爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

東京都水道歴史館見学と講演会(玉川上水と分水)を聞く

2017-02-24 16:57:32 | 日記
水道歴史館という施設がある事を知らなかったが、たまたま都内の立ち寄り先に置いてあったチラシで知った。早速、講演会を申し込みをし出向く。
水道歴史館は、1階が近代から現代までの水道供給・敷設の取り組みと展示、2階が江戸時代からの水供給の歴史を懸樋、長屋の復元、木桶の実物展示や、玉川上水を造った話をアニメーション模型、電気パネルで説明している、3階は、レクチャールームと水道関係の書籍となっている。
日本は、江戸時代から世界的にも人口増加が顕著で、江戸~東京の400年の水道の歴史、技術の進化が実物資料、再現、模型、映像などでわかりやすく紹介している。中でも、江戸時代に3部作られた「上水記」の公式記録が完全な形で残されているは歴史館だけで、親子で勉強できる施設である。









■講演会■
歴史館では、毎月企画行事がおこなわれているようである。この日も「玉川上水と分水」-武蔵野台地の開発ー の講演会がおこなわれた。
武蔵野台地は地下水位が低く、玉川上水の分水で新田開発、人口の増加が進んだ。講演では
分水の歴史、分水場所、分水路の工夫、分水にともなう水争い、分水制限等が話された。なかなか聞けない話を聞くことが出来た。
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梅を楽しむ亀戸散策

2017-02-24 09:33:42 | 日記
退職者の会の幹事Mさんが梅の観賞と供に寺社巡りのコースを選んでくれた。
亀戸の由来は亀ヶ井という古い井戸があったとか、この地が亀に似た島だったからと言う。江戸時代は、寺社、下屋敷、田畑の地域であった。畑では大根が有名で、江戸市中へ「亀戸大根」として出荷していた。降りた駅が東武亀戸線「亀戸水神駅」で都内とは思えない駅構えで、街そのものが昭和で止まったような感じである。
亀戸水神宮は、駅名にもなっているので大きい神社かと思ったら、交番裏の小さい神社であった。創建年代は、はっきりしないが古地図には載っていたようで、水害から免れるために建立された。


亀戸水神宮から5分ぐらいの所に常光寺がある、珍しい形の本堂があり、境内にはこれまた珍しい石仏や江戸時代に流行った江戸六阿弥陀如来詣での阿弥陀如来道道標があり、亀戸七福神の寿老人を祀っている。


亀戸七福神の弁財天を祀っている東覚寺に行く途中に石井神社があった、何とも神社らしからぬ神社名である、俗に「おしゃもじ稲荷」とも言われ、咳の病を治すとの信仰があり、「しゃもじ」を借りて自宅で拝み治れば新しい「しゃもじ」を添えて返却する。ご神体が石棒で石神(せきしん)と呼び「せき」が咳に通じることから言われている。境内には「しゃもじ」が2本置いてありました。
東覚寺は、七福神の弁財天を祀っているがお堂が入って右手にあり。入口には道標が建立されていた。


東覚寺を出て明治通り沿いに香取神社がある。藤原鎌足が太刀一振りを納めて旅の無事祈願をしたのが起源という、江東区最古の神社で、スポーツなど勝負事の信仰を集めている。




香取神社を出て隣の龍光寺に立ち寄る、もう11時を過ぎMさんの案内ハガキに割烹升本の事を書いていたので早速に入る。明治38年に酒屋として創業し現在は亀戸大根とあさりの料理で人気がある。私たちは限定10食の料理を注文し美味しく頂きました。八百屋ではほとんど見ない亀戸大根は、今、見かける大根より小ぶりで、明治時代頃までは一般的だったようだ、ビタミンCが通常の大根の10倍もあるそうだ。




食事の後、亀戸天神に。江戸時代の古地図にも表記されている有名な神社で富岡八幡宮と並ぶ江戸の観光名所となり、文人墨客が訪れている。菅原道真が祀られており、学問の神様として信仰を集め、歌碑など数多く残されている。訪ねたときは梅が綺麗に咲き誇ろんでいたが、藤棚もあり安藤広重の「江戸名所百景」にも描かれている。




亀戸天神の隣にあたる所に普門院がある。この地で創立ではないが現地に移転するときに梵鐘が隅田川に沈んだ、そこが鐘ヶ淵という地名の由来となったと言われるが、どうなんだろう?。墓地には「野菊の墓」で知られる「伊藤左千夫」のお墓があった。このお寺は、毘沙門天が祀られている。


普門院を出て、次にいく、梅屋敷伏見稲荷神社は裏路地にひっそりとありました。昔はこんなではなかったのだろう、梅屋敷として栄え屋敷神である。梅屋敷の面影は今はないが唯一この神社が残っているのと、近所に梅屋敷跡の碑があるだけだ。さらに北にむかうと祐天堂がある。祐天堂はお寺かと思ったが北十間川の川岸にあるお堂であった。浄土宗の名僧祐天上人がこの地で引き上げられた死人を読経回向したことを、土地の人々が遺徳を偲びお堂を建てた。祐天は、目黒の祐天寺を開山した名僧で諸国を行脚し教化した。


亀戸散策も終わりに近づき、天祖神社と龍眼寺と回る。天祖神社は、龍眼寺と供に創建さたと言われている、亀戸七福神の福禄寿の神社として、また、パワースポットの神社として人気が出てきた。隣の龍眼寺は、萩寺として有名で、布袋尊が祀られている。境内は整備が行き届いており、芭蕉の句碑などが残されている。




亀戸駅に向かう途中、船橋屋本店(1805年創業・くず餅の老舗)で一休み、高齢者団体には甘い物のエネルギー補給も必要である。春一番の中、帽子を押さえながらの散策の時もあったが、梅三昧と美食の一日であった。

【その他のPhoto】



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城下町の近代化 ~絵図から地図へ~

2017-02-17 20:06:45 | 日記
埼玉県立文書館で企画展示が行われていたので見学に行ってみた。
この展示会は、1/14から3/5まで予定されているが、この日は県の学芸員の方が、説明していただける日であったが、やはり、地図や古文書、説明パネルを見ただけとは理解度が違う。


城郭の絵図から近代になりどう変わったか地図と古文書にて検証されていた。
今は、お城ブームで姫路城、小田原城、そして地震で修復中の熊本城など、お城の残っている都市にとっては、現在いい観光資源でもある。
埼玉県ではどうだったのだろう、企画展では、忍(行田市)、川越(川越市)、岩槻(さいたま市)を比較した、三城は江戸幕府にとっては防衛上の特に重要な城で「老中の城」と言われた。


明治政府は、明治6年に「廃城令」を発布し全国のお城が壊された。海外のお城は住まいという考え方が強いが、日本の城は、軍事要塞(水堀・空堀・土塁など)である。城だけだはなく「町割り」も「喰い違い道」「鍵の手道」「丁字路」など町人、農民を巻き込みながら防備してきた。新政府にとっては反乱が怖かったため「廃城令」出したが、維持する経費負担も大きかった。
埼玉県でも堀が埋められるなど、公共施設や田畑に変わりました。
新政府では城郭を管理していたのは陸軍省で、県から取り壊しの「伺い書」が残されていた。都市の近代化の中で古い「町割り」の課題が残り、いまだに道路が残されたり、鉄道と城が離れているなど、今も昔も都市計画は難しい事を地図が語っている。

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