爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「のぼうの城」「陸王」の行田を巡る散歩

2021-09-26 10:17:17 | 日記

9月の「退職者の会」の日帰り散歩は、県内の行田市となりました。8年前に古代蓮を中心に見学しましたが、今回は忍城址公園、水城公園、市内の寺社巡りのコースとなりました。
 ※2013.7.16UP“「のぼうの城」の行田散歩”も参考に

 秩父鉄道の行田市駅で下車する。JRの行田駅もありますが行田市観光は、「行田市」駅の方が何かと便利なようです。幹事のMさんがCopyしてくれた観光経路も「行田市」となってましたが、「足袋と暮らしの博物館」が平日休館日ということで逆コースで、行田八幡神社へ。

行田八幡神社の創建ははっきりしないようだが、平安時代中期に源頼義・源儀家が奥州討伐のために戦勝祈願で勧請したと伝えられている。「封じの宮」と言われ、夜泣き、かんの虫封じから、癌の病、難病、ぼけ封などの祈願に訪れる方が多いようです。境内には「目の神社」などが祀られ、近年、「なで桃」がパワースポットになっているようです。

次は、コースからそれて「清善寺」へ。清善寺は熊谷市にあるお寺の末寺で、永享12年(1440)の創建と伝えられています。慶長9年(1604)には、徳川家康より寺領30石の御朱印状を拝領している。入口の大きい燈籠には新兵衛地蔵尊とあり、他にも新兵衛地蔵尊の碑が立ってました。新兵衛なる人物は、呉服商の番頭であった大澤新兵衛で、その長男の大澤龍次郎さんが寄附したものです。大澤龍次郎氏は、産業界から金融関係の大澤証券(現・インターネット証券大手のSBI証券)を設立し社長として活躍。行田市の福祉、消防、教育関係他に浄財を寄附した。清善寺では無縁墓石の整備や清善寺の通りに石で出来た橋の痕跡があったが欄干に「新兵衛橋」とあった。これも大澤氏に関りのある橋なのだろう。川は、埋め立てられており欄干も撤去すればと思うが、住民の大澤氏への感謝の思いが残させたのか。

ここで昼食のため「清善寺」の近くにある「あんど」というお蕎麦屋さんへ。行田市の足袋蔵を大改装したお蕎麦屋さんであった。「あんど」の蔵は「奥貫蔵(おくぬきぐら)」間口9間、奥行3間の2階建ての土蔵で「ほうらい足袋」の商標で知られた、奥貫家が大正~昭和の初めに建てられたと言われる足袋蔵です。
足袋蔵の内部はどうなているのかと思うほど変わっているようで、リノベーションと言ったほうが良い位こだわった内部でした。飾り、音楽もこだわり、メニューも凝っています。天ぷらセットを食べましたが、彩の良い野菜、出汁のきいた御飯、天ぷらは野菜中心でお塩でサクサクと食べます。もちろん蕎麦はコシのある蕎麦で、また、訪れたいお蕎麦屋さんです。

コースに戻り、天満社に入る。ここの住所は、行田市佐間と言う所で、案内板には「佐間天神社」とあった。
神社といえば鳥居ですが立派な山門がありました。慈眼山安養院の守護神として天神社を勧請したようです。忍城の戦いでは、石田三成の軍勢を正木丹波守利英(忍城主・成田氏長の重臣)がこの「佐間口」で守りを固め死闘を繰り広げたと伝えられています。境内には、樹齢400年以上の欅の巨木があり、市の文化財に指定されています。

天満社の向かいにあるのが高源寺で、ここも忍城に関係のあるお寺で、忍城の戦い後に正木氏は、武士の身分を捨て現地に留まり、豊臣方、成田方双方の戦死者を弔うため高源寺を建立しました。

行田市民の憩いの公園が水城公園で、天満社の裏手にあたる位置です。この公園は、昭和39年に開園したもので忍城の外堀跡を利用して造られました、埼玉県初の都市計画公園。元々は、忍沼と呼ばれた天然の沼で水と湿地に囲まれた堅固守備の城で「浮き城」とは呼ばれた所以だったのでしょう。四季折々の花が咲き桜の名所としても知られています。園内には記念碑、古い建築物があります。
※1.旧忍町信用組合店舗
行田市の足袋産業を支え重要な役割を果たした「旧忍町忍町信用組合」。行田市の中心街で営業していた大正期の木造洋館を移築復原したものです。現在は、カフェとして活用。
※2.田山花袋の文学碑(田舎教師の碑文)
田山花袋の小説「田舎教師」の文中に主人公・林清三の実家が行田の古城跡の方にあったと書かれています。
碑には、「絶望と悲哀と寂寞とに 堪へ得られるやうな まことなる生活を送れ 運命に従ふものを勇者といふ」と刻まれていました。運命に逆らてはだめですネ・・・
田山花袋は、群馬県館林の生まれで、以前、文学館を訪れた事がありましたが、そちらのブログも参考に2016.08.09UP「猛暑の中、館林を歩く」
※3.三船久三
柔道家、講道館10段で名人と言われた、招聘で行田市を訪れた記念の三船十段偉業の碑。
※4.大澤龍次郎像
行田市のため尽力した大澤氏の像、のちに行田市名誉市民に。
※5.林頼三郎の碑
行田市出身の刑法学者、検事総長、大審院院長、司法大臣を歴任、行田市の名誉市民でもある。
水城公園は、平日にも関わらずご同業(年金生活)?大勢釣りをしていた。釣り人の間には「さぎ」が羽を休めていた。近くで「さぎ」を見るのは珍しい、近づき写真を撮っても動かない。皆それぞれ写真撮影、良い写真が撮れました。

水城公園を後にし、忍城へ。埼玉県には観光としての城は9城あるが見応えのある城は忍城と言っても過言ではないだろう。室町時代の文明年間(1469~1487)に築城されたと考えられている、難攻不落のお城です。
明治初期の城の取り壊しにより忍城も取り壊されたが、「忍城御三階櫓(おしじょうごさんかいやぐら」が再建された。

今日は、久々の晴れ間で湿度が高く、忍城の前にある「東照宮・諏訪神社」を立ち寄り帰る事に。信号を渡った鳥居の所に諏訪神社、参道の先に東照宮がありました。同じ境内に二つの神社を祀っているようです。東照宮は、派手なイメージがあるが、ここの東照宮はこじんまりした東照宮でした。

2回目の行田市訪問だったが、まだまだ観光スポットがあるようだ。


【その他のPhoto】

 

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オンライン講座7 「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」を聞いて

2021-09-20 16:48:44 | 日記

副題:~天下平定の仕上げ「奥羽仕置」と九戸一揆の真実~
      「豊臣秀吉が行った奥羽仕置、それに抗い、南部氏の勇将・九戸政実(くのへまさざね)は

   決死の籠城戦を繰り広げた。近年、九戸一揆の図式が揺らいでいる。最新研究から戦国乱世に

   終わりを告げた戦いの真相に迫る。」としている。

「九戸政実」や「奥羽仕置」初めて聞くが戦国時代に北東北の南部領内で何が起きたのか?
一般に「九戸政実の乱」と呼ばれる騒乱の背景には、同じ南部氏一族である両者の確執が

大きく影響している。近年は、反乱ではなく九戸一揆、九戸合戦と呼称も改めつつある。

講師は、県史や地域歴史を研究している、八戸工業大学第二高等学校教諭 熊谷 隆次氏である。

このテーマの舞台は、現在の青森県、岩手県、宮城県、秋田県であり、中心となる人物は、

三戸城の南部信直、九戸城の九戸政実、豊臣秀吉の3人である。

Part1 北奥羽を治めた南部氏とは
 1.戦国期の糠部郡と「戸」の領主
   ①糠部郡は、岩手県北部~青森県太平洋側、一戸・三戸・四戸・七戸・八戸・九戸があり、

   それぞれ戸には領主が存在した。
   ②「戸」の領主は、独立して領域(領土)と家臣団(「家中」)を保持する領主。
   ③「戸」の領主は、「南部」を名字とし惣領家の三戸氏を中心に連合的な族的集団(「一家」)

     を形成。
  2.戦国後期 四戸・櫛引氏と八戸氏の紛争
    それぞれが攻撃し、結果、八戸氏が勝利し領土を接収した。
  (1)戦国期の北奥羽
     戦国期、北奥羽の諸領主は、南部氏の領地(糠部郡、津軽、鹿角郡、久慈、岩手郡、

     閉伊郡)安東氏、浅利氏、戸沢氏、本堂氏、六郷氏、稗貫氏、遠野氏、和賀氏・斯波氏領、

     小野寺氏、葛西氏領         

 (2)永禄期「鹿角郡合戦」
     戦国期、南部晴政氏と安東愛季氏と対立、安東軍に対し南部氏は二経路から反撃、南部

     信直軍(糠部郡の領主)九戸政実軍(久慈、閉伊郡、浄法寺)により勝利を収める。

     後にこれが九戸一揆に関係する事になる。南部信直は、糠部郡を傘下に収め、九戸政実は、

     久慈、閉伊郡、浄法寺を傘下に収めた。

 (3)元亀期「斯波御所」との境目争論
     南部・不来方城と斯波郡・高水寺城が合戦
     南部軍には、南部高信(南部信直の実父)、九戸政実が参戦・・・・和睦
     元亀期「斯波御所」との境目争論の意義
     南部領の南側、岩手郡北を支配下に置く。南部高信と九戸政実が南部氏の南下政策の中心。

              鹿角郡合戦  と 斯波御所・境目争論
                          ↓
   南部晴政の時期、外征を機に南部高信・信直父子(田子)と九戸政実が勢力を拡大

  (4)南部信直の家督相続
      南部晴政、晴継父子の死により、天正9年(1581)南部信直が三戸南部家の家督を継ぐ。

Part2 北奥羽を襲った外圧、秀吉の「奥羽仕置」
  1.南部信直の家継承と内紛
  (1)クーデターによる家督継承
      南部信直は、晴政の長女と結婚、二女は、九戸実親(九戸政実の弟)と結婚。

      三戸南部の家督を九戸側で継ぐという事で内紛が。

  (2)南部晴継の存在
      新資料では、南部信直は、先代を晴継ではなく晴政を「先代」と記述。南部晴継は

      家督を継いでない、晴継そのものが存在しなかったと・・・。
  (3)「戸」の領主の内訌(ないこう)
     ①八戸氏:八戸氏の一族、八戸経継が九戸政実に内通。・・・経継を捕縛し殺害                      
     ②一戸氏:一戸政連の弟一戸信州、九戸政実に内通。信州が兄政連を殺害。・・・一戸家断絶
 2.天正後期 北奥羽の領主との紛争
    安東愛季が再び南部領に侵攻。・・・安東氏、戸沢氏との合戦で討ち死にし安東氏側が劣勢に
  「斯波御所」斯波詮直が不来方城に侵攻・・・南部側、九戸政実、八戸直栄を派遣し掌握する。
 3.豊臣政権への服属
  南部信直は、北信愛を前田利家に派遣。当時、前田利家は秀吉の重臣として位置づけられ東北の

    領地の服属に関わっていきます。利家の起請求文(南部信直宛)にも秀吉に対しての取り成し、

    南部信直を保護すると記しています。なぜ、派遣したかは内紛、安東氏、斯波御所との戦が

    背景にあるものと思われる。

4.津軽為信の挙兵と南部一族の内紛                                                          
    安東氏の領内で湊騒動がおきる。これは湊通季(豊島城主)の挙兵によるが、南部信直は

    比内郡を手に入れる。
    津軽為信(大浦氏・南部一族鼻和郡大浦城主)が南部を裏切り、安東実季と同盟関係を結び、

    南部を攻める事が出てきた。安東実季はこの混乱に乗じて比内郡を奪還する。為信も津軽領を

    手中に収める。天正18年(1590)までに一挙に領地を信直は失った。

    また、一族にもまとまりを欠く動きもあり、前田利家が信直宛の書状に家中にも反逆の輩がいると            記している。(七戸・九戸が該当)
  5.奥羽仕置と九戸政実
    このような津軽の反乱、南部の危機的な状況の中で小田原攻めに伊達政宗、最上義光、南部信直が

    参戦、天正18年7月小田原城落城後に会津「奥羽仕置」に出陣する。

                             奥羽仕置(おううしおき)
                   天正18年(1590)豊臣秀吉が東北地方の諸大名に

                   行った領土の配置換えや検地、刀狩りなどの統治策。

    「奥羽仕置」とは
     ①奥羽地方の領主の「近世大名化」の画期。
     ②奥羽地方に対して強行した「豊臣体制化」の推進。
     ③奥羽の「中世」から「近世」への画期。

天正18年(1590)7月27日、豊臣秀吉南部信直に送付した朱印状には。
   《内容》
      1.南部のうち七郡の領土の支配を信直の意思に任せる。
      1.信直の妻子を在京させること。(人質)
      1.知行の検地を行って蔵入地(直轄領)を確保し在京費用を維持すること。
      1.家中(家来)の城を破却し、その妻子を三戸城下に集住させること。
      1.右の四か条について、「異儀」(抵抗)におよぶものがいれば豊臣政権が成敗する。

  豊臣秀吉 ⇒ 南部信直 ⇒ 南部氏の「家中」(家来)・・・ピラミッド型の支配体制に

豊臣秀吉の奥羽仕置の責任者は、重臣の浅野長政であった。長政は、花巻城(旧稗貫郡・鳥谷崎城、

現在の岩手県花巻市)に八戸政栄、九戸政実ら南部信直一族・家臣を召喚し服従するように命じた。

豊臣秀吉の奥羽仕置の後、天正18年9月~10月にかけて、仙北・由利一揆、庄内・藤島一揆、

和賀・稗貫一揆、葛西・大崎一揆が立て続けに起きた。

Part3 政実の秀吉軍迎撃と籠城戦が物語るもの

  1.九戸一揆のはじまり
    天正19年(1591)2月始め九戸一揆が起った。
  2.四戸櫛引氏と一揆
    天正19年(1591)2月24日 根城(八戸)が島守城(櫛引氏)を落城させる。直後、

    櫛引城を襲撃。
    天正19年(1591)2月下旬頃、櫛引清長が南康義を攻撃、報復で南康義が櫛引清長を攻撃。

    戦国末期、奥羽仕置以前の天正期、南氏と櫛引氏は、四戸の地の境界をめぐり何度も紛争を

    起こしていた。
          【九戸一揆の緒戦】
        ①櫛引氏と八戸氏
        ②櫛引氏と南氏
               ⇓
              戦闘

   九戸一揆とは
   地域の領主にとって「奥羽仕置」で停止させられた地域紛争(私戦)の再発
   天正19年2月28日、奥羽仕置の担当浅野長政の家臣連署状(色部長真宛)で当時は、

 「九戸一揆」とは豊臣     政権の「奥羽仕置」に対する抵抗と言われてきた。他の資料でも

 南部一族の2・3名が逆心、または、南部家来の内、九戸、櫛引、その他、小侍が逆心と書状に

 記している。浅野長政の書状でも、九戸、櫛引の成敗と記している。
  古文書の原則では、最初の名前の者が首謀者。「九戸一揆」は、九戸政実が首謀者。櫛引氏は

 政実に次ぐ存在。九戸一揆は、戦国期の地域紛争の再発。豊臣政権への抵抗より地域紛争をもう

 一回復活させるという事。

                           □「逆意」□    □「逆心」□
奥羽仕置の際、「叛逆之族」「及異儀者」「不相届覚悟之輩」「愚意申族」と断定された、

九戸政実らを書状などから豊臣政権がずうっとマークしてきた。成敗する対象であった。

  3.豊臣秀吉による「奥羽再仕置」
    天正19年4月13日、九戸一揆を鎮圧する中央軍の派兵要請のため、南部信直は、

  南部利直(信直の嫡子)を京に派遣、6月9日豊臣秀吉に謁見、派兵要請。
    天正19年6月20日、豊臣秀吉は、朱印状を発行した、内容は「奥羽奥郡の一揆鎮圧の

  陣立て」で。
                      一番 伊達政宗
                      二番 蒲生氏郷
                      三番 佐竹義宣
                            宇都宮国綱
                      四番 上杉景勝
                      五番 徳川家康
                      六番 豊臣秀次        となっている。

    伊達政宗の調停を捨て、蒲生氏を主力とする豊臣中央軍による殲滅に方針転換。9月1日には、

  蒲生は三つの城を一日で鎮圧。9月2日には九戸城の鎮圧に豊臣政権軍が集結し9月4日に落城

  させた。書状によると9月2日~3日の間、火矢、鉄砲にて毎日攻めたとし、激しい籠城戦が

    あった。
    九戸城は、天正19年9月4日に降伏落城した。九戸と櫛引氏は豊臣秀次の本陣三迫(現・宮城県

    栗原市)で斬首された。また、家臣達は、九戸城にて処刑されたと言われています。

                                                                  (その数5千と言われる)
    従来は、九戸一揆は九戸政実が中心となって、南部信直を恨んで挙兵したと言われていた。

    現在、別の解釈が出てきた。

九戸城落城後の文禄期の南部信直の書状には、
〇昔を引きづって、九戸の親類共が九戸政実よりも戦国時代をこだわり過ぎて、九戸政実を

  滅亡においやった。
〇戦国時代、先代、南部晴政が安東と仲が悪かった。これは、先代晴政の恨みで迷惑であった。

  戦国時代は、自分の意志とは違った事を引きづっている。

本講座のまとめ
                    ◆奥羽仕置◆      ◆九戸一揆◆
二つの出来事を通じて起きた大きな転換点
転換点① 領主の配置換え
          ・津軽の独立、南部氏と伊達氏の領境接触など
          ・奥羽の「要」会津城主による中央集権的監視体制
                      ⇓
               奥羽大名の自立性の抑圧

転換点② 「戸」の領主による集団「一家」の解体
          ・戸という同族が無くなる、戦国的な考えの家系が消える。
     ・奥羽仕置により三戸・南部家と根城・八戸家が残った。
     ・戦後期、同族結合、連合体を作っていたが、ほとんど消えた。
                      ⇓
              南部信直の権力確立
                      ⇓
               奥羽の戦国の終焉


九戸一揆の時代は、戦国乱世という言葉がピッタリである。合戦により勝利と躍進、敗北と滅亡、

様々な謀略、裏切り、目まぐるしい合従連携など溢れる時代である。熊谷先生も最新の資料等で分析、

研究を紹介して頂きましたが、また、新たな資料が出るかもしれません。  

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講座1・2 ~「白川郷」「五箇山」昔と今をひも解く講座~を聞いて

2021-09-11 19:16:07 | 日記

久々の電車である、「不要不急の外出は・・・」で秋葉原の電気街もいつもの賑わいは無い感じたが、講座の方も緊急事態宣言発令中のためリモートでの開催であった。
今回の講座は、2回おこなわれる。時代の変化の中で人々が守り抜いた、世界遺産合掌造りの集落の美しさを探る。

【講座1】「日本最後の秘境白川郷の今」

講演は、白川村教育委員会の松本継太氏で、世界遺産地区内の合掌造り家屋を中心とした文化財建造物の合掌造り家屋に関する保存、知識及び村の文化・暮らし・風俗に精通している。NHK ブラタモリ「白川郷〜白川郷はなぜ美しい?〜」に出演されている。


1.白山と白川村
白山と言うと石川県のイメージが強いが、白山は単独峰でなく周辺の山峰の総称であり、厳密には富山県、石川県、福井県、岐阜県にまたがる。一般的には最高峰の所在地は、石川県白山市と岐阜県大野郡白川村となっている。白山は日本三霊山(富士山・白山・立山)の一つで最高峰は白山信仰の対象で山頂には神社が奥宮にあり各地に白山神社がある。
※霊山には色々と他の名もあげられている。
周辺は、豪雪地帯で「豪雪地帯対策特別措置法」に指定されている。「豪雪地帯対策特別措置法」は、豪雪地帯のうち、積雪の度が特に高く、自動車の交通が長期間途絶することなどから、住民の生活に著しい支障が生じている地域としている。白川村では、昭和56年豪雪では積雪4.5m、累計降雪21mとなっている。赤道に近い豪雪地帯と言われている。このような閉ざされた地域から、昭和15年7月発行の「アサヒグラフ」では「伸びゆく傳説の秘境」として取り上げられている。


2.白川村の概要
観光パンフレットなど「白川郷」として目にしていているが、白川郷は近世幕藩体制時の郷村制の自治範囲の呼び名である。白川郷は、南北30km庄川沿いの集落である、明治8年に白川郷42か村の内の23か村が今の白川村となったが、他は、荘川村(現:高山市)である。白川郷と言った場合、白川村と高山市荘川を言う。
白川村は、岐阜県北西部に位置し、両白山地により石川県と北を人形山により富山県五箇山と区切られている。村の面積97%が急傾斜の山林が占め、庄川沿いの平坦地に集落がある、大きい集落である荻町集落は、茅葺建物114棟で人口522人、129世帯である。日本の典型的な冬型の気圧配置による北西の風、大陸からの寒気が白山に吹く豪雪地帯である。人口1,546人、世帯数602世帯(R3.8月)の寒村である。県庁所在地の岐阜市より金沢市、富山市の方が近い。

                                                                                                      二宮書店 高等地図帳
3.合掌造りとは

叉首(さす)構造の切妻造り茅葺き→合掌造りの定義
日本の茅葺き民家の主流は、「寄棟造り」と「入母屋造り」であるが、合掌造りは「切妻造り」である。名称の由来は、掌を合わせたように三角形に組む丸太を「合掌」と呼ぶことから来たと推測されている。特徴である屋根の傾斜は、豪雪による雪下ろし水はけを考慮し、家屋の中で家内工業として養蚕が行われている。他にも和紙漉き、*1塩硝作りなどもあった。
中でも、養蚕は明治時代以降も継続され我が国の重要な輸出産業でもあった。
*1.火薬の原料となる塩硝製作は、加賀藩政時代の五箇山では一大産業だったそうです。

白川村のような山間にあっては少しでも農地を確保するために、住居の屋根裏を活用し建築形態も寄棟・入母屋造りより面積等において有効であった。NHKブラタモリでも放映されたが白川郷の合掌造りの屋根がいずれも妻を南北に向けているが、3つの利点からと言われている。
〇冬場に屋根にまんべんなく太陽が当たり、融雪と茅葺き屋根の乾燥させるため。
〇強風から合掌造りの風を受ける面積を少なくするため。
〇夏場の屋根裏部屋に風を吹き抜けることにより、養蚕を暑さから防ぐ。
科学的に計算しつくされた合掌造りである。
古民家の維持管理は大変である。自治体によっては、茅葺の古民家を保存しているが建築資材の「茅」や葺き替え作業は大変である。維持管理で茅葺屋根をトタン屋根に変えた古民家もある。急傾斜の屋根である合掌造りは・・・?。合掌造りもその保全のため、約30年のピッチで大規模な補修や屋根の葺き替えを行う必要があり、人手と時間を要する大掛かりな作業である。住民は、互助組織を形成、その組織を「結(ゆい)」と言う。この「結」は、鎌倉時代にこの地に根付いたとされる浄土真宗の信仰に起源があるとされる。葺き替えなどの家は、「結帳」を作成し参加者を把握する、参加した方が同じような場合は協力する相互扶助である、こうした「結」制度が合掌造りを存続させている。

なお、萱は、萱場が数か所あり、今はトラックで集めているが、昔は、急斜面の残雪を利用し束ねて滑らして集めていた。

資料  -叉首構造-
茅は雨漏りを防ぐため45度以上の矩勾配で噴く必要があり、結果屋根高さが高くなる。また軒を深く出すため垂木に強度が必要で竹や丸太が用いられた。茅葺きの屋根の構造を叉首組構造(さすぐみこうぞう)という。「叉首組構造(さすぐみこうぞう)」は伝統構法の小屋組で茅葺屋根に採用される。別名「合掌造り(がっしょうづくり)」と呼ばれ、叉首組構造は、垂木や合掌の横に渡す木「屋中(やなか)」と合掌の骨組みである丸太と垂木の上に横に渡す竹をワラ縄などで結び作られます。(中川幸生氏)                             

4.最後の秘境白川郷が世界遺産に

・昭和46年住民保存会「荻町集落の自然環境を守る会」設立
・昭和51年重要伝統的建造物群保存地区選定
・平成7年世界文化遺産登録
生糸の生産は、明治42年に世界一の生糸輸出国となりました。 輸出が始まった幕末から明治、大正、昭和の戦前までの80年弱、生糸は日本の総輸出品目の中で常に第一位、輸出の花形であり続けました。この地域も明治初期には一戸当たりの繭の生産量も飛騨地区のトップであった。
しかし養蚕業の衰退(昭和50年には無くなった)、電源開発ダム建設とともに合掌造りも大正時代の半減となり、昭和40年代には今後の生活が話題に、畜産もで出たが、当時、国鉄のディカバージャパンのキャンペーンもあり観光立村へ。昭和46年に「白川郷荻町集落の自然環境を守る会」を結成。白川郷の保存の原則として「売らない・貸さない・壊さない」とした。委員会のメンバーは、・7つの組の代表・飲食店、土産物、民宿組合・合掌家屋保存組合、大工組合・青年会、女性会・地元議員・その他推薦と多岐にわたった、これが保存活動が進んだ原動力となったのだろう。昭和51年には重要伝統的建造物群地区に選定され、平成7年には世界文化遺産に登録された。
世界遺産としての普遍的価値は、・合掌造りのその特異な形態と希少性(建築的な価値)・ほとんど消滅してしまった合掌造りの集落のなかでかつての集落景観を残すわずかな集落(集落景観の価値)・それらの価値が守られている(真正性の保証)で、とりもなおさず長年の努力の成果が結実した。


5.世界遺産から25年
・観光客数の推移 平成7年年間70万人→平成31年度年間200万人
急激な観光地化は、地域社会に様々な問題を引き起こしている。生活道路にまで観光客の自家用車が多く、村も交通社会実験により大型バスの通行規制など交通対策に取り組んでいる、旅館・土産物店・喫茶店などが建てられ唱和40年代の景観を守るのが理想でも急激な観光地化の波が大きい。

画像資料:講座リモート写真
        講座資料抜粋
        白川村観光振興課パンフレット抜粋

 

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