爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

物流博物館 映画 「戦後の輸送革新」

2018-01-30 18:31:36 | 日記

以前、フォワーダーの会社に勤めていた関係で、物流には興味があり物流博物館にて古い記録映像をデジタルリマスター版の編集が完了し、上映するとの事で懐かしさもあり鑑賞した。
物流博物館は、公益財団法人ではあるが日本通運の企業博物館でもある。企業の記録・研修・PRの側面があるが、江戸時代から昭和までの物流の歩みを紹介している唯一の博物館でもある。
映画3本の上映である。
①荷役近代化への道  ~現場人はいかに闘ったか~
②トレーラーとのせかえ車 
③荷役はかわる ~通運のパレット作業~
映画の制作年度は、すべて戦後の昭和30,40年代の制作である。最初の映画は、昔の荷役の状況を映し出している、撮影者・編集は平原 直 氏でこの方は「日本の荷役近代化の父」と言われる方で私財を投じて昭和24年頃より荷役現場の撮影を行い、機械化の講演会や上映会をおこなってきた。重い木材等を頭上運搬する女性、樽物を回転させて移動する荷役、小さい頃石油のドラム缶を回転させて移動させる人をみて感心した思いがある。フォークリフトやローラーコンベアの導入の様子なども映し出されたが、フォークリフトは、そんなに新しい荷役機械ではない、昭和14年には日本でも開発されたが普及せず、戦後、進駐軍の使用により見直された。このように荷役の機械は早い時期に開発されたが、個別の荷役負担軽減に終わり、輸送の流れとして組み込まれずに定着しなかった。
輸送の場合いかに荷役負担を減らすことが課題で、当時は、輸送時間より荷役・待機時間の割合が大きく、2本目の映画は「トレーラー」と「のせかい車」による集配作業の効率化を取り上げている。輸送する際、輸送時間より荷役や待機時間の比率が高いことからトラックの動力部分(エンジン)と荷台を分離、切り離す方式や国鉄コンテナ、伝票整理方法の改善など人的負担の大きい荷役からの合理化・効率化への模索の状況などが紹介された。
3本目はパレット作業風景を紹介し、利用と関係する器具の開発なども紹介した。パレットは、ロット単位の貨物だけでなく混載貨物の効率化にも大きく寄与し、車輪付きスキッド等も開発された。
このようにフォークリフト、ローラーコンベア、パレットは荷役現場に革命的な変化をもたらした。
荷役は、一人荷役作業やリレー荷役から機械化やシステム化により発展進歩してきた、その反面、荷役を生業としてきた労働者は・・・。内容は違うが、マーロンブランドが主演した「波止場」の港湾荷役労働者を思い出してしまった。 

 

 

 

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雪景色

2018-01-23 13:08:12 | 日記

関東地方には4年ぶりの積雪とのニュース。
北海道や東北地方からみれば、「これぐらいの雪で!!」と言われそうだが。都会の雪は、日常生活に影響大である。

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江戸時代はすごい!! 講演会 「発掘された江戸上水」を聞いて

2018-01-22 09:45:43 | 日記

豊臣秀吉が関東地方を平定し、徳川家康が江戸に入府(1590年)する以前は、武蔵野台地の東端に位置する山村であったといわれている。それが急激な人口増となり飲み水はどうしていたのか玉川上水、神田上水の名はよく聞くが仕組みがわからない・・・

※雑談だが水には、上水、中水、下水があるらしい。上水・下水は分かるが、中水とは、飲むことが出来なく人体には影響を及ぼさないが再利用される水で、トイレ、工業用水とのことである、これは現代のことですが。

今回の東京都水道歴史館の講演は、石樋の発掘を通して江戸の上水を知る社会科勉強である。(講師:東京都埋蔵文化財センター小林氏)

※樋とは、「ひ」または「とい」といい、河川湖沼の水を放出、流下させるための水門、管  のことで地表に溝などを掘って流水できない場合などに作られた。樋は、石・木・竹樋があった。

上水の最盛期は1696~1722年で六上水があった。神田・玉川・本所(亀有)・青山・三田・千川上水でそれぞれの区域で利用されたが、1722年には神田・玉川上水以外の上水が廃止された。なぜ廃止されたのか? ①江戸の火事が多いのは上水により水脈が切断されている。②井戸堀の技術の進歩(あおりの技術)により200両かかっていたものが3両2分でできるようになった。この時代「享保の改革」1720年には江戸大火により町火消しの誕生など、財政再建の影響を受けたのだろうか。

※「あおり」堀りは、足場を高く組み鉄製の重い錘を引き上げては落とし岩を砕く方法、従来の竹に比べて効率・安価であった。

また、上水によっては、水質の問題もある、本所(亀有)上水などは埼玉県越谷市瓦曽根の溜池が水源であるが、流路である草加ー足立ー亀有ー曳舟ー向島-押上ー業平橋の勾配がなく非常に水質が悪かったようである。

江戸時代の上水は、水源からの地形を考慮しなければならないことから河川の利用と懸樋を組み合わせた上水である。
明治34年には最後の神田・玉川上水も近代改良水道の完成により廃止された。

江戸時代の土木工事の大変さが伝わる、講演でした。

                                                           東京都水道歴史館裏手の公園に保存展示されている 

 

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初詣は小江戸川越を巡る散歩(退職者の会1月例会)

2018-01-17 19:42:05 | 日記

川越市は「小江戸」と言われるが誰が「小江戸」と呼んだのだろう?「小京都」と呼ばれる所もあるが、引かれるネーミングである。

川越市の地名の由来は、豪族河越氏とか入間川を越さないとたどり着かない地など諸説あるようだ。武蔵野台地の端に位置し、荒川、入間川、新河岸川など河川に恵まれ水運を利用した商工業、三富新田開発、地理的な要衝で埼玉県随一の城下町で関東でも水戸藩につぐものである。国から「歴史都市」として認定され、川越は東京より江戸情緒を残す街並みである。前に、栃木市を散策したが両市とも素晴らしい都市景観を見せていて暖かみを感じる街である。
風のない快晴ではあるが寒さを感じる日であった、東武東上線川越駅で下車し「川越八幡宮」へ。健康の神様と言われている神社であるが「足腰」・「目」や「グチ聞きさま」の碑があった。「グチ聞きさま」は珍しく碑の前には石の腰掛けまであった(じっくり聞いてもらえそう)。もう一つ珍しいのが『桃を割って厄落とし「厄割り桃」』の「のぼり旗」があった、桃の瀬戸物があり、割って厄を落とす事らしい、桃は古来は魔除けの果実として崇められていたようで、神社でこのような碑があるのはあまり見ない。昔話の桃太郎伝説はこれと関係あるのだろうか?・・・。隣に塩釜神社より奉納された「葉書の木」がありました、モチノキ科の多羅葉(タラヨウ)の樹木で葉はペンが無くても書ける特殊な性質があります。葉書のルーツと言える樹木で郵便局のシンボルツリーとなっています。

なんでもありの川越八幡宮をあとに「中院」と言われるお寺を目指す。
このお寺古くは「無量寿寺」と言われているが、こちらの名の方がお寺らしくていいと思うが・・
参道、山門から趣のあるお寺である。しだれ桜など自然を楽しめる境内でもある、「狭山茶発祥之地」の碑があった。お茶は、栄西禅師により日本にもたらされたが、この地には慈覚大師がもたらした、当初は川越(河越)茶と呼ばれていたが埼玉県西部地域に広まり狭山茶と呼ばれるようになり日本三大お茶の産地となった。境内には、島崎藤村ゆかりの茶室「不染亭」があり、時折、茶会が開かれている。

中院を出て「喜多院」を目指すが、途中、仙波東照宮に立ち寄る。
日本三大東照宮の一つで徳川家康が没し、遺骸を日光へ移葬する際に喜多院にて4日間法要が営まれ、明治2年の神仏分離により喜多院の管理を離れ現在にいたっている。燈籠や本殿、彩色、飾りは東照宮独特のものがあるようだ。

 隣が喜多院である、隣にあるとは思わなかった、神仏分離前は相当敷地が広かったのだろう。正月松の内も過ぎているのにまだ境内にはお店があり、さすが喜多院である。慈覚大師が830年に創建した古刹である。
江戸時代に移築された徳川家光や春日局の建物など文化財が多く、五百羅漢も見所となっている。川越市の文化財の数では関東地方では鎌倉、日光に次ぐ。

  ※山門は、大火を免れ喜多院では最古の建造物で重要文化財に指定されている。

昼食を成田山川越別院前のうどん店にて済ませ、成田山川越別院に入る。成田山新勝寺の最初の別院で、川越七福神の恵比須天が祀られている。この喜多院前の通りは、有名な寺社が並び混み合う通りでもある。

  ※成田山と言えば交通安全祈願で有名だが別院は、眼病平癒、出世稲荷も祀られている。

その通りをから「時の鐘」の方に歩く。時の鐘は、川越市のシンボルでもある江戸時代の初頭に川越藩主により創建され今なお時を告げている。(現在は自動)

※「時の鐘」側にあるこのお店の「おさつチップ」に列が、皆、よくこんなに薄く切ると・・・

  ご馳走になるが、「おさつチップ」はイモケンピのような味で好評でした。     

「時の鐘」から中央通り(蔵造りの街並)は若い観光客が多い、若い人に混じって、明治時代に出来上がったと言われる街並みを散策・・・

   ※この辺は、無電柱化してました。

途中、脇道のお寺に立ち寄る、長喜寺、雪塚稲荷神社は、隣り合っており長喜寺は鎌倉時代創建の歴史あるお寺である。境内には「苦行の釈迦像」が祀られている、悟りを開く直前直後の釈迦を表した、パキスタンにあるラホール美術館の原寸大レプリカとのことである。隣の雪塚稲荷は、「白狐打ち殺し事件」のたたりを静めるために建てられた社である。

 ※長喜寺の境内にある不思議な樹木は、中国原産の「きささげ」と言う薬用木で白や黄色の花が咲くがこの時期になるとヒモが枝にぶら下がっているようでした。

もう一つ本川越駅よりのお寺が「蓮馨寺」は、室町時代の創建で七福神の福禄寿が祀られています。本堂の賽銭箱の横には、釈迦の弟子である「おびんずる様」が鎮座している、俗に言う「なでぼとけ」である、撫でて病気平癒すればよいが・・・。

今回の川越散策は、川越市の観光案内パンフレットの半分も回ってない。今度来たときは、別コースで回ろう。

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