爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座8 縄文の「食」をめぐる冒険 ~世界文化遺産が物語る北の縄文生活~ を聞いて

2021-10-26 12:23:22 | 日記

ある博物館に行ったら、縄文時代の食事を展示してあったが、現在の食事と比較し興味をそそられた。中世の食事については古文書等に残っているが縄文時代となると遺跡からの出土物からの推測、想像でしかない。
今回は、最近、世界文化遺産に認定された北海道・北東北の遺跡を中心に、1992年より三内丸山遺跡担当し、現在、青森県世界文化遺産登録専門監の岡田康博氏の講演である。

Part 1   調理道具は縄文土器と黒曜石 ~①縄文キッチン~

今回、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の17の遺跡が認定されました。縄文時代は今から約15000年前~2400年前の1万年以上続きました、氷河期から温暖化が始まり、針葉樹から落葉広葉樹に、魚介類が豊富に生息できる環境となった。遊動から定住となり、定住を支えた生業は、西アジアでは牧畜・農耕、縄文遺跡群では、狩猟・漁撈・採集であった。
生物多様性に富んだ森林資源のブナ林が海岸線まで見られた。(北海道・北東北)また、サケ・マスの資源量が多く、上手く利用した。海流が東北沖で暖流と寒流が交差し、縄文時代における地域文化圏があった。土器を見ればわかる。

昔に比べてカラーになったが、カラー化の技術ではなく、いろんな情報が分かってきた。
  ・集落の家の数が多く、丸木舟、犬、隣の集落が書いてある等々。

〇縄文時代(文化)の特徴
「採集・狩猟・文化で定住を実現」
  ①土器と弓矢の登場
 ②村の出現(家・墓・ゴミ捨て場)
 ③持続的な資源利用技術の開発      
 ④大規模記念物(環状列石、盛り土、大型掘立柱建物など)の構築
 ⑤精神世界の発達
 ⑥広域での交流、交易

〇土器は人々の生活を変えた
 ・縄文時代になって土器が登場

  ⇒環境の変化がもたらした森林資源の利用
 ・土器は煮沸に使用    
   ⇒利用できる自然の恵みが拡大
      *固い物が食べられる、あく抜き処理
 ・衛生環境の改善
    煮沸により衛生的に 
  ⇒生活の安定に貢献
      *土器は偶然の発見ではなく初めから目的を持って作られた

〇最古の土器は青森県
 ・石器を作る材料(原材料)があった
 ・川があった・・・サケが遡上する川だと考えられる 
  まだ竪穴住居なかった、本格的な定住ではなかった。 
  考古学的には土器は定住の条件と考えられている、土器は移動には適さない。
〇土器の起源                                                          
 ・「自生説」と「伝播説」  
 ・古い段階の土器は、本州北半と九州北部、日本列島の両端
 ・自生説では日本列島南北に起源がある多元説となるが・・・
 ・沿海州などでも古い土器は見つかっている。
   *土器の使い分け
               大きいのは----貯蔵用
        小さいは----煮炊き用
 土器は、煮炊き用煮沸として生活に重要な容器でこれを持つことにより縄文時代は    長く続いてきた。
〇良質な黒曜石が持ち込まれた
 一方、調理するとき鋭く切れる利器が必要になります。そうした石器の黒曜石は北海    道が原産地で活発な物流があり、津軽海峡を越えてもたらされた。その他にも新潟    県のヒスイ、石斧の石材が海峡を利用していた。

Part 2 栽培する縄文人と生活環境の変化 ~②縄文フード~

〇縄文人の食卓を復元する
  ・遺跡に遺されている情報が少なく偏りがある
   ⇒有機質の情報は分解され残りにくい
  ⇒目に付く土器や石器が中心でミクロの情報を得るには相当の努力と覚悟が必要
 ・これまで考古学では当時の生活そのものを研究対象としてこなかった。
   ⇒縄文研究は歴史ではなく家庭科、生活科の分野である
〇食材
 ①ムラの中のゴミ捨て場や貝塚などに残された、食物残滓を分析する。
   ⇒シカ、イノシシ、ノウサギ、ムササビ、カモなどの鳥類や海辺では魚介類も豊        富。  
   ⇒クリの果皮やクルミの殻なども多く出土。しかし、有機質のものは分解されや        すい。

   *利用されない物が捨てられる。
〇貝塚は情報の宝庫
 貝塚には、道具(土器や石器)、食べ物の残滓(骨や貝殻、魚の鱗、木の実の殻)、    火を焚いた後に生   じた灰や炭が堆積している。
   *縄文人には単なるゴミ捨て場だが情報の宝庫である。
 

〇土は貴重な情報源
 フルイにかけて顕微鏡で種類を特定する。                                    
〇小さい貴重な情報
 マグソコガネ、ショウジョウバエのサナギ、クリの花粉化石など。
   *昆虫で暖かい寒い、きれいな所など調べられる。
〇三内丸山遺跡で出土した魚骨
   *フルイにかけて集めると、魚がたくさん見つけられる。ヒラメを見ると三枚に         おろしていたのではと推測される。何を食べたのか、どう調理したか想像でき         る。シャコ、イカ、タコも縄文人は好きだった。 

〇出土した骨や貝   
 ネズミザメ、ホホジロザメ、アカエイ、マイワシ、ニシン、カタクチイワシ、アナ    ゴ、サケ、コイ、マ    ダラ、サヨリ、メバル、ホッケ、アイナメ、カジカ、ス    ズキ、いなだ、マアジ、サバ、カツオ、マグ    ロ、サワラ、ヒラメ、カレイ、カ    ワハギ、フグ     
 ⇒現在も陸奥湾内で捕れる魚がほとんど50種類以上の魚類、タコ・イカ類、シャ        コ・カニ類も出土。
   *ハマグリが出てくると暖かい所と示している、北海道でもハマグリが発見され          た。  
   *アジ・サバなど、今も食べられている物も縄文では食べられていた。いろんな         魚を捕っている。魚も生息している所がそれぞれ違う、深さも違う海の様子を         陸地と同じように知っていたのでは。フグも食べていた。

〇魚の大きさ
 縄文人は、今日食べている魚より大きい物を食べていたのでは、マダイは1mクラス    の物を食べていたのでは、やはりマダイも三枚おろしで食べていたのでは。
〇魚類の組成の違い
    *内陸の集落と海側では、違いが見えてきた。物流があるので違ったものを食          べていた。
②湿地などに残された可食植物の種子や花粉化石などを分析する。
 ⇒クリやクルミ、トチなどが多く、キイチゴ、サルナシ、ヤマグワ、ヤマブドウ、ニ      ワトコなども出土。ドングリ類はほとんど出土しない。
    *クリは、たくさん出ている。炭化したクリは残りやすい。割った跡が見られる。
 

ふるいにかけて見つかった種にヒョウタンのタネもあった。ヒョウタンは、亜熱帯に生息。
当時は暖かった。ヒョウタンは、人間が管理しないと成長しない植物のため、植物の管理をしていたのでは。その他、ヤマブトウ、キイチゴなど森の恵みを利用したのがわかってきた。教科書にはドングリをたくさん食べたと書いてあるが、見つかるのはクリに関する情報が多い。三内丸山は、ブナ、ドングリ、クリが急に増える。本州から持ち込んだと思われる、クリは食料の安定に貢献した。縄文里山ができていく。  

③土製品を観察する
 ⇒イノシシ型土製品やキノコ型製品、クルミ型土製品が出土。
  *キノコ型には数種類のパターンがあり、図鑑的という説もある。自然に対する思        いもある、東北の縄文の特徴でもある。

④縄文人の歯や骨を分析する
 ⇒骨に含まれる、コラーゲン分析によると摂取している食料の8割が植物性。
  *森が支えた
〇炭素・窒素安定同位体分析    
 人骨から抽出したタンパク質(コラーゲン)、土器に付着した炭化物の炭素と窒素の    安定同位比を測定し、当時の人々の食性を推定。
 ・人骨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・食の傾向
 ・土器付着炭化物・・・・・・調理された食物 
  *魚を煮た手がかり
縄文時代は、米や雑穀はほとんど食べられていない、クリやトチが食べられている。北海道を中心として動物性タンパク質が主要な位置を占めていた所がある。(オットセイ、イルカ)土器付着炭化物をみてもヒエやアワは食べられていない、こういった物があるのはまちがいないが積極的に利用することはなかった。
⑤出土した食品を分析する
 ⇒縄文ハンバーグとクッキーが出土しているが、食材がそのまま口に入るということ    ではない。
  *さまざまな植物性、動物性タンパク質があった

 〇マメ、ヒエの検出

  最近、注目されているのがマメ、エダマメ、野生のマメ類、食をささえる食材であ     った。野生のヒエ(イヌビエ)が大量に出てくる、主たる食料としてはシフトしな     かった。イヌビエが将来的にはヒエに変わっていたかもしれない。  

Part 3 縄文人の食卓とニワトコの謎 ~③縄文ダイニング~  

縄文人の食事風景を考えてみます。土器から調理方法が推定できる、基本的には「煮る」や「煮込む」で焼くとかはあまりされていない可能性がある、火を受けた骨は少ない。焼くという調理の仕方は、うま味、脂肪分が落ちてしまうので決して効率的ではなかった。他に「蒸す」が基本であろう。 
シチューや寄せ鍋がそんなイメージでしょうか。

味付けはどうしたか?塩・油・キハダ・サンショウなどのタネが出てきますので調味料として使えるでしょう。味噌、醤油はその証拠はない、縄文時代には無かっただろう。塩は、海産物で手に入る、塩を作る土器が遺跡から出てきている、状況証拠から考えられる。食べられなかったのは甘味である。
〇いろんな道具類
  石器を見ると加工に使われた石器が見られる。デンプン粒が残存していることから    植物加工具の可能性大。地下に保存できる土器、切れる石器、石匙(セキシ)は、    イネ科植物特有の使用痕が見られる。土器を炉の中央に置いて、まわりで火をた      く、火を受けた所は赤く色が変わり、上の方はススになる。40~50cmの土器は、    水を入れると40分位で沸騰する、しかし壊れやすく、土器がたくさん見つかるのは    耐久性に問題があった。
  石器は、デンプンの粒子など残されているが、木の実のたぐいをすりつぶす、たた    くなどの 道具あった。

      ・石皿・・・・いまのマナ板
        ・手に持った丸石は・・・・タタキ石、スリ石

〇その他の石器

北海道の石器では半円状扁平打製石器、半円状の石器ですが、これはデンプンを取り出すために使われたかのうせいもある。利器は、ガラスと同じ鋭い、付着している物を調べるとイネ科の植物を処理するために使われた。今で言うカマの仲間である。こうした石器を何に使われたか調べると縄文の食のイメージが広がる。
イメージとして総合的に見ると、主流は鍋料理?が非常に効率的、合理的である。主食という考え方は無く、縄文人は季節に応じて手に入れられるものを食べていた。春・秋には森の恵みが豊富で、夏になると海や川など水産資源、魚介類を利用し始める、そうした事により一年をそこで暮らすことが出来る。冬は狩りのシーズン、四季折々の物を加工していた。四季の魚の骨が遺跡から出てくる、一年間そこで暮らしていた証拠である。遺跡でも鍋で使うオタマの様な物が見つかる。スプーンの様な物も見つかる、汁のような料理もあったのでは。

携帯食としてクリ、干し肉が食べられた、三内丸山では15cmぐらいの袋が出てきて、その中からクルミの殻が出てきている。縄文人は、そういう物を入れて森に出かけていた。動物を捕る、森の恵みを集めてくる際の携帯食と考えられている。

砂糖的な甘味はなかったが、山ブドウのような酸味ではなかったか、ハチミツは考えられるが証拠はない。秋はサケ、いろんな食べ方をした、縄文を支えたのはサケだと言われたりした。しかし縄文遺跡からサケの骨がたくさん見つかる事は非常に少なかった。サケは、残りずらい魚で、捨てる所がない魚のため、土壌の分析で見つかるようになった。サケの利用には大きな労働力を必要とする、そのため、この辺は大きな集落、ネットワークがあったのだろう、早く出来上がっていたと思われる。調理の痕跡で珍しいのは、フグ、当然毒があるが石器で解体した時の痕が残されている。
〇食事の作法・・・食べ方
  煮炊きした食材は、寄せ鍋の雰囲気だとすると小盛するような銘々皿は見つかって    ない。個々の食器が明確にあるわけではない。オタマやスプーン状の木製品が見つ    かっている。


〇食事はいろんな意味がある
  縄文時代は、家族の時代と言われている、竪穴住居を見ると、三内丸山では、大き    さがあまり変わらない、家族が一つのまとまり単位であった。縄文人の平均寿命か    ら言うと三世代同居は珍しかったと思う。夫婦親子が一つのまとまり、そういう時    間は、単なる栄養補給ではなく、家族の団欒、お互いの絆を強める、食事の持つ意    味は、協同に反映されている。

〇酒を飲んだか縄文人
  遺跡を調査すると、大量にタネが見つかる場所がある。これはニワトコと言う植物    のタネ、初夏に赤い実を付けるが食べられない。新芽を食べる事はあっても大量に    食べることはなかったが大量に見つかりそれと一緒にショウジョウバエのサナギが    出てくる。タネもヤマブドウ、キイチゴ、サルナシなどいろんな種類がブレンドさ    れている、ショウジョウバエのサナギがあることは発酵物であり、諸説ある一つの    選択しとして、お酒を造った可能性はないのか議論されている。

※ニワトコ

人間が関わった人為的生態系が、長時間続いていたが、自然に依存していたわけでなく自分達でさまざまな働きかけをしていることが分かってきた。そうした生活のバランスが出来なくなった事もある。三内丸山は大きい集落だが自然とのバランスが寒冷化によりズレてしまったことにより、小さく分散した集落となった。

【まとめ】
①基本は植物食である。
 ⇒季節によって変化、旬な食材を利用加工して保存食もあり、地産地消の原点
②食材が加工される場合がある。
③基本的には「煮る」である。
④資源(食材)を徹底利用するのでゴミは少ないはず。骨のズイまで利用している。
⑤食の安心安全は生活の基本であり、食を通してコミュニケーションを図り、互いの結    び付きを確認し、より一層深める格好の機会でもあった。

食は単なる栄養補給でなく人間が社会で生きていく情報、経験、コミニュ形成をつくる事が調査でわかってきた。


土器は、縄文時代になって登場したとのこと、縄文人の発明もしくは使われてきた土器は、生活そのもの、定住化を促進し、細かい所では、狩猟採集から食料の保存、加工、調理、食器へと発展した。土器の起源も興味のある所だが、粘土質の土壌が火によって固まったのか?
いずれにしろ、縄文人が自然との繋がりを持ち、四季折々の植物や動物を食べ暮らしてきた、人為的な生態系を保ことにより縄文時代が長く続いてきた。単なる生きていくための食のみでなく、今日でも考えさせる内容であった。

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講演「日本史の法則」講師:東京大学資料編纂所教授 本郷和人氏 ・・・感想

2021-10-19 18:38:02 | 日記

本講演は、河出新書より「日本史の法則」で出版されているようで、本郷氏も東京大学での研究も40年となり、日本史の歴史の特徴を探っているとのこと。
第1回の今回は「地理と歴史の流れ」のテーマで講演された、
本郷氏は、日本史の法則を6つあげた。
①日本は一つではない
②歴史も一つではない
③日本の歴史はぬるい
④信じる者は救われない
⑤日本では地位より人、血より家
⑥日本史の自由と平等

本講演では、「日本は一つではない」「歴史も一つではない」「日本の歴史はぬるい」の3つの内容で話された。特に「日本史はぬるい、変わる時は外圧」では、外国と日本を比較した。

🔳日本史はぬるい、変わる時は外圧
〇虐殺がない、戦争が長引かない
 ドイツ30年戦争、英仏100年戦争とか、日本では応仁の大乱で11年、焼け野原になった割に、仏像もお経も残つ      ている。
〇藤原京、平城京、平安京には城壁がなかった、遺骨にも戦いのあとがないらしい、欧州や中国では城壁都市であ     った。
〇平安京ができると、藤原氏が台頭→天皇は子どもの方が良い。(成人男子の天皇否定)
 軍事面から子ども、女子はだめになった。→平安時代は必要なかった
〇平安時代、遣唐使の廃止し、うちむきな日本。→国風文化花盛り。女流文学が花ひらく。
   外国からの刺激がない、ひらがな・カタカナも生まれた。
〇鎌倉北条氏の例外、血塗られた政争、
  北条氏は三位にはならなかった、武士を大事に・・・
  モンゴルの来襲と貨幣経済に・・・→社会を変える

近現代史になると多くの人が亡くなりました。スターリンのシベリア送り、ロシア革命、毛沢東の大躍進運動、文化大革命、カンボジアのクメールルージュの虐殺。
日本においても、日露戦争、第二次世界大戦でとらえ方が変わりましたが、それは明治時代から変わりました。

🔳日本は西高東低・・・固関
〇愛発、不破、鈴鹿の東が「関東」、関東はあっても「関西」はない
   悪いのは東から来る・・・
   壬申の乱は、不破の関周辺に拠点を置いた大海人が、関東で兵を集めて勝利した。
〇坂上田村麻呂は、蝦夷征伐→征伐であってもその後の統治がない。
〇織田信長の天下布武の「天下」、池上裕子氏によると「天下=京都」。もう少し広くても機内。
〇伊達政宗の東北制覇→会津を占拠したに過ぎない 会津・白川・米沢
 秀吉と奥州仕置→秀吉は会津までしか来ない
〇東国で国作りをした家康→米作りに「ほぼ均一な税」の活路を見出す。
    内需拡大路線への転換→鎖国


私達は、歴史を流れとして教えられてきました、その時々の分岐はなかったのか不思議なところです、別角度での検証も。
日本は、島国で鎖国等もあり独自の文化を形成してきたが、しかし文化や制度等は中国・朝鮮から流入してきたもので、無から有を作り上げたのではなく、あったものを改良・改革するのは得意である。筋が通ってないと言うか、理念が定まらない日本と言うか日本史から理解できるのかもしれない。
本郷氏は「日本史はぬるい」との言葉は言い当てているなと思った、政権が変わっても天皇制が存続している、今回の自民党総裁選挙においても敗れても要職につくなど、日本固有のものなのか面白い。

歴史に興味を持つとき、歴史の縦軸とともに地理の横軸を念頭に入れていかなければならないと考えさせられた。

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小説「南部九戸城落城」を読んで

2021-10-10 16:29:57 | 日記

過日、2021.9.20UPした、オンライン講座7「九戸政実、覇王・秀吉に挑戦した男」に関わる小説がありましたので紹介します。
「南部九戸城落城」(毎日新聞社)著者・渡辺喜恵子氏は、オンライン講座7の内容と合致し興味ある内容であった。

渡辺喜恵子氏は、妻の遠縁に当たる方で、「馬淵川」(直木賞受賞)、「啄木の妻」を執筆しているが、代表作の「馬淵川」は、南部藩の御用商人であった池田屋万兵衛のもとに後妻に入ったさと子という武士の娘が,96歳で亡くなるまでの,夫である万兵衛や子ども,孫,曾孫一族四代にわたる波乱万丈の生活を描いた物語であるが、江戸末期から大正時代と時代背景が異なるが、地域は同じである。

さて、こちらの(南部九戸城落城)方は、女性の視点から、艶やかで、しかしもイキイキと、九戸の乱周辺の武家の女性と庶民を描いていて、男性を通しての歴史と違ってとても新鮮だった。
壮絶な最期の中にも、武士から土民までがそれぞれの思いで、九戸の乱を生き抜こうとしていたのが、伝わってくる作品である。

「九戸の乱」や「九戸政実」に関わる、小説や論文については他にも出ていますので、感心のある方はお読みになっては。

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講座1・2 ~「白川郷」「五箇山」昔と今をひも解く講座~を聞いて(2)

2021-10-03 11:15:50 | 日記

講座の方は、第1回目と同様緊急事態宣言発令中(9月29日現在)のためリモートでの開催であった。
今回の五箇山の講座は、白川郷に続く2回目の講座になります。同じ庄川沿いの合掌造りの違いなど興味のあるところである。
いままで、白川郷が岐阜県で五箇山が富山県であるイメージがなかった、あるときは岐阜県で、あるときは富山県でとの感じであったが今回の講座で明確になった。 同じ庄川流域にありますが、五箇山は越中富山の文化圏、白川郷は飛騨高山の文化圏に入ります。 ... 五箇山は、小規模ではありますが、より素朴な山村の原風景をみることができます。
五箇山のある富山県南砺市は、平成の合併により南砺市となったが、私が学生時代は、砺波平野の散居村やチューリップの生産量日本一で有名であった。散居村のような平地の場所もあるが、五箇山の方は、山地、高地に囲まれ起伏の激しい地形もある。気候は、日本海側であるため、日照時間が少なく曇天が多い。冬季は、降水量・降雪量が多く、五箇山方面は岐阜県白川郷と同じで、特別豪雪地帯に指定されている。

【講座2】「世界遺産相倉に住む」
講師は、五箇山で生まれ育った 池端 滋 氏である。池端氏は、現在、民宿「勇助」を経営している。写真家でもある池端氏は、多くの写真集を出版している。

1.五箇山の歴史や合掌造りについて                                                 
五箇山の歴史
〇縄文中期とみられる土器が五箇山の各地で出土する、約4000年前から生活を営んでいたとみら れる。
〇鳥獣、川魚、山菜、果実等山間部の方が平地より生活に適していたと思われる。
〇中世、人形山(1726m)は山岳信仰の山であり、また平家落人伝説も伝えられている。
〇1468年 蓮如上人が五ヶ山、白川郷を通り京都に着く。赤尾の道宗の働きかけもあり、本願寺      の影響が五ヶ山全域に広がる。
〇 1513年 実如上人の裏書に「五ヶ山」の文字が初めてみられる。
〇 1552年 古文書に「図書了観 あいのくら太郎次郎」の名前が初見する。
〇 1585年 加賀藩前田家の領地となる。同時に流刑地ともなる。 
        加賀藩時代の主な産業は、養蚕、和紙、煙硝
〇 1889年(明治22年)町村制の発令で五ヶ山は平村、上平村、利賀村となる。      
            昭和に入り五ヶ山を五箇山に変えて使う。
〇 1927年(昭和2年)城端ー下梨間道路開通304号線
〇 1930年(昭和5年)祖山ダム完成 平村に電灯がつく
              ※20Wが無料に、いまだに続いているとのこと。
〇 1952年  城端ー下梨間にバス開通
〇 1984年 五箇山トンネル開通   冬季の車での通行が可能にとなる
流刑地として
・五箇山地方は秘境であり、金沢からは15里60キロと距離も近く、管理しやすい場所であった。
・政治犯として加賀騒動の主犯:大槻伝蔵ら多くの武士らが流されている。
・遊女らもながされていて、おさよ伝説も残っている。
煙硝
・織田信長と本願寺との石山合戦(1570~1580)には五ヶ山の煙硝が送られた。
・加賀藩は、煙硝を税として毎年1260貫(4200斤)を納めさせた。
・煙硝の製造は五ヶ山に多くの富をもたらした。
※「煙硝」や「焔硝」は硫黄や炭末を加えた黒色火薬を指すが、加賀藩では「塩硝」と呼ばれ 五 箇山産の硝石を意味するとされる 。

合掌造りの歴史 合掌造りは平屋建て
・煙硝の製造で多くの富が生まれ、、400年ほど前に加賀藩の宮大工が合掌造りの一階部分を造り、 住民がその上に屋根部分を造った。
・一階を生活に、土間で和紙、二三層(2,3階)部分で蚕を飼った。
・合掌小屋から合掌造りへ少しずつ変化していく。
・合掌造りは五ヶ山から白川郷に伝わる。
合掌造りの保存
1960年 (昭和35年)国の文化財に
          岩瀬家 村上家 羽馬家、を指定。
1966年 (昭和41年)相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り保存内定・・・集落保存
1970年 (昭和45年)  
                    相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り集落 ー国史跡指定
1994年       相倉合掌造り集落 菅沼合掌造り集落 ー伝建地区指定
1995年 (平成7年)白川郷 五箇山の合掌造り集落 世界文化遺産に登録

※手前の合掌造りの屋根が地面まで伸びているが、これが原始合掌造りか?

合掌造りはエコ住宅
・囲炉裏の火は食事の煮炊き、暖を取り、囲炉裏を囲んで団欒。
・茶釜のお茶で沢庵つまみに茶会も楽しいです。                                
・囲炉裏の煙のすすは木材をいぶし防腐剤の役目をはたし、わら縄より強くなります。
・15~20年で茅葺の屋根は葺き替えますが役目を終えた古茅は畑に敷き肥料や防虫剤の役目をはたします。

2.世界遺産相倉の一年

相倉合掌造り集落は
相倉集落は生活している事が一番重要なことです。15軒に48人が住んでいます、内13人が子どです、幼稚園、小中高、が歩いて15~30分、スクールバスで15分範囲にあります診療所、商店が車で5分、スーパーは20分です住民は助け合い、見守られ、大家族のようです相倉集落は自慢であり誇りです。

3.昭和30年~40年代の五箇山

4.世界遺産相倉の四季


相倉合掌造り集落に住んでいて思う事
相倉は、歴史 自然 生活 がバランスよく成り立っている。
毎日、自然と向き合って生活していると田舎にあって都市にないものが見えてくる。そういうものを伝えていけたらとおもう。
合掌造り家屋にすんでいると先人の知恵や能力を、先人達の豊かな生活を感じる。

                                                                    ♢終わり♢

合掌造りについて、それぞれ違う地域での説明を2回お聞きしました。庄川沿いに集落として保存されている事は、珍しいのではないでしょうか。
両地域とも養蚕、和紙、煙硝の産業によりあのような形態の住居に発展したのでしょう。
白川郷は、高山藩から幕府の天領地、五箇山は、加賀藩の統治下ということで違いがあるかと思い
調べたら下記の傾向があるようです。

白川郷と五箇山の違い?
〇はっきりしているのは、白川郷の方が規模が大きく観光化されている。
〇白川郷では、屋根の斜面側が入り口、五箇山では玄関が正面にある家屋が多いのが特徴。
〇建築様式にも違いが見られ、湿気が多く重たい雪が降る五箇山では、白川郷よりも傾斜が少し急 で、雪を落としやすい屋根となっているようです。
〇屋根の茅葺きの端が、少し丸く刈られているのが五箇山の特徴。白川郷では、きっちり揃えて作 られています。
〇加賀藩の手厚い保護を受けた五箇山は、重厚感あふれる豪華な内装が特徴です。鍋の高さを自在 に調節できる「自在鍵(じざいかぎ)」がある囲炉裏というのも、五箇山ならではの特徴。

日本人の心に刻まれた懐かしの原風景、なお暮らしの中に息づ伝統がここに残っています。五箇山は、日本でも特異な地域でもあり、いつか訪れてみたいですね。

画像については
            ・講演の池端滋氏のレジュメの写真
            ・富山県南砺市の観光パンフレット写真           を利用いたしました。

【その他のPhoto】

世の中、確かに便利になりました。人間、便利になると、さらにもっと便利にを求めます。

自分の生活を考えると、昔のような生活に戻れるか・・・。懐かしさを感じることは、良い時代だったのでしょう。

どこからか「こきりこ節」が聞こえてきそうです・・・

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