画の手法を取り入れた和洋折衷絵画である。その中心が「小田野直武」であり、小田野直武は久保田藩の鉱山開発指導で来ていた平賀源内の蘭画の指導を受け「解体新書」の挿絵を担当しました。遠近法、写実、中国技法、西洋技法を取り入れ独自のジャンルを築いたが、秋田蘭画を引っ張ってきた小田野直武、佐竹曙人が若くして亡くなるなどし、秋田蘭画が下火となった。しかし、いまの日本画の画風に影響を与た大きな一時代を築いた。

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草加市立歴史民俗資料館の企画展(日光道中と参勤交代)

2016-12-25 15:11:21 | 日記
久保田藩の参勤交代の企画展示があるというを知り、歴史教育者協議会研究集会プレ企画のあと草加駅まで足を延ばした。草加市立歴史民俗資料館は、草加小学校敷地内に位置する、草加小学校の校舎として利用していた建物を昭和58年に開館した。
この建造物は、1926年(大正15年)に竣工した、設計者は草加小学校の卒業生でもある大川勇氏で、関東大震災の教訓から耐震・耐火を採用し木造校舎の倍以上の建築費をかけた近代的な建物で「国の登録有形文化財」となっている。
元々が2階建ての校舎であるため展示には適していないが、草加市内の古代から昭和時代にかけて貴重な収蔵品が教室・廊下・階段に展示されている、何よりも入館無料なのがありがたい。


企画展は、2階に展示されていた。日光街道の宿場は千住、草加、越谷、春日部と続くが関東における宿場が史跡として残っている所は少ない、碑が建っているだけである。宿場としての掘り起こしは大変な事でもある。
参勤交代は、武家諸法度の中でも財政的にも厳しい制度で、中央集権の根幹をなす制度である。その点は、映画「超高速!参勤交代」で面白おかしく描かれてる。
久保田藩(秋田)と草加宿の関係であるが、久保田藩の家老であった梅津政景の日記の中に約400前に「さうか(そうか)」と記述されている。企画展は「梅津政景日記」の一部が展示されているが、梅津政景は、藩主佐竹義宣に抜擢されたが、藩政における家老梅津の役割は大きかったようで、梅津政景日記は貴重な文献でもある。
久保田藩の大名行列は、資料では8日~22日かかったようだが、8日や22日かかたのはどういう参勤交代なのか不明であるが、秋田市での展示でも約11~14日が平均で、参勤交代の人員は500人~200人で、江戸時代の後期には財政も厳しく人員が少なかったようであり、草加宿を利用しなかった年もあった。


久保田藩の佐竹氏は、茨城県常陸太田から久保田藩への転封であるが、親戚が常陸太田から秋田まで歴史をたどって歩いたと言っていたが今も昔も歩くことは大変な事である。
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歴教協関ブロ プレ企画 「等高線のない街 -草加ー」

2016-12-25 14:57:10 | 日記
歴史教育者協議会関東ブロック集会が、埼玉県草加市の獨協大学で行われた。開会前に「プレコース 日光街道草加宿成立から現代まで」と題し、現地企画が開催された、いわゆる、地理で言う「巡検」である。10時に東武スカイツリーラインの松原団地駅改札口に集合、2時間のコースで内容の詰まった企画である。説明は、退職者の会会員でもあるH氏が説明してくれた。
松原団地は、旧日本住宅公団が開発し昭和37年入居開始した、当時としてはマンモス団地である。老朽化のため現在は再開発中で駅前は終了しており、さらに順次開発を進めている。
獨協大学正門前に進み「伝右川」の説明を受ける、伝右川は、さいたま市見沼区の田園地帯に源を発する利根川水系の1級河川で新田開発を目的として開削された河川であり、さいたま市、川口市、草加市と流れて東京都足立区にて綾瀬川に合流する。草加市においては、綾瀬川と共に東京に流れいるが、草加に限らずこの地域は表題の「等高線のない街」の通り、高低差が少なく水害との闘いでもあった。伝右川沿いに歩くが、回りが住宅地となっているが、浸水防止のため川沿いは土盛りをしている。現在は、河川改修、浄化等の改善が行われたため昔の面影が失われている。


次の「草加せんべい」のお店に行く手前にある、鈴木喜美子記念館「ミュゼ環」に立ち寄る、草加市出身で日本の公害の原点である、足尾銅山をライフワークとして長年描き続けてきた、足尾銅山の廃墟を描き、多くの人に訴える作品として展示されていた、今集会の2日目には現地見学として足尾銅山鉱毒被害地をめぐる企画もされていた。
明治3年創業の源兵衛せんべい店を見学する、間口はさほど広くないお店は、大正、昭和の博覧会等で多くの賞を受賞してきた草加では名店の一つでもある。草加せんべいは、元々は塩をまぶして焼いていたのが始まりで宿場とともに広まったと言われ、その後、野田の醤油で味付けをするようになり、現在の「草加せんべい」の原型となった伝えられている。
通りからガラス越しに、干しあがった生地を焼いていた、「押し瓦」と「はし」を使って焼く光景は草加市ならではである。醤油の焼けた匂いが何とも言えない・・・



旧日光街道を北に向かい松並木を通り松原団地駅に戻る。この一帯は草加市では一番整備された場所でもある、太鼓橋、銅像、句碑など散歩コースとしては最適である。その中の一つ「札場河岸公園」に立ち寄り、昔を知る事ができる2カ所を見学した。
草加市神明にて「綾瀬川」と「伝右川」が接近するがここに「甚左衛門堰」が設けられた、寛永年間に綾瀬川の改修と伝右川の開削工事が行われ、その際、灌漑用水の引水と増水時に両河川を結び江戸時代より調節してきたが、現存する堰は明治25年に再築されたレンガと石を組み合わせた2連アーチの堰である。現在は、隣に神明排水機場が稼働している。もう一つの昔の名残が河岸場の石組である復元されたものだが、綾瀬川は、舟運が利用し船着き場があった、昔は石段が長く続いていたのだろう。
帰りは松並木を歩き解散場所に戻ったが、参加者や訪問先で思いがけない人にお会いすることができ有意義な時間を過ごした、企画された埼玉県歴史教育者協議会に感謝申し上げたい。


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