爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

姉の一周忌

2017-11-28 16:43:33 | 日記

昨年、姉が亡くなり、納骨の日に妹が順番だねと言ってお墓の前で写真を撮ったが、父、母、叔母、姉と逝って何とも言えない寂しさがあった・・・。
新幹線で盛岡駅で下りると雪があった、タクシーの運転手の話では「3回目の雪だー」と言っていた。
この雪で法要も一層寂しさがつのる。しんみりした一日であった。

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「退職者の会」の文化祭

2017-11-27 17:31:46 | 日記

退職後の人生をどう過ごすかは、生き甲斐にも繋がり悩みの多い事柄でもある。小生も、あの人は○○やっている、××やっているの話を聞くが中々自分に取り入れるとなると・・・
先日、「退職者の会」の第1回の企画で「文化祭」がおこなわれた。ここに紹介します。
表現やら展示と皆さん元気である。最後に高齢者向け??のダンス「ズンドコ節」で一同盛り上がり。

 

 

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そもそもなぜ城を攻めるのか? 本郷東京大学教授講演 2回目

2017-11-21 06:34:53 | 日記

前回に続いての2回目の講演である。

城攻め 理由は?
1.邪魔者を倒す
    邪魔者が城に籠もる

2.奪取したい町や都市がある
    その町や都市が城を持っている
    a.博多と立花山城
    b.堺 町全体が城 → 惣構え  最も古いのは有岡(伊丹)城といわれる
                     ◎小田原城の惣構えは、2里半(約9Km)に及ぶ空堀と土塁     
            城下町全体を囲む長大なものであった。

3.境目の城
    a.領地を拡大していくときは一つずつ
    b.どこかへ進軍するときはスルー
   
城攻めの3つに入らない城攻めが?
高天神城はどう考えるか・・・山城であり、境目ではなさそう!
                           どうでもいい城であるが、象徴的な意味で攻めたのでは
                               
3つの城攻めの仮説の他に、武田軍の一つ一つ城を潰していくのに対し、象徴的な城? 徳川軍の武田は援軍に来ないぞ!、徳川は、こんな城も落とせるぞ というシンボリックな意味での城攻めがあったのでは。と。

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こしがや平和フォーラム 2017(平和展)

2017-11-20 18:14:20 | 日記

 

副題が、家族が兵士に変わったとき~アジア・太平洋戦争~「もしも、自分が、大切な人が、ある時兵士に変わったら」チョットびっくりするような副題である。展示品からも、戦争の悲惨さや平和の尊さを考えさせられた。
あらためて、父母の苦労を知り、二度とこのようなあやまちが起きないよう祈るばかりである。

 

 

 父も出征する時は、挨拶に行った叔母に、虎年生まれの父に故事の「虎は千里行って千里帰る」と言い「片足になっても帰ってくるんだよ」と言われたそうです。各家庭でこのような悲しい話が・・・。

 

  原爆で亡くなられた、佐々木貞子さんの一連のパネルには涙します

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志木市立郷土資料館の特別展

2017-11-10 10:55:14 | 日記

志木市の郷土資料館にて特別展「江戸期から明治の古地図・絵図で見る志木」が開催された。
東武東上線の志木駅で下車し、浦和方面に行くバスに乗り継ぐ。志木市の中心は、駅前より新河岸川付近が歴史的には中心となっている。市役所を過ぎ宗岡小学校前で下車する。バス停の側に木戸門があり、古そうなので近づいて見るとそこが「志木市立郷土資料館」でした。市民から寄贈された「離れ(江戸末期の建物)」で改築し歴史的価値のあるものなので保存を兼ねて資料館として利用しているそうです。
古地図・絵図により志木市の昔、周辺の村との関係、土地の利用状況、水害対策などが展示されています。市民の保有品のため絵図というより「覚え書き」「区割り」など実用的なもので当時の志木市の現状を知る珍しい資料が展示されておりました。
特別展の他は、出土品、板碑、いろは樋の板、古地図、写真が陳列されている。
このあと、郷土資料館の係の方に、紹介していただいた見学場所に立ち寄りながら志木駅に向かった。
最初に教えていただいたのが裏手にある「一里塚」である、手前の道は奥州街道であったとのことで、塚には大木があったが倒木し現在は石塔だけで、表示がなければ分からなくなっています。

市役所の方に古民家があると教えてもらい移動する。
新河岸川に架かる「いろは橋」の交番の隣に新河岸川改修碑がありました。この場所は、「いろは樋の跡」にもなっています。
「いろは樋」は、野火止用水(玉川上水から新河岸川の用水路)を引又宿(志木市本町)から宗岡地区へ引くため新河岸川の上に架けられた樋、明治36年頃には木樋から鉄管にし埋設された。
新河岸川は、武蔵野台地の伏流水等を源泉するが川越から東京北区に流れる、流量を安定させる河川工事をおこなうことにより江戸時代末から明治時代初等の重要な舟運であり、志木市にも恩恵をもたらした。バスを利用した際に市場というバス停名があり、農作物等が集積されたのだろう。

いろは橋を渡ると右手に志木市役所、左手に公園があり「旧村山快哉堂」と言う家伝薬を売る薬屋で明治10年に建てられたものを公園内に移築復元している。残念な事に開館日でないため内部は見れませんでした。

公園内にカッパの像が2つありました。志木市にはカッパ伝説があり、カッパの像が多くあるとのこと、カッパは岩手県遠野市だけではありませんでした。この公園は中州のような所でもう一つ隣の川が「柳瀬川」です。
柳瀬川は、東京都西多摩郡と埼玉県入間市を水源とする川で、都県境に沿って流れ志木市のこの公園の先で合流します。

柳瀬川を渡り駅方面に歩くと、「旧西川家潜り門」がありました。今に続く西川家の棟門で取り壊される所、寄贈を受けて移築復元したものです。西川家は、江戸時代初期に住み、幕末には酒造業・水車業・肥料商を営むかたわら引又町の組頭役を務めた名家、建築年代は、1866年頃と推定、昭和2年に門の両袖に一間の長さの腰縦板張り黒漆喰塀が付けられた。
さらに進むと、「朝日屋 原薬局」があります。江戸時代の奥州街道に沿いに建てられました、明治20年代の創業で明治45年に木造2階建て瓦葺き店舗兼住宅として建てられました。現在、敷地内の主屋、土蔵、物置、洋館など7件が指定され現在も薬局として営業している。

志木市立郷土資料館の方に、いろいろ見所を紹介されたが、見つからない所もあり大きい道路沿いの所だけ立ち寄った。郷土資料館だけで帰る予定だったが数カ所立ち寄ることができてよかった。

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