爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

映画「少年H」を鑑賞する

2013-12-20 23:19:41 | 日記
年金生活者の特権である、「金は無いけど時間は有る」で、市の外郭団体が主催する映画を鑑賞する。原作・妹尾河童、監督・降旗康男(ポッポヤ)、脚本・古沢良太(三丁目の夕日)の「少年H」である。戦争という流れのなかで、勇気・信念・愛を貫き続けた一家族の物語で、妹尾河童の自伝的長編小説で300万部以上のベストセラーの映画化である。クリスチャンで仕立屋の妹尾が外国人を相手にしている事や外国から「絵はがき」が送られてきただけで「特高」に拷問をうけるなど、当時は、社会の流れに乗らないと生きにくい。多くの国民が流れに従順に追従し、敗戦になると多くの国民がその流れに乗っていく。変わり身の早さは日本人の特性なのか、現在の状況も変わらないような気がする。人の愛と生き方を考えさせる映画であった。原作+監督+脚本がうまく絡み合った映画であり、子役の演技力も光っていた。
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「退職者の会」の忘年会

2013-12-14 23:32:07 | 日記
今日、忘年会があった、18名の参加で盛況であった。参加者は、執行委員だった者、分会代表者だった者であり、良き組合活動を経験した者だけが大いに盛り上がった。病気や年金の話の中にも、現在の右傾化を心配し、長生きをし、より良き日本を、担って行かなくてはと・・・皆、意気軒昂
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特定秘密法公布に思う

2013-12-13 21:19:11 | 日記
今日、特定秘密法が公布された。法案が国会で審議中に、亡くなった叔母が話してくれた事を思い出した。私の従姉妹が戦時中に海軍省で働いていた時に、叔母達に「もう日本は空母が一隻も無い」と言ったそうだ、叔母は叔母で高級料亭で働いてきた時、大将クラスが厳しい戦局で「お前は高いびきで寝ているんだろう」等の話を聞いた事を戦後に話していた。昔だったら特高警察沙汰になたのでは思ったが、この法案ではどなるのだろう・・・
労働組合の役員等をしていた時は、この種の法案には反対し日比谷野音・国会デモ等に参加してきたが、今回誘いの電話もあったが参加しなかった。組合活動していた頃は、一般の方の理解が無いなあと思った事もあったが退職すると言われる身になった。数十年前は、組合活動も充実した時もあったが、年々、組合加入が減少し、組合が弱体化し世の中右傾化してきた。 日本は、いつの時代も庶民は物言わぬ庶民であり、権力者は利用してきた。これから日本はどうなるのだろう・・・
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新宿御苑界隈

2013-12-08 15:26:45 | 日記
12月の定例の「日帰り散歩」は、新宿御苑を中心とした付近のお寺を散策。新宿御苑は、3つの出入り口があり、千駄ヶ谷駅より行ったが他の駅からも近いようである。もともと信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった所で、現在は、環境省の管理する公園である。御苑内は、「日本庭園」「イギリス風景式庭園」「フランス式整形庭園」を組み合わせ広々した公園である。樹木は1万本を超え、桜は1300本あまりで「日本さくらの名所100選」に選定され桜の時期には花見で賑わう。「玉藻池」を中心とする回遊式日本庭園は、内藤家下屋敷の「玉川園」の遺構で安永元年(1772年)に完成した。入園した時も、銀杏と紅葉が日に浴びて綺麗に映し出されていました。「コーヒーでも飲もうヨ」の声に建物の方に向かったが、そこは自販機のみで、近くの茶室「楽羽亭」へ、700円を支払い中に、立礼席ではあるが「お菓子・お茶で」優美な世界に。
帰りは、新宿口から出る事に早い食事を済まし、太宗寺に向かう高遠藩内藤氏の菩提寺で入り口には東京都指定有形文化財(彫刻)「銅造地蔵菩薩座像」が安置されている、これは江戸六地蔵の第3番目でもあるそうだ。
また、この寺には「閻魔像」「奪衣婆像」がある、この「奪衣婆像」の顔が凄いとの声に格子に顔をつけた。奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡るぼ亡者から衣類をはぎ取り罪の計量を計るとされる、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されました。次に行った正受院にも「奪衣婆像」があった、このお寺は、他には針供養・梵鐘が有名である。
梵鐘は、昭和17年に太平洋戦争による金属拠出した物がアメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有している事がわかり、昭和37年に返還され「平和の鐘」と呼ばれた。隣のお寺が成覚寺で、恋川春町(江戸中期戯作者・狂歌師)の墓と子供合埋碑がある 子供合埋碑は内藤新宿の旅籠で働く飯盛女たちの共同墓地であり、「子供」という名称は、店主が飯盛女たちを子供と呼んだためである。
有名な花園神社は、新宿の街の中心にあり、新宿総鎮守として江戸時代に内藤新宿が開かれて以来の街の守り神として祀られている。創建の由緒は不明であるが、現在地を拝領したときに、そこが多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。
現在では、敷地内に亡くなられた藤圭子の歌碑があった、芸能関係に理解が深く境内を芸能関係に提供しているようだ。藤圭子の歌碑は西向天神社にもあった。この西向天神社は、太田道潅の山吹の里伝説に登場する紅皿の墓があるとされている。
鷹狩りの最中に雨にあった道潅が農家の少女に蓑を求めたが、少女の「紅皿」は、庭に咲いていた山吹のの一枝を差し出しただけだった。
「七重八重、花は咲けれども山吹の、みのひとつだに無きぞ悲しき」
道潅が家臣から「実の」と「蓑」が懸けられていると教えられ、無学を恥じ和歌を勉強し、後に紅皿を江戸城に呼んで和歌の友としたそうです。道潅の亡き後、紅皿は尼となり死後その地に葬られたそうです。神社の入り口には、「山吹の坂」があった。
専福寺は、境内に浮世絵師「月岡芳年」の墓があった。月岡芳年は、最後の浮世絵師といわれた人で、浮世絵は生々しい血なまぐさい作風で有名になった浮世絵師であった。
この後、専念寺、厳島神社、永福寺を回り帰路の若松河田駅に、駅のそばには小笠原伯爵邸があった。小倉藩の藩主「小笠原長幹」の邸宅である。スパニッシュ様式の建築で地上2階、地下1階の建物であり、小笠原家は、礼法の宗家として有名で、建物中に事務所があり、教場にもなっている。常時公開はされておらず、レストランとしてオープンしているためレストラン利用者が施設見学できるようである。
我々はカフェの利用で見学出来ないと思っていたが、3時半から案内するとの事、タイミングが良く見学させて頂いた。この小笠原邸は、一時、用途を失って放置され取り壊しも検討されたようで、このような貴重な建造物は残してもらいたいものである。、戦後このような貴重な建造物が取り壊されものもあったのだろう残念である。
☆雑感☆ ー東京の坂道ー
何回かの日帰り散歩で友人と東京は坂道が多いと話題に、60歳を過ぎると足腰・高血圧等々で坂を見ただけで「ウンザリ」する。東京では文京区が坂が多いと言われているが坂の基準がわからない、東京の坂はやたらと名前がついている。芋洗い坂・饂飩坂・梯子坂・椎木坂・権太坂などほのぼのとした坂名で地域のコミニティー様子や繋がりの強さがわかる。地勢的には武蔵野台地から伸びる手の指状の台地により谷や台地を形成しており、この地形のなかで人々の営みがある。
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