爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

40数年ぶりに友人に会う

2017-12-29 19:50:55 | 日記

待ち合わせ場所はKITTE(旧東京中央郵便局)1時であったが早めに大手町駅に到着し付近を散策する。
新大手町ビルは、私と妻にとっては思い出のビルである、妻はOLとして通勤し、私は取引関係で外国銀行に手続きによく行っていたが、昔の丸の内、大手町とは一変している。国鉄本社ビルもなく、かつての三菱村といわれた重厚なビル群から高層ビルとなり、人通りも多くなった。新大手町ビルの建物は当時の面影があったが、ビル内は面影がなく関係した会社・銀行はなかった、テナントは相当数入れ替わっているのではないか。40年という流れを感じさせられる。

待ち合わせ場所のKITTEも昔だったら内部には入れない所である。待ち合わせ時間となり、お互いにどう変身?したのか不安を抱えて中に入る、人気のSpotで出入りが多く益々不安になる。柱の所に痩せ気味の頭髪の薄い高齢の人が?、まさかと思いながら近づくと目の印象がS君だ!!40年前はお互いに黒髪でフサフサしていたが、S君は武士のような頭が薄く、私は白髪に、お互いの容姿も一変した。でも会えて嬉しいものである。会社で1年だけの付き合いだけだったが、一緒に海外旅行をしたり結婚式に参列したり、彼とは何か縁のある関係であった。記念の写真を撮ろうと思ったが、お互いの変身ぶりに妻の笑いものにされると思い・・・次回の宿題に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「退職者の会」の忘年会

2017-12-18 22:29:09 | 日記

退職をして年金生活に入ると、大きく変わるのが二つある、飲む機会が減る事とボーナスが無いことである。

交流も少なくなる中での忘年会である、久々に会う人など、それぞれ近況を語るが、病気や介護などの話もあり、皆さん現職の時はあまり話題にもしなかった事など、それぞれ悩みを抱えている・・・・。締めの挨拶でNさんが「共に生きる」の考えで行くことが大切との話が心に残つた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神宮外苑のイチョウ並木などを巡る散歩 [退職者の会:日帰り散歩]

2017-12-07 13:20:06 | 日記

地下鉄「青山一丁目」で下車する。この駅で下車するのは初めてか・・・、あまりこの付近は来ることがない。神宮球場に来た思い出しかない。
青山通りを渋谷方面に歩いて行くと右手に低い立派な石垣(江戸城のものを運んだようです)が見えて来る、その先は4列の銀杏並木道、Mさんの話では、この銀杏の木は絵画館前に向かって低くなっているとのこと。この一帯は、明治神宮を中心とする国家プロジェクトで昭和初期まで整備されてきた。TVに度々出てくる並木道、TVドラマでは恋人同士が歩くシーンが多いが、この時期、外国人観光客でゾロゾロである。

青山通りに戻り外苑前駅を過ぎ右に曲がり高徳寺に行く。
途中、伊藤忠商事東京本社ビルがあり、社名の石碑に珍しいことに「ひとりの商人、無数の使命」とコーポレートメッセージが刻まれていた、今の時代、利益追求だけでなく企業の社会的責任、企業理念が必要で、公務員と似たところがある。
高徳寺は道路から煉瓦塀の参道が続き古さを感じさせる、中に入ると墓石が一カ所にまとめられている、いづれも刻印が薄れた墓石で都内ではこうした無縁墓石が多い。入った右手に「河内山宗俊」の碑があった、この寺は、河内山宗俊の墓所のようだ。 歌舞伎、講談、映画などで悪徳坊主のイメージがるが、何故か人気のある人物である。高徳寺を出て青山熊野神社へ。

青山熊野神社は、1644年に紀州徳川家邸内より現地に移遷され青山総鎮守となった。当時から盛大な祭礼でもしられ「江戸名所図絵」にも描かれている。熊野神社の前の坂道は、「勢揃坂」と言い「後三年の役」(1083)に八幡太郎義家が奥州征伐にむかうときに、ここで軍勢を揃えて出陣していったという古い坂で、この坂道の途中、右手に國學院高校、左手に龍巌寺がある。元は名主屋敷から寺となったお寺であるが、廣重や北斎も描いた「円座の松」、芭蕉の句碑、義家が腰掛けたという「腰掛石」、安芸広島藩浅野家の大きい円形墓石4基などがある。お寺とは思えない境内で静寂な空間が伝わってくる。なお、山門から先は境内に入ることができません。勢揃坂を下ると「青山キラー通り」(愛称)に出る、変な名の通りであるが命名したのは作家堺屋太一氏で青山墓地から仙寿院までの通りで墓地があるので命名したと思われる。

その仙寿院は、変わっているお寺で、トンネルの上に墓石がありました。「青山キラー通り」から「外苑西通り」と続き国立競技場を通る都道でオリンピックのために着工された道路である。
仙寿院は、徳川家康側室である「お万の方」のゆかりのお寺で有名。
同じ千駄ヶ谷の榎稲荷(お万榎)に立ち寄りました。お万の方が信仰したと伝えられているが、こちらは瑞円寺の裏手にあり細い階段を上がって行きます、上がり口に江戸名所とありましたが今は榎もなく当時はどうだったのだろう。

上がった所が瑞円寺の境内となります。境内は綺麗に整備され梅林があり、皆、梅の時期に来たいネ。本堂脇に庚申塔2基ありましたが珍しい庚申塔(庚申塔→墓石?)でした。

瑞円寺を出て「観音坂」に、この坂の由来は、これから行く聖輪寺の本尊であった如意輪観音像からで、行基作と伝えられいますが戦災で焼失しています。聖輪寺に入って左手に身守り地蔵(火焔の跡が残る立像)、本堂左脇にキリシタン燈籠がある。本尊である観音には目玉観音伝説(目玉が黄金)として書物に残っている。

観音坂に戻りさらに歩いて行くと鳩森八幡神社に入る。千駄ヶ谷の総鎮守となっている、境内には富士塚がある、富士塚の前には池があり富士五湖を模している、都内に現存するもとのしては最も古く、富士塚の当時の基本様式を示している。また、古くはないが将棋堂があり将棋ブームのなかで人気のある鳩森神社である。

神社の隣にあるのが、将棋会館がある1階が売店、2階が将棋道場となり一般は2階までである、将棋関係者・ファンにとっては聖地でもある。次に予定している国立能楽堂に向かう、能楽堂は外観のみの見学の予定でしたが、資料展示室にて「野崎家能楽コレクション」の展示がおこなわれており鑑賞することに。備前岡山藩主・池田家から拝領した野崎家のコレクション(能楽資料)が東京で初めて展示された。能面の展示の多さは圧巻でした。コレクションの素晴らしさもさることながら、野崎家にも興味が、沿革によれば製塩業と新田開発で財を成した家で、現在は、倉敷市JR児島駅付近にある「野崎家塩業歴史館」「野崎家旧宅」などが見学できるようだ。

この後、新宿御苑を散策する予定でしたが、一服したいと顔に出ていたのか、喫茶店にて休息して帰路に。

【その他のPhoto】

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情緒豊かな蔵の街栃木市を巡る散歩

2017-12-04 07:50:50 | 日記

11月の「退職者の会」の日帰り散歩は、蔵の街「栃木市」を巡る旅である。個人的には3年前に訪れたが見て回れないところが数カ所あった。観光パンフレットを全て回るのは日帰りでは無理なコースである。
今回は、蔵の街大通りから巴波川(うずま川)下るコースである。前回見学出来なかった所を中心に紹介し、それ以外については2014年12月のブログを参照願いたい。
当日は快晴である、駅前の山本有三の碑を見て「蔵の街大通り」に入る。

大通りからお寺の大きい屋根が見えたので向かう、定願寺である。市の有形文化財に指定されている、山門、本堂、鐘楼、不動堂など、境内には池がありがあり落ち着くお寺である。不動堂の扉には見事な彫刻が施されている。

大通りをそれて神明宮に向かうが手前に満福寺があったので立ち寄る。創建は鎌倉時代と言われているが当時は末寺をかかえる大寺であったが、今は時代を感じさせないモダンなお寺です。栃木市指定文化財の赤・青(緑)・黒の三体一組の三鬼尊が祀られています。また、案内板には田中一村の墓所とあります。栃木市出身の日本画家、幹事のMさんの話ではTV「開運!なんでも鑑定団」にも作品が出品されるとの事、奄美大島が好きで作品も南国の自然が多く描かれている。

神明宮は、満福寺から第二公園を抜けた所にあった。公園から入ると鳥小屋(オーム・孔雀)があった、町内会で清掃などしているようだが、オームが「オハヨウ」と言うのには皆ビックリ、ひとしきりオームに声掛けを。
神明宮は、室町時代中期の創建で伊勢神宮より分霊された神社である。昔、本殿の千木が十本あったそうで、千木は奇数ばかりだと思っていたが、十本あったことから「十千木」と呼ばれ県名発祥の地とも言われている。

この後、山本有三の墓石のある近龍寺、山車会館に立ち寄り、巴波川沿いにある「横山郷土館」(明治時代末期)を見学。水戸藩士の子の横山定助が武家を嫌って栃木で商いを始め、隆盛を極めた建築物である。麻を主力にした荒物商から金融業でも大成した。裏に回れば小さい洋館、庭等が見学でき、内部にも入館でき、当時の豪商の往事がしのばれます。

横山郷土館の裏手にあたる所に旧市役所別館(旧栃木街役場庁舎)があります。大正時代の建築で木造2階建て瓦葺。元県庁があった地に庁舎として建てられました、敷地内には「栃木県議会発祥の地」の碑があった。県庁所在地が宇都宮市に移らなかったら栃木市はどうなっていたか・・・。
 回りには堀がありました、案内板の「県庁堀附漕渠」によれば県庁の敷地を堀(幅約6m)でめぐらせて波川を繋ぐ堀(漕渠)で形作られ、敷地内には舟運におる荷揚場が設けられた。

巴波川に戻り遊覧船に乗船する事に。栃木市の観光パンフには必ず遊覧船の写真が載っている。この川、かつては水量が多く氾濫を繰り返し流れが渦を巻いたことから「渦巻き川」から「うずま川」になったのが名称の由来で、巴は象形文字から渦の形から?チョット読めない。乗船した日は、水深が浅く膝くらい?で舟の回りはコイとカモが多く一緒に進んでいる。

この日は天気もよく、散策には良き日であった。蔵と川の街「栃木市」は何度来ても印象に残る街である。

【その他のPHOTO】

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする