爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

日本橋~人形町~小伝馬町を巡る散歩

2019-08-17 14:06:32 | 日記

8月の「退職者の会」の日帰り散歩は、幹事Mさんの案内ハガキには、東野圭吾の「新参者」の舞台を散歩するとの案内。

半蔵門線三越前駅で下車する。三越前のコンコースを歩いていると「大人の休日倶楽部」講座(2019.2.2ブログ参照)で紹介された「凞代勝覧」絵巻があった。書籍で観たが絵巻での迫力は格別である。おもしろさもあり、しばし、鑑賞する。

「本石町一」の交差点を南に進み日本橋川に出る、ここに架かる橋が「西河岸橋」である。橋の案内板によると、この辺は、江戸時代より商業・経済の中心地として栄えてきた場所で、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西河岸町という地名であったことから西河岸橋と付けられた。左岸側(現在いる場所)は江戸時代には釘・金物店が多く、釘店(くぎだな)とも呼ばれていたようです、明治時代には裏河岸と言われていました。

隣の橋である「日本橋」に出る。五輪のオブジェが設置されていた。日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と言われ、翌年には5街道の起点に定められ、川沿いに活気ある魚市場が立ち並び周辺に問屋などが軒を連ね江戸随一の繁華街が形成されました。 現在の橋は、明治44年(1911)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で都内では数少ない明治期の石造道路橋。照明灯・麒麟・獅子のブロンズ像など芸術的な装飾が施されています。なお、親柱に記された「日本橋」の揮毫が徳川幕府最後の将軍徳川慶喜の筆によるものとして有名である。道路元標の案内表示の反対側の橋のたもとに「日本橋魚河岸跡」の案内板がある、日本橋から下流の江戸橋にかけて川沿いに鮮魚や塩干物を荷揚げする魚河岸がありました。(関東大震災まで)

中央通りを北に進み再開発できた「コレド室町」側にある「福徳神社」へ。TVのCMで人気のでた神社でもある。ビルの谷間の神社であるがモダンな神社である、ミニ庭園、広場があり腰掛けるベンチもありでオアシスでもある。場所がら古い神社で、1000年以上前から鎮座し、徳川家康も参詣したと言われている。椚(くぬぎ)の鳥居が芽吹いたことから「芽吹神社」の名でも親しまれている。昔、この辺は武蔵国豊島郡福徳村で田園地帯で五穀豊穣の神様を祀っている。江戸時代には「富くじ」の興行を許された数少ない自社の一つでもあり、現在でも「宝くじ」の当選願いに訪れる人が多い。

 


江戸橋を過ぎて小網神社に入る。この神社も1000年を越える神社で、武藏国豊島郡入江のあたりの万福庵が最初と言われ、観世音と弁財天を安置していました。明治時代の神仏分離により小網稲荷神社として村社に指定されました。(明治6年) 戦後の宗教の法人化により「小網神社」となりました。
この神社、第二次世界大戦に出征する兵士が氏子対象の出征奉告祭に参列し御守りを受けた兵士が全員生還した、大空襲で社が戦災から免れた、関東大震災で倒壊のなか宮司がご神体と共に避難したが混乱もなく大勢の人が助かったなど強運厄除け金運の神社として有名です。ビルの谷間の小さな神社ですがお参りする方が多く訪れます。

小網神社から隣の蛎殻町にある水天宮に。東京の水天宮は、久留米にある水天宮が久留米藩の上屋敷に分霊され、明治に入り最終的に現在地に移転した。江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰をあつめ、妊婦や子供を授かりたい夫婦、あるいは無事出産のお礼参りなど現在まで人が途絶えることがなく門前町が形成された。平成28年(2016)に新社殿となり最新の設備を備えた水天宮となった。

 

水天宮を出て日本橋人形町への通りを進む。この辺は、住所表示が「日本橋○○」と付く「日本橋」という冠が付くが「中央通り」に比べると古い商家が残っているのがうれしい、また、地名からその土地の状況がわかるのもうれしいことである。 大観音寺に到着する。本堂は2階にあり鋳鉄製の菩薩頭(高さ170cm・面幅54cm)が安置されています。鎌倉の新清水寺に祀られていましたが火災で廃寺となり、その後、頭部のみ鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出され明治時代に大観音寺に安置されました。菩薩頭は、祭壇の仏像(全体像)の奥にあります、本尊の開扉日(縁日17日)に公開されますが、東日本大震災の際、正面から東北方角へ向きを変えたため、復興の祈りをささげるため11日も公開されます。なんとも不思議な菩薩頭です。このお寺、人形町にあることから人形の供養も通年でおこなわれています。

さらに人形町通りを大伝馬町・小伝馬町方面に歩いていく。途中、Mさんが「あの辺が玄治店(げんやだな)」ですと、思い出すのが歌手・春日八郎が歌った「お富さん」である、昭和29年(1954)に流行ったので私が小学校に上がる前で「♪死んだはずだよ お富さん生きて・・・」最後に玄治店~♪と、この玄治店の意味がわからなかった。徳川家の御殿医であった岡本玄治の屋敷跡あり、その一帯が地名・通りの俗称とのことである。

大伝馬町を過ぎ、小伝馬町の大安楽寺に入る。境内に「江戸伝馬町処刑場跡」碑があった。この一帯が伝馬町牢屋敷であった。大安楽寺は、処刑場で亡くなった者を慰霊するため勧進し大倉氏・安田氏らの寄進を受け創建されました、寺名は寄進した両名の頭文字をとり大安楽寺とされた。

隣にある「十思公園」には、牢屋敷の石垣が保存されています。また、「安政の大獄」に連座し伝馬町獄に入牢となり安政6年10月27日に処刑された「吉田松陰先生終焉之地」の碑がり、「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともとゞめ置かまし大和魂」と記してある。 

公園内には珍しい鐘楼がありました。案内板には、「銅鐘石町時の鐘」とあり、江戸時代最初の時の鐘で、最初は江戸城内にあったものを日本橋石町に鐘楼堂を造って納めました。処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが、処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、「情けの鐘」とも伝えられている。

ここ数日の暑さで立ち寄り先をカットした部分もありましたが、日本橋の再開発の部分と、古さが残る日本橋にふれることができました。しかし、まだまだ知らない日本橋がありそうです。

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地下鉄博物館の「江戸東京の今昔展」に

2019-08-05 11:06:32 | 日記

鉄道関係の博物館の中では交通の便が良いのではないか。東武博物館(東武鉄道)が東向島駅のホーム下にあったが、こちらも東京地下鉄東西線の葛西駅のホームの下にあり、副駅名は「地下鉄博物館前」である。特別に博物館として建てたものではなく現存する敷地を利用しているため展示については工夫が凝らされている。 地上の鉄道とは異なる歴史や地下鉄を造る困難さが理解出来るように構成されている。 夏休みとあって小学生・幼稚園児で混雑していた、特に「地下鉄プレイランド」のコーナーでは電車運転シュミュレーター、地下鉄パノラマに人気があった。 目的は「特別展」なのだがしばらく博物館見学を・・・

※地下鉄は、正式には地下鉄道と言うらしい。世界最初の地下鉄は、1863年にイギリスのロンドンで誕生。当時は、蒸気機関車の時代であり換気性を確保した吹き抜け構造で一部掘割もあった。(電化は、1905年から) ※日本では、1927年(昭和2年)東京の上野~浅草間2.2Kmが始まりである。 早川徳次は、1914年(大正3)欧米の「鉄道と港湾」の調査研究のためロンドンを訪れました。網の目のように発達する地下鉄網を目の当たりにし、これからの東京の発展には地下鉄が不可欠だと考え欧米各地の地下鉄を調査研究し2年後に帰国します。自ら地質・湧水量の調査を行い反対者や競争相手の現れる中、協力者や資金を集め。東京地下鉄道株式会社を創設し、1927年(昭和2)年最初の地下鉄を開通させました。後に早川徳次は、「地下鉄の父」と呼ばれました。 私たちの年代には、帝都高速度交通営団(通称・営団地下鉄)の呼び名だったが、民営化により2002年(平成14)に東京地下鉄株式会社(通称・東京メトロ)となった。

※シールド工法 マーク・イザムバード・ブルネルによって開発された。彼がこの工法を思いついたのは、造船所で働いていたときにフナクイムシ(船食い虫)が木質に穴を開け穴の壁面に石灰質をすりつけ穴がふさがることなくトンネル状になっていることからである。シールドと呼ばれる筒で切羽しながら逐次シールドを前進させながら後方で壁面を造っていく方法で地下鉄建設でも利用されている。博物館においても詳しく紹介されていた。

 

地下鉄は、踏切や交通信号がなく他の輸送システムとの連携がなく独自性が強く定時制・安全性が確保され、また、ハード面でも独自性が強い。都市交通としては、現在、北は札幌市から南は福岡市まで11の官民地下鉄が存在する、近距離・大量輸送にピッタリの地下鉄である。

ここで一回りしたのでホールでの特別展、『錦絵などでみる「江戸東京の今昔展」』に入る。東京は、江戸時代から続く世界的な大都市である、この江戸の古地図に現在の地下鉄路線図を落とし込み、錦絵により当時のポイントの江戸の季節や風景、暮らしを紹介している。 浮世絵ブームで、いろいろな企画され展示しているが単なる浮世絵や錦絵の展示会よりは工夫があって面白い。

★東都両国橋夏景色(大判錦三枚) 花火は、江戸時代から人気があったようです。徳川幕府になり戦もなくなり花火が娯楽として定着、男性が楽しむ花火から女性・子ども向けの玩具花火も出てきた、錦絵の中にも舟から手持ち花火を興ずるものもある。打ち上げ花火では両国橋がぎっしり人と人、人込みで永代橋の落橋事故のようにならないのが不思議、大川も花火見物の舟が同じよういっぱいである。この錦絵には滑稽さがあった。

このように花火は江戸で大流行しましたが、花火による事故も多くなり禁止令も出され大川端のみ許可されましたがそれでも収まらず、その後、飢饉・悪病払いのため花火を打ち上げ始めました。 この地域は、水路が多く描かれています。南北方向に流れるものは横十間川など横がつき、東西方向に流れるもの堅川など名称に竪(縦)がついている、現代の地図上では変な感じを受けるが、これは江戸城からみての表記であり、現在でも名称が残っている。        錦絵は、風俗画、美人画、名所絵など庶民全般の生活を知るにはを参考になる、誇張された部分が多くあるが、その誇張さが芸術性を高めているとも言える。                   特別展のチラシには錦絵となっていたが、浮世絵とはどう違うのだろうか? 文献等を参考にすると江戸時代に確立した版元・絵師・彫師・摺師の分業による多色刷浮世絵版画の最終形態で明治30年代頃まで多く描かれた。浮世絵は総体的な名称のようだ。特別展の作品の中に明治時代の作品も展示されていた。

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