爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

宿場町浦和の散策

2020-02-18 21:34:47 | 日記

「退職者の会」日帰り散歩は、さいたま市浦和区の散策となった。行政の中心であり、労働組合の本部があるなど仕事をしているときは旧浦和市を訪れることは少なからずあったが、知らないことが多かった。
かつての浦和市が政令都市「さいたま市」となったのが平成13年5月1日である。現在の住居表示は、さいたま市浦和区となった。かつては、文教都市浦和と言われたが、現在も行政の中心であるが、マンションが多く建ち、街並みが変化してきた。
JR京浜東北線浦和駅で下車する。浦和駅の再開発が終わり、賑わいが増したようである。変貌を遂げた東口から大善院に向かう。
浦和駅の東口からの線路沿いは何度か歩いたことはあるが、こんなところにお寺があったかなという住宅街にあった。のぼり旗、玉垣に囲まれてます。大善院は浦和不動尊と言われ今も親しまれている。「木造役行者及び二鬼像」の彫刻がさいたま市の文化財に指定されている。境内には枝垂れ桜かと思っていたが桃の木だそうで、春には賑わうそうである。

大善院から本太地区にある延命寺に入る。天長6(829)年に創建された古刹で入口にある「ムクノキ」は樹齢400年とも言われる。ムクノキは、ケヤキとともにニレ科の植物で強靭な落葉高木で関東平野には屋敷林などに多く植えられているそうです。延命寺のムクノキは、幹まわり4.8m高さ約25mあります。

さらに北に向かい本太観音堂に。住宅街にポツンとある観音堂である、裏手にはお墓がありました。元々、この地には瑞巌寺という寺院があり廃寺となり観音堂とお墓だけが残されようで、現在は延命寺が管理しています。観音堂には、「木造聖観音坐像」「本太観音堂の連経講絵馬」が市文化財となっている。お堂は、古民家に見られる屋根の「煙り出し」のようなものがあり珍しい、お堂でこのようなものがと思うが?
                                                   
本太観音堂より北に位置する「本太氷川神社」は、本太小学校の裏手にある。
御由緒によれば、本太という地名の由来は鳥居扁額に「元府趾(もとふと)」と書かれていることから国府の出先機関があったからという説と「ふと」は低地や耕作・居住に適する地という意味があるためという説がある。この神社は、本太の古くから集落のほぼ中央に鎮座している。しかし、勧請の年代は明らかでないが、慶安3年(1650)に旧本殿が建立されている、また、宮殿から見つかった銘文には宝徳3年(1451)地頭が建立されたことが記されている。境内には、珍しい落葉樹「ソロ」の木が地表にまで根を張り、古さを感じさせる。

ここで浦和駅西口から東口に移動し線路沿いにある仲宿弁財天に立ち寄る。「仲宿弁財天のいわれ」によると、弁財天は古くより町内岩渕氏邸内にあった弁財天祠を同志の方々により昭和28年に仲町1丁目の市有地に遷座し、当町内在住者により護持されているという弁財天です。

中山道の西にある常盤地区に。レンガ塀に囲まれた公園であるが、古くは徳川家康や秀忠が鷹狩の際の休憩所とし、明治時代に浦和地方裁判所があった所である。現在、裁判所は県庁付近に移転したため常盤公園として整備されました。レンガ塀は、裁判所の名残でした。
公園内には、童話碑という長沼依山氏の顕彰碑がありました。長沼依山氏は、県内本庄市の生まれで小学校教員を経て幼稚園を創設。童話を声に出して読む「口演童話作家」とのこどです。

公園を出て、中山道沿いにある慈恵稲荷神社に入る。小さい神社ではあるが旧中山道から続く参道には市が開かれていたようで説明書きには二・七市場跡とあった。浦和の市は、戦国時代に開設されたものと考えられ、二と七のつく日に月6回開催され六歳市(ろくさいいち)といった。取引品は、穀物と木綿布が売買されていた。江戸時代の十辺舎一九が「代(しろ)ものを積重ねしは 商人の おもてうらわの 宿の賑わい」と詠んでいる。

旧中山道を南に歩き玉蔵院に立ち寄るが、以前、訪れたので「さいたま市の浦和宿・玉蔵院を歩く」2016,02.18を参照してもらいたい。ここでは、写真のみとします。

さらに南下すると調神社が見えてくるが、幹事Mさんが近くに寅薬師があるというので寅薬師に立ち寄った。
珍し名のお堂であるが、「寅薬師の由来は、徳川広忠が鳳来寺(愛知県)本尊の薬師如来に祈願したところ、天文11年(1542)寅年、寅刻に家康がが生まれ、同時に寺の薬師堂から寅神(真達羅大将ーしんだらたいしょう)が忽然と消えたという伝説から、鳳来寺本尊を寅薬師と呼んだといわれてます、子授け、安産の仏として信仰されています。ここ寅薬師堂は、高野家先祖の重兵衛が江戸時代初期に高野山からお招きし、御倉山にお堂を建て祀りましたが、昭和初期の耕地整理で岸町六間道路の用地となり、この場所へ移転しました。薬師如来は、病気を治癒し延命・長寿に導く仏でもありますが、『日本霊異記』に盲目の女性が薬師如来に願掛けをし、目が見えるようになる逸話があることからも、寅薬師は特に目の病を治す仏として信仰されました。・・・」
参加者のSさんが白内障の手術をしたとのことで、お礼参りが出来たようです・・・。

最後の調神社を訪れました。サラリーマン時代にこの近所で会議があり、この神社、何と言う神社なんだろうと不思議でしたが浦和の人に聞いたところ調宮(つきのみや)と言ってましたが、これば別名で正式には「つきじんじゃ」という。社名の由来は、律令制度の租税である「租庸調」の「調」の「調物(つきもの)」からで、調神社の古さがわかる。
境内が武蔵・上総・下総などの「調」の集積所であったと言われている。中世に入ると「調」と「月」が同じ読みであることから月待信仰と結びつくようになった。兎を神の使いとみなす兎信仰から狛犬ではなく「狛兎」である。
境内には、高浜虚子の弟子である「長谷川かな女」の碑がありました。調神社の近く長く居住しており、句碑には「生涯の影ある 秌の天地かな」で、それまでの苦難を乗り越えて新天地・浦和を愛し、ここを生涯の地と決めたという、秋の日のしみじみとした気持ちを詠んだ俳句である。秌は秋の異体字である。
参拝するとツキがつくと言われ浦和レッズなども必勝祈願に訪れるそうである。また、女性には、かわいい兎が人気のあるところかもしれません。社殿は本殿と拝殿が一体となった権現造りで鳥居がないのも特徴的な神社である。

浦和には来ることもなくなったが、思い出の場所でもある。街並みも綺麗になりなつかしさが増した散歩でした。


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