爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

鼎泰豊(ディンタイフォン)で友人と食事会

2023-05-31 20:45:50 | 日記

前職場で一緒だった4人で久々の食事会、コロナ禍等で外食がままならない時もあったが久々の再会である。
前にiさんの紹介で小籠包食べた東京・高島屋百貨店の鼎泰豊(ディンタイフォン)が越谷レイクタウンにお店があるとのことで久しぶりに小籠包で会食となった。

餃子や春巻きと違ってあまり食する機会が少ないが、「小籠包」は上海が発祥と言われ「小籠」は「小さな蒸し籠」との意とのこと、案内された席の仕切りが虫かごならぬ蒸し籠のイメージなのか?・・・。。

この鼎泰豊は、1958年台湾台北市で食用油を取り扱う油問屋として創業、1972年に小籠包を始め、点心料理の販売を始め、美食家たちの評判を呼び、マスコミ等でも紹介され、1993年にはニューヨークタイムズ紙で「世界の人気レストラン10店」の一つに選ばれるなどした人気店。日本では、1996年に海外出店1号をオープン、本国の点心師から日本の点心師へたしかな技と味を継承して、当時日本ではあまり馴染みのなかった小籠包ブームを巻き起こしたとの事である。

食べ方も忘れてしまったが、Iさんに聞きながら・・・
昔話に花を咲かせるが、それぞれ容姿はくたびれ、会話は時が止まった感じであるが、高齢になると情報量が少なく偏ってくるが、4人も集まれば話題も多岐にわたり、懐かしさもひとしをである。。

それぞれ、元気?で会えたのが一番の喜びであり、また、再会を期して別れた。

【参考資料】
 ・鼎泰豊HP
 ・ウイキペディア

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「退職者の会」の総会

2023-05-19 16:06:01 | 日記

総会の議事である活動報告・会計報告等が終わり、次は出席者の近況報。65歳から90歳の老々男女。病気の話やら、趣味の話、今取り組んでいる事など、現職の時の話し方と違ってどことなく心に余裕のある話方であった。こうした事がいつまでも続くといいが・・・。
 久々の出席であった、監事という役を引き受けている事もあるが・・・。退職すると繋がりが切れてしまう。何人かの方は電話やメールを頂くが、こういうことに消極的な小生にとってありがたいことである。

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「吉見百穴」の上映会と講演

2023-05-09 19:14:16 | 日記

SKIPシティ彩の国ビジュアルプラザ主催(埼玉県委託)の「吉見百穴」の上映会と講演が川口市にあるSKIPシティでおこなわれた。


SKIPシティは、2003年にオープンした、「くらしプラザ」「川口市立科学館」「映像ミュージアム」「公開ライブラリー」の四つのジャンルの施設により、学びと体験ができる施設である。ここは、NHKの施設があった所で、私が仕事の帰り車に乗せてもらった時に「あれがNHKの放送用鉄塔」と教えてもらったことがあり隔世の感がある。
SKIPは、Saitama Kawaguchi Intelligent Parkの頭文字をとった。放送所の施設老朽化のため埼玉県とNHKが中心となり、埼玉県・日本放送協会・株式会社スキップシティ・NTTコミュニケーションズ株式会社が事業主体となって運営している。


SKIPシティに早く着きすぎため、川口市立科学館と公開ライブラリーにて調整し4階にある映像ホールへ。

ホールにて最初は、吉見百穴と吉見町に関する映画が上映。

吉見町は、埼玉県の中央部に位置する、人口約1.7万人の町である。荒川流域の低地にあり、町の西側には比企丘陵から続く吉見丘陵広がっている。荒川と丘陵地帯の立地から古代から定住していたようで遺跡等が発見されている。吉見百穴もその一つである。この催しは、国指定史跡100年を記念する、上映と講演である。

◎吉見百穴
埼玉県の古墳は、行田市の「さきたま古墳群」と吉見町の「吉見百穴」は有名である。吉見百穴は、凝灰岩の岩山の斜面に多数の穴(219個)が空いていることから、横穴の存在は、古くから知られていたようですが、横穴墳墓と分かったのはそんなに古い話ではないようです。それまでは、天狗のあけた穴や雷神の仕業と噂され伝えられていたようです。明治時代には住居跡や横穴は墓であるという論争もありました。東京大学の学生・坪井正五郎が地元・貴族院議員で郷土史家の根岸武香の協力で初めて発掘調査を行いました、これは日本の考古学の黎明期でした。ちなみに坪井正五郎が卒業論文のために発掘調査を行ったのが1887年(M20)、日本での初めての発掘調査であるエドワード・S・モースの大森貝塚の調査が1877年(M10)である。


この吉見百穴も太平洋戦争中は、地下軍需工場として利用するため吉見百穴の一部が破壊された。

※吉見百穴は、「よしみひゃくあな」と表示されることが多いようだが、私が研修旅行の時には「よしみひゃっけつ」と呼んでいたが、呼び名は混在しているようです。

講演は、吉見町埋蔵文化センターの太田賢一氏の「吉見百穴と周辺の文化財」のテーマで
〇吉見百穴と松山城跡
・ 横穴墓は、丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたものですが、死者が埋葬された主体部の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じです。分布する一帯は凝灰質砂岩と呼ばれる掘削に適した岩盤が広がっており、当時の人々は適した場所を探して横穴墓を造ったと考えられます。明治20年の発掘調査での出土品はわずかですが剣・鉄鍬等の鉄製品、勾玉・管玉・金管等の装飾品が出土しており、百穴の被葬者は身分の高い人であったことがわかります。
横穴墓の形態は数種類に分類することが可能ですが、ほとんどの横穴の壁際には、10~20cm程の段が作られています。これが死者を安置した部分で、一つの横穴に二つの段があるということは複数の人が葬られたことを示しています。また、横穴墓の入口には、「緑泥片岩」と呼ばれ山間部に分布する緑色の石の蓋が立てかけられていました。この蓋をずらせば、一度横穴に死者を葬った後に再び石室内に入ることができ、一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」を行うことができました。

※左は横穴墓の玄室の棺座、右が国指定天然記念物ヒカリゴケ発生地、原始的なコケ植物で岩陰など湿った環境で生育。

・ 松山城は、室町時代に築城された小田原城と同じ「梯郭式平山城」で、戦国時代では武蔵野国中原の要衝として、関東の諸勢力による争奪戦が展開された。松山城は、ふもとをめぐる川を天然の堀として利用し丘陵上に建てられた。大規模な空堀、技巧的な曲輪が集中している。不落城とも言われた。


〇坂東11番安楽寺と周辺の遺跡
・ 安楽寺は、奈良時代の僧行基が聖観音像を安置したのに始まるとされた、平安時代初期の武将坂上田村麻呂が堂宇を建立と伝えられ、その後、源頼朝の弟源範頼が三重塔などを建てたとされるが焼失している。
札所等にもなっている埼玉県の名刹である。

〇大串次郎と金蔵院宝篋印塔
などについて紹介があった。
※「吉見百穴」以外の紹介については、詳細を割愛させていただきます。


<参考資料>
・Wikipedia
・吉見町役場
・ばさら日本史
・講演配布資料
・安楽寺

 

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あれが「カロム」(ボードゲーム)だったのか?

2023-05-05 15:40:10 | 日記

先日、BS・TV 「三宅裕司のふるさと探訪」-城下町・滋賀県彦根市-を観ていたら、私が小さいころ実家で見たことがあったボードゲームに似たゲームが放映された。

小さい頃すごした実家には珍しい物が3つあった。ゴルフクラブ、テニスラケット、ボードゲームで、東北の片田舎では当時としては珍しいものであったが、父が戦前、東京の呉服店(現在の百貨店)の運動具売り場で働いておりクラブとラケットは、母が父の実家に疎開するときに持ってきた物と推測しているが、ボードゲームだけは不思議だった。
それがTVを観て「カロム」ではないかとわかった。「カロム」は、ビリヤードに似た卓上のボードゲームで、パック(玉)をポケットに入れるゲームである。


歴史は古く18世紀インドを統治していたマハーラージャによって遊ばれたと考えられており、インド周辺、中東ではポピュラーなゲームであるようです。
日本へは、明治末期に伝わり、全国に販売されたが、現在では「カロム」を知っている人は少ないが、彦根市で存続している。
疎開していた町や周辺でも昭和10年頃には木工所が製造販売していたようで、実家の祖父が手に入れたのか、父が勤務先で購入し母が疎開先に持ち込んだものか不明である。
小さい頃は 、詳しい遊び方が分からないためおはじきの様に玉(パック)をポケットに入れていた、実家にあったボードは、今、販売されているシンプルなボードより輸入品かと思うようなカラフルなボードであった。
ゲームにも、流行りすたれがあるが、「カロム」は木製の大きいゲームボードなので持ち運びに難点があり、彦根市を中心とした一部愛好家によるボードゲームとなっているようです。


参考資料
〇ウイキペディア
〇日本カロム協会

 

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