爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「豊かな安行の自然と歴史遺産をめぐる紅葉散歩」駅からハイキング

2018-11-25 11:16:21 | 日記

JR東川口駅の受付場所は、多くの人でいっぱいである。

このコースは、なんといっても紅葉である。私もいい写真が撮れるか第一ポイントの西光院をめざし出発する。
住宅街を抜けて到着する、駅からすると高台に位置する。七福神の一つ弁財天が朱色の六角堂に祀られている。また、「寛永二十年銘二十一仏庚申塔」があった。板碑上の物で県内では最古の物とのことである。

西光院を出て、戸塚中台公園、戸塚下台公園の公園を抜ける、この辺の公園は森林浴ができる。西福寺の三重塔が見えてくる。やはり、このお寺も高台に位置する。

空海が国家鎮護のために創建と伝えられる。遠くから見えた三重塔は、三代将軍家光の長女千代姫が奉建したもので高さ約23mあり県下では一番高い木造建築物、棟札によると元禄6年(1693)かつては櫓を組んで塔の上まで参詣者に登らせた時もあったようです。初層には十二支の動物が彫られています。
正面の観音堂には、四国、坂東、秩父札所の100体の観音像が安置され、この堂に参詣すれば100カ所観音霊場を参詣したことと同じ功徳があるとされている。

西福寺から東京外環自動車道を横切り「赤山城跡」を歩く、関東郡代伊奈氏の知行地の陣屋で、現在は堀跡などが残り一部公園として整備されている、遊歩道沿いには竹林や植木畑が並んでいる。実際の赤山城はもっと広く本丸・二の丸は外環道反対側だった。

赤山城跡の遊歩道から続く道の左側に山王公園、赤山日枝神社があった。築山の上に社殿が前後に並んでいる、この築山は赤山城の空堀の残土で築かれと思われるが古くは山王神社と言い後に東京の日枝神社の分社となった、伊奈氏の守り神でもある。境内には庚申塔などがある。

さらに進み、安行地区に入る。江戸時代から続く植木の街で「日本三大植木産地}の一つでもある、桜や植栽の素晴らしいお寺もあります。この辺は、前に友人のY君に案内され「花と緑の振興センター」「興禅院」については訪れたことがある。

振興センターから「小林もみじ園」に行く、「もみじ」に主力をおいた植木屋さんである、もみじの種類も多いようで他の植木屋さんよりも紅葉が楽しめる。

駅からハイキングの最終ポイントは、1546年開創の曹洞宗「興禅院」である。参道からイチョウ・紅葉が楽しめる、参道脇の「野佛の小径」も趣がある。墓所の中にある「抱かれ地蔵」は、前にTV「ちい散歩」でも放映された珍しいお地蔵です。お寺の裏手には、お花が植えられていることでも有名、さらに一段低い所には十三仏、弁財天が祀られている。

歩行距離約9Kmのコース設定であるが、チョット疲れたかな。写真の方と言えばプロ設定で撮影したがこれもチョットいまいちだった。

【その他のPhoto】

 

 

 

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本郷和人教授の「上皇の歴史」講演

2018-11-19 16:22:57 | 日記

「日本の歴史を紐解く」のシリーズ2回目で、今回は「上皇の歴史」講演である。
今上天皇の生前退位も5月に決まり、的を得た講演でもある。過去に「上皇」という史実もあり、その歴史をさぐる・・・
世界各国の歴史を見ると、位を後継者に譲った王は政治的な権力を失うのが普通だが、日本では皇位を降りても依然として大きな力を持ってきた、そのシステムがどういうものかを明らかにし日本の特徴を考える。
ヨーロッパでは皇室が25ぐらいあるが王様に地位がついてくる、退位をすると「ただの人」であるが。日本では「上皇」となるがこの皇位は英訳できない。一般的には地位が上がると権限も上がるが・・・?
生前譲位は、持統・元正・聖武天皇などから行われるようになったが当初は家族制度が成熟していないので兄弟継承いわゆる大兄制の部分があった。のちに世襲制となっていくことになり「日本は地位より家」の特徴となた。持統天皇頃から「天皇家」を意識するようになり、家が何よりも大きい存在と長く続いた。
明治期に入り憲法並みに重い皇室典範ができ生前退位を認めないとされたが、戦後からは象徴天皇となり新しい形となってくるのでは。

1時間半の講演、完全理解とは言えないが・・・。まとめにならないまとめを。

表が見えにくいが皇室は、神武天皇から今上天皇まで125代続いている。

日本の皇室は、世界最古の世襲制皇室である。

 

 

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「退職者の会」の文化祭

2018-11-18 06:58:30 | 日記

昨年から始めた文化祭も第2回となった。皆さん書道・絵画・写真・生け花・歌・朗読等々を出品・発表し・・・元気である。文化祭も女性の作品展示・発表の方が多い、男性は退職し消極的になる傾向か・・・
展示物や発表は、男性と女性では趣味等が違ってくるが、生き生き老後生活を送るため参考になる。

 

 

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早稲田~牛込柳町、漱石の足跡を巡る散歩

2018-11-17 17:01:31 | 日記

今月の「退職者の会:日帰り散歩」は、夏目漱石の足跡を巡り早稲田~牛込柳町を散歩する。今回のコースは7年前に散歩して以来の2度目のコースとのことであるが、今回は短縮パージョンで企画してくれた。私にとっては、この一帯は初めてのため楽しみなコースでもある。
東京メトロ「早稲田駅」で下車し、早稲田に来たからには早稲田大学にと大学に向かう。校内に入っても大学の敷地内という感じがしない、よく欧米では街と大学が一体化しているようで、日本の大学の多くが門と塀に囲まれているという閉鎖的なイメージはない。古くはこの地は低地で水田地帯であった。早稲田大学はこの地名をとったものである。早稲田大学は1882年(明治15年)に東京専門学校で開校し、1902年(明治35年)に早稲田大学に改称された。漱石は、明治25年から28年まで講師をつとめた。

早稲田大学を離れて「早稲田駅」からも鮮やかな鳥居が見えた「穴八幡宮」に向かう。変わっている神社名であるが、これは1641年に「宮守の庵」を造るため山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、以来、「穴八幡宮」と呼ばれている。その話から徳川幕府の庇護を受け、流鏑馬の行事が行われた。江戸庶民からも信仰を集め虫封じの祈祷は有名、漱石夫人・鏡子が漱石の虫封じにお参りした。冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる、ま
た、商売繁盛・金運アップにご利益があると言われている。
※一陽来復とは、冬が終わり春が来ること、新年がくること、。悪いことが続いた後、幸運に向かっていくこと。

穴八幡宮の隣にあるのが放生寺である。1641年に穴八幡宮の別当寺として神社の隣に創建され、神仏分離により独立した。神社と同じで「虫封じ」や「一陽来復」が授与できる。
また、大菩薩のお堂には、草履の絵馬がぶら下がっていました。腰痛平癒・健脚祈願に御利益があると評判のお寺でもあります。裏手には日本基督教団もあり神道、仏教、キリスト教がある不思議な一角でもあった。

放生寺から早稲田駅の方向に戻り途中「夏目坂」に進む。その名のとおり夏目漱石の父でこのあたりの名主であった「夏目小兵衛直克」が、この坂に自分の姓をつけて呼んでいたと漱石の随筆に書かれていたとのことである。坂道を上り「誓閑寺」に入る、漱石にとって幼いころの誓閑寺の鐘の音が思い出のようで、随筆「硝子戸の中」で誓閑寺のカンカン鳴る鐘の音を。「いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした」と書いており、幹事のMさんの説明では夏目家は子どもが多く漱石は里子に出されるなど不遇な面があったと。なお、梵鐘は1682年に近在の住民の寄進による区内最古の物である。
夏目漱石誕生の地は分かりにくく、夏目坂の外食チェーン店の前にありました。誕生の石碑・解説板・句碑が猫の額のようなところにありました、夏目家も買い求めたろうと思われる、隣の老舗の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が決闘に向かう前に一杯やったというお店との事。

この後、来迎寺と感通寺に立ち寄る。
来迎寺は、山門を入って左手に「庚申塔」がありました。他の庚申塔には、青面金剛神が刻まれているが、ここのは無く三猿と文字が刻まれていました。
感通寺は、松平越後守の下屋敷の跡だと言われています。境内にはいろんなものがあり、人類平和を願う「さざれ石」、毘沙門天堂、その脇には「竹駒稲荷尊」のお堂、昭和20年の空襲で亡くなられた町内300人あまりの慰霊観音像がありました。

漱石の足跡を巡る散歩も最後は、終焉の地である漱石山房記念館です。開館1周年の新しい記念館である。
夏目漱石は、晩年の9年間を「漱石山房」と呼ばれた早稲田南町の家で暮らしました。家は、和洋折衷でベランダがあり、庭には熱帯性の「芭蕉の木」があったりモダンな家だったようです。漱石は教職を退職し東京朝日新聞に専属作家として勤め、この地にて「三四郎」「こゝろ」「道草」「彼岸過迄」など数々の名作を世に送り出しました。漱石は、多くの文人らに慕われ週1回「木曜会」と呼ばれる文学サロンが客間で開かれました、漱石の人間味溢れる人柄があらわれています。
訪れた時は、漱石の書斎の再現展示、作品、書簡、スケッチ等が展示されていました。
展示パネルの中で、感銘を受けた内容があったので紹介します。
「私の個人主義」のテーマで大正3年学習院講演
『「個人主義」は「国家主義」に優先するものだとし、その「個人主義」とは自分中心の考え方ではなく、自己の個性の発展と同時に他者の個性を尊重すること、自己の権利や金力を行使するならば付帯する義務や責任も全うすることで成立するものだと述べている、漱石晩年の心境がうかがえる講演である』
漱石の友人の展示パネルの中に私の妻の親戚筋にあたる「狩野享吉」が展示されているのには驚いた、漱石とは帝国大学時代からの友人で漱石の葬儀では友人代表で弔辞を読んだ。
1916年(大正5年)12月9日に49歳で生涯を閉じた、

この付近を歩いていると新宿区は、寺と坂が多いと感じる、新宿駅前から想像つかない新宿もあった。 

【その他のPhoto】

 

 

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JR「駅からハイキング」 デビュー

2018-11-06 11:43:37 | 日記

JR東日本が企画している駅からハイキングに初めて参加した。参加したのは大正大学の学生が考えたコースで「江戸から平成の歩み ~小さな秋みつけた~」(歩行距離約8Km/所要時間約3時間30分)である。

受付場所の巣鴨駅には長蛇の列である、旅行・ハイキングで面倒なのは効率的なコース設定であるが、面倒な事はJRがやってくれる。
受付にて参加登録(カード)コース地図等を受け取り出発である。

今回のコースは、個人・退職者の会で訪れた所が多く、関心のある場所は「大正大学」と「近藤勇の墓」である。一応、コース通り進むが中に入らない場所もあった。
六義園から、ほぼコース通りにと心がけハイキング一度来た所はカット、通過、寄り道をしながら進む。

妙義神社
駒込駅を通り過ぎ、通りに「妙義神社」の昇り旗が、これが無ければ通り過ぎる所である、路地を歩いて行くと住宅街に鳥居と階段があり上がると本殿があった。日本武尊が東征の際に陣営を設けたと言われ、その後、太田道灌が戦の前に祈願し勝利を収めたことから「勝負事のお守り」が人気があり、別名「戦勝の宮」と言われている。

西光院無量寺
前回、旧古河庭園を訪れたとき無量寺が気になり今回寄り道をしてみたが前を歩いていた方が右に曲がったのでついていくと手水と六地蔵があり突き当たりに墓石が並んでいたが本堂が見あたらない、どうやらお寺の裏手のようだ、「足止め不動」として有名、盗賊が不動明王像前で動けなかったことによるらしい。表に回るのをあきらめてコースに戻ることにする。

本郷通りの滝野川消防署の隣に「東京都北区防災センター(地震の科学館)」の建物があり立ち寄る、1階が展示ホール、地震・煙体験室、2階が応急救護体験室・大研修室となっており、もしもの際は、北区災害対策本部のバックアップ施設にもなっており、児童生徒、区民にとっては防災意識、行動の向上を図る施設でもある。

正寿山慈眼寺
勝林寺を探し染井霊園を歩いていたら間違って慈眼寺の前に。勝林寺は老中・田沼意次の墓石や関東最古の木彫釈迦如来像、慈眼寺は、境内には芥川龍之介、谷崎潤一郎の墓石があるようです。

いよいよコース後半に入り、「おばあちゃんの原宿」へ巣鴨地蔵通り商店街の人混みを掻き分け掻き分け前に進む。日曜日にこんなに混んでるとは思わなかった、本家の原宿以上ではないだろうか。

大正大学に入る、ちょうど学園祭の日で賑わっていた。学園祭の経験が無く、雰囲気だけでも味わいたい気持ちもあった。
大正大学は、天台、真言、浄土宗の仏教系の大学である。仏教系の大学は、駒沢大学(曹洞宗)、立正大学(日蓮宗)があるが、大正大学が出来た大正時代は単一宗派では認められず宗派の連合での設立になったようである。宗教系大学の学生は、おしなべて建学の精神が校風として一人一人に現れている感じを受けた。

もう一つ、このコースを選んだ理由は、「すがも鴨台観音堂(鴨台さざえ堂)」である。
なんとも不思議な建築物である。一見すると日本版「ピサの斜塔」である、この仏堂の堂内は螺旋状の回廊構造になっている、所々に仏像があり巡礼をしていくような構造となっている。堂内の上り下りが交差する事がない一方通行である。そのため螺旋構造や外観が「サザエ」似ていることから「サザエ堂」と呼ばれている。             ※仏教の礼法では、右繞三匝(うにょうさんぞう)と言い、右回り三回というのが本来の礼法で三匝堂という所もあるようだ。
この仏教建築は、江戸時代後期には見られたようです、江戸時代にこのような建造物があったことに驚きである。大正大学のサザエ堂は、平成25年度に建造された新しいものだが、古い木造のものはきしみ等があり趣がありそうです。

最後は、「近藤勇の墓」です。お墓はJR埼京線板橋駅の前にありました。
劣勢の幕府軍が再結集のため下総国流山(千葉県流山市)に集まっていたときに捕縛され板橋宿まで連行され板橋刑場で斬首された。墓所の一角に「永倉新八」の碑がある、永倉新八は新選組の組長であり武術師範であった。明治期以降も改名し剣術師範を務めるなどし大正4年に亡くなった。

小雨がちらつく中でのハイキングであったが良い散歩になった。庭園などゆっくり回ったなら一日がかりとなるコースである。

【その他の写真】

 

 

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