爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

越谷市蒲生地域を散策

2023-01-24 10:41:56 | 日記

越谷市に羅漢の寺があるとインターネットで知り、越谷市蒲生駅周辺を散策、羅漢像のある報土院へ。いままで「退職者の会・日帰り散歩」で川越市・喜多院「五百羅漢」、久喜市・定福院「羅漢の寺」で羅漢像は見てきたが、越谷市の寺院に羅漢像があるのは知らなかった。報土院に入り釣鐘の隣の松木の周りに羅漢像が数十体あった。いままで訪れた二寺院の羅漢に比べると数は少ないが、それなりに面白い。酒を飲んでいる羅漢はよく見るが、寿司を食べる、パソコンに苦労している、カラオケのマイクを握る、将棋をしている羅漢など・・・悟りを開いた高僧といえども、俗世間から脱するのは大変です??。この羅漢像、お寺が置いたのか、檀家の寄贈なのか?親しみを感じる羅漢様です・・・

蒲生に一里塚があるとのことで、報土院から南に歩く。突き当りにあるのが綾瀬川である。桶川市(埼玉県)に源を発する49Kmの利根川水系の一級河川である。越谷・草加市で川幅が広がり流れが緩やかで貨物の輸送が盛んで河岸場が設けられたが大正に入り陸上・鉄道輸送が進み、役割を終えた。高度成長期には人口増加等により生活排水や工場排水により水質汚染が問題となった、1980年から15年連続で一級河川水質ランキングのワースト1位となった。近年は徐々に回復している。河川の両側が整備され越谷・草加市民の散歩コースとなっている。

「蒲生の一里塚」は、綾瀬川と出羽堀(4kmの用水路)が合流場所にあり、高さ2m、東西5.7m、南北7.8mの長方形をしている。現在の「蒲生大橋」の両側にあったが、残っているのは東側の一里塚だけである。埼玉県内の日光街道では唯一現存する一里塚となっている。(埼玉県指定史跡)

一里塚から川沿いに下った所には藤助河岸がある。河岸に小屋があったが荷の積み降ろし小屋として復元されている。小屋の前には、「藤助」の名の倉庫、藤助酒店の商家があり、この河岸場が個人の河岸場である事がわかる、説明板に高橋藤助氏が江戸時代の中頃に開設した河岸で、大正初めには輸送業を始め地の利を得て栄えたようです。その後、舟運の衰退により綾瀬川の河岸場は自然消滅しました。

綾瀬川が越谷市と草加市の市境となり、訪れた越谷市蒲生愛宕町は東武スカイツリー線では草加市の新田駅が近い駅になるが、清蔵院を訪れたく蒲生駅の方に戻る。清蔵院は、天文3年(1534)と伝えられています。山門が越谷市指定有形文化財になっています。屋根など一部改造されているようですが、棟札により寛永15年(1638)に関西の工匠による建立が確認されています。山門の欄間の龍の彫刻、虹梁(中央が弧状になった梁)の彫刻などは江戸初期に造られたと言われている。なお、山門の龍は伝説によると左甚五郎の作といわれ、夜な夜な山門を抜け出し田畑を荒らしたことから龍を金網で囲ったといわれています。

ほぼ、3時間のコースを終了し、蒲生駅より帰路に。

 

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丸紅ギャラリーから竹橋・九段下・神田明神を散策(3)

2023-01-15 09:27:32 | 日記

地下鉄九段下駅からお茶の水駅で下車し古民家見学と神田明神へ。
神田明神には、数回訪れたが神田明神の隣に古民家があるのは気が付かなかった。
神田明神の隣の宮本公園に移築されたのは遠藤家旧店舗・住宅主屋「神田の家 井政(いまさ)」である。区の施設と思っていたら民間所有の古民家であった。カフェと施設の貸出で撮影やイベントに利用できる。平日は、庭までは一般公開されている。遠藤家は、鎌倉で材木商を営んでいましたが、江戸城築城のため江戸の神田鎌倉町(現・千代区内神田1)に移住。先代の遠藤氏は、神田明神の氏子総代、将門塚保存会会長として尽力した方。屋号の井政のいわれは、井筒屋政蔵の略で代々名を継いでおり、歴史ある材木商です。北山杉、屋久杉など部材には各地の良材が利用され、江戸以来の商家建築がみられ、細部の意匠も材木商ならではで、貴重な木造建築(江戸町屋)である。

神田明神に初詣と思ったが、正月の「松の内」も過ぎているのに、境内はお参りの列やら修学旅行の生徒で混みあっているので鳥居に一礼し駅へ。

◇参考資料◇
 ・画像は、配布されたパンフレットなど。
 ・朝日新聞
 ・しょうけい館では、展示物に氏名等のないもの撮影させていただいた
 ・官公庁のHPとWikipediaを参考にした

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丸紅ギャラリーから竹橋・九段下・神田明神を散策(2)

2023-01-14 10:33:37 | 日記

竹橋から、九段下の「しょうけい館」(戦傷病者史料館)を目指す。
道を間違えたようで、北の丸公園を回り込むコースとなってしまった。

竹橋(橋の由来は、竹を編んで渡した橋だったからとも)をわたり国立近代美術館・国立公文書館前の坂を上がる、この緩やか坂は紀伊国坂と表示があった。紀伊徳川家の屋敷があったことから名付けられました。
注)紀伊國坂は、港区赤坂にもあります。


※手前のビルが毎日新聞本社、奥が丸紅株式会社。

さらに歩いているとレンガ造りの洋館があり、プレートに旧近衛師団司令部庁舎とありました。2階建ての赤レンガ造りで国の重要文化財に指定されています。明治43年、天皇と宮城(皇居)を警護する師団の司令部として建てられました。付近には近衛歩兵連隊も配置されていましたが、現在は碑が立っているだけです、明治時代のレンガ造りは丸の内等には多くありましたが、関東大震災・戦災で消失し現存するものは少なく、東京駅丸の内駅舎、法務省旧本館などです。司令部庁舎は現在、一般公開されておらず外観のみの見学となっています。


やっとの事で、九段下の表示の場所まで。近道と思い小道に入るが「鍋割坂」とあった。名前の由来は、鍋を伏せたような形状をした台地を割ったように坂道が通っていることから名付けられました。同名の坂道は各地にあるようです。東京は坂が多いが坂名の由来が面白い。

だいぶ遠回りし「しょうけい館」に着く。 東京都千代田区にある博物館で、日本の傷痍軍人に関する史料の収集・保存・展示を行っている。館名には「承継」の意味があり、「戦傷病者史料館」の名称を附記されている。


戦時中及び戦後の戦傷病に関するさまざまな体験・労苦等を後世代の人々に伝える施設で、厚生労働省が設置した国立施設である。2013年11月までは厚生労働省所管の財団法人日本傷痍軍人会が運営していたが会員の高齢化と減少により解散し、それに伴い管理主体は変更された。私の世代(第一次ベビーブーム)は、父母が戦争で艱難辛苦を経験している。小さいころ母と出かけた時に、橋のたもとで、戦傷病者が白衣を着て演奏や歌っている姿を鮮明に覚えているが、こうした方も戦地で筆舌に表せない苦労があったのだろうと、いま見学し思った。戦争の悲惨さを伝える博物館(展示)はあるが、戦傷病者の戦中の貧弱な医療状況、戦後の厳しい生活状況に視点をあてた展示も伝えていかなければならないと感じさせられた。まさにこうした施設も承継していかなければならない。

 

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丸紅ギャラリーから竹橋・九段下・神田明神を散策(1)

2023-01-13 18:33:54 | 日記

年明けに、丸紅ギャラリーの「ボッティチェリ特別展 美しきシモネッタ」の展覧会へ。
竹橋は、ほとんど降りる事のない場所である。商社・丸紅の本社の3階にあり、駅から至近で分かりやすいギャラリーである。丸紅ビル竣工(2021年)の年に「丸紅ギャラリー」が開館した。ボッティチェリの作品が日本に1点のみで、価格が1億5千万とのことで野次馬感覚で鑑賞。

企業のギャラリーで美術展の紹介でもあまり載らないので空いているだろうと思っていたが、入館する方が多かった。これは、朝日新聞に「美しきシモネッタ 語り尽くせぬ物語」・「別の作者説・真贋論争・各国を転々 数奇な運命じっくりと」と言う見出しで掲載されてためだろう。作品が転々したなかにはヒットラーまで出てくる。

ボッティチェリの作品、美しきシモネッタの1点のみであるが、この1点に関わるシモネッタや真贋論争の経過が工夫展示されていて良かった。作品の「美しきシモネッタ」は、15世紀後半と言われているが、「フィレンツ随一の美女」と讃えられるシモネッタの美しさが伝わってきます。

ギャラリーを出て、付近を散策。「丸紅」ビルの横に、一橋徳川家屋敷跡の碑がありました。一橋徳川家は、清水家、田安家と並び徳川御三卿(*1)で皇居(江戸城)に近い場所に位置している。

その先には「一ツ橋」(*2)がある。名の由来は、平川(現・日本橋川)に架かる一ツ橋に由来、また、古くは丸木を一本渡した橋だったためとも言われている。(交差点の表示は一橋河岸となっている)

橋のそばには「一橋門跡」の碑があり、一橋徳川家は、一橋門の内側にあり敷地は広大でこの一角の他に気象庁・大手町合同庁舎付近まであり、御三卿の中でも優遇され最後の将軍である徳川慶喜を輩出している。


    
*1)徳川将軍の分家・御三卿、御三家は紀伊、水戸、尾張となっている。

*2)現在の橋は、関東大震災の復興橋梁(大正14年に架けられる)の一つで、主桁と橋脚・橋台を剛結構造としたものである。都内のラーメン橋では唯一当時の姿を留めている。ラーメンは『骨組み』を意味するドイツ語のRahmenに由来する。

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