爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

小江戸川越 新河岸川舟運めぐり

2018-06-08 19:58:44 | 日記

新聞に掲載されていた「新河岸川舟運めぐり」の参加のため新河岸駅に降りる。構内のトイレは列をなし中高年の異様な雰囲気である。(普段はこんな光景はないのだろう)思わず私もその一人だ・・・

9時受付開始なのにもう列ができていた。受付を済ませ20人程度のグループに分けられ出発。観光コースでないためガイドさんにお任せである。新河岸川の方に向かう、途中、勝光寺と砂氷川神社に立ち寄る。勝光寺の墓地の中に小さいお堂があった、弥陀堂と言い慈覚大師の作と伝えられている、石仏・墓石を見ると古い感じがする。
砂氷川神社は、延享元年(1744)の創建と伝えられる、この年の2年前に大洪水があり、災害被害に対して川を鎮めるために川の神である氷川神社を祭ったと言われている。
境内にある2本の樹木が市指定天然記念物との説明書きがありました。
☆シラカシ
創建年の延享元年(1744)に植栽されたと見られ樹齢270程度と推定。樹高約19m、幹周り約4m、枝張りは直径約14~19m、シラカシは日本列島の暖温帯に成立する照葉樹林の代表種で縄文時代には照葉樹林文化を育み近世から近代にかけては防風林や生垣、道具の柄などに利用され、人々の生活と密着してきた、威容を放つ当シラカシは「川越市の木」として位置付けられる。
シラカシは、ご神木で鳥居の左にあり、大小のコブを持つ根元は石垣を抱き込んでいます。

☆イヌツゲ
樹高5m、幹周りは1m前後、イヌツゲは年輪成長が極めて遅く、1m以上に達するまでには神社創建時の延享元年(1744)頃と見ることができる樹齢は270年程度と推定される。イヌツゲは常緑の低木で県内では通常樹高2~3mであるが、当イヌツゲは際立って大きさを誇り、江戸期からの文化的伝承物としての価値が認められる。

上新河岸地区を歩き旭橋に出ます、ここが「新河岸 河岸場跡」です。現在の川越市を繁栄を築いたのはこの河岸場跡からと言っていいかもしれません。
新河岸川の舟運は、江戸時代(寛永15年1688)に仙波東照宮が火災で焼け川越藩がその再建用資材を江戸から運ぶために新河岸川を利用したことで始まったと言われています。 翌年の寛永16年、川越城主「松平信綱」は、荒川へと続く新河岸川を改修。水量確保のため、荒川の交流地点まで「九十九曲り」と呼ばれるほどの屈曲をつけ、江戸ー川越間の舟運体制を整えました。当初は年貢米を主していたが輸送品も多岐にわたり
川越→米・麦・穀物・さつまいもなど農産物・材木
江戸→肥やし・日用雑貨
その他、人の行き来などもありました。(輸送品は、年代によって変わります)
舟の種類は、
       並船→花川戸(浅草)まで一往復7・8日から20日かかる不定期荷船                       早船→乗客を主とする屋形船
              急船→一往復3・4日かかる荷船
              飛切船→今日下って明日には上がる特急便

「新河岸 河岸場跡」の近くにあるのが「日枝神社」である、台地状のところに建っているが、その下に新河岸川がながれているが台地の先端から湧き水が流れている。日枝神社の境内には「観音寺」というお寺も祀られています。

周辺は、舟運関係の問屋等が軒を連ね活気で溢れていた。当時の船問屋の一つ「伊勢安」が唯一現存し面影を残している。NHK「ブラタモリ」でも放映されている、蔵が三つあり道路に面している方から味噌蔵、米蔵、素麺蔵。素麺は川越の特産品で将軍家へ舟運を使って献上されました。埼玉県は、いまでも小麦の生産高が高い県です。
伊勢安は、明治3年に建てられ一部改修され現在にいたってます。当時の船問屋としての帳簿も残され明治時代中頃には東京へ米、醤油、油粕、綿実などの農作物、東京から砂糖、酒など加工品の輸送が記録されている。川越の舟運は昭和の始め頃まで続いたが鉄道・トラック輸送に取って代わった。

旭橋から土手沿いに川越駅方面に向かって歩く、途中、厳島神社に立ち寄る、この辺は「扇河岸」と言い川越には「川越五河岸」といって五つの河岸があり、その中で一番川越の街に近い河岸場ですが面影がありません。厳島神社は、中心となる神社で手水鉢、燈籠など古さを感じる神社です。

さらに新河岸川を北上し仙波地区に入り新河岸川を離れ「仙波河岸史跡公園」に入る、この公園は、仙波河岸の河岸場跡地を整備したもので、新河岸川の始まりだった所である。新河岸駅から5K以上歩いてきたが休憩するには樹木があり良い場所である。トイレも済ませ最後の立ち寄り先である仙波氷川神社に入る。

大宮氷川神社を総本社とする神社である。境内には、稲荷・八坂神社が祀られている。また、「川越祭り」の仙波町の山車「仙波二郎安家」の保管庫がある。古墳もあり、この辺がかつては中心であったのだろう。

今回は、「小江戸 川越」の観光コースでない地域を散策したが、現在の川越発展が水運によってもたらされたかが勉強になった。

【その他のPhoto】

                                               

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今年も参加しました

2018-06-03 18:27:50 | 日記

安倍三選は、まっぴらごめん。

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品川~青物横丁、旧東海道を巡る散歩

2018-06-01 15:43:46 | 日記

5月の「退職者の会」日帰り散歩は、品川から旧東海道を巡る散歩を計画していただきました。今回は、京浜急行本線の北品川~新馬場~青物横丁を散策、駅でいうと3駅だが、寺社が多い地域である。
京急北品川駅で下車し、東側の道なりに「土蔵相模跡」の碑があった、「相模屋」という旅籠の外壁が土蔵のような「なまこ壁」だったため「土蔵相模」と呼ばれた、1862年に高杉晋作らは「土蔵相模」で密議をし御殿山英国公使館建設を焼き討ちしたといわれ、歴史的な舞台となった所である。同じ通りには「問答河岸」の碑もあります、3代将軍徳川家光が東海寺に入るとき沢庵和尚が迎えに出て禅問答をした場所である。(実際はもう少し南側とのこと)
             将軍「海近くして東(遠)海寺」とはこれ如何に」
             和尚「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」
この辺は、海が近いからさらに東側に行き海への入口を探したが埋立が進み、ビルが並びわからなかったが北品川橋(大正14年竣工)の所に「船だまり」があり、屋形船などが係留されていた、この辺は「品川浦」といわれ江戸時代の漁村で風情がある風景でる。

「船だまり」から南に歩いていくと、「鯨塚」と「利田(カガタ)神社」がある。「鯨塚」の名の通り寛政10年(1798)に一頭の鯨がまぎれ込み将軍も見に来るほどの大騒ぎで骨は利田神社に埋められました。

ここから旧東海道に戻り善福寺に入る。
善福寺は、土蔵造りのため古さを感じるお寺である。正面入口の上部には漆喰鏝絵(しっくいこてえ)の龍が描かれている。名工といわれた伊豆長八か弟子の作だといわれているが、残念なことに剥落が激しい。

隣にあたる法禅寺は、江戸三大飢饉の一つ天保の飢饉で品川宿に流れ着いた人を葬った「流民叢塚碑」が建っている。

この後、一心寺、養願寺を回り西側にある品川神社に着く。文治3年(1187)に、源頼朝が勧請した古社である。大鳥居の左右の石柱には見事な龍の彫刻が施されている。境内には浅間神社が祀られ富士塚があり、ここからの眺めは現在でも格別である。

裏手には自由民権運動で有名な板垣退助と婦人の墓石がある。墓石は社域外になるが境内から続いている。何とも不思議な一角であるが、かつては東海寺塔頭高源院の墓地で震災移転で墓地だけが残ったといわれている。

さらに南に歩き目黒川そばの東海寺に入る、3代将軍家光の命により沢庵のために創建された江戸時代の代表的な古刹であり幕府より優遇をうけた。

目黒川を渡り、大名墓域で見事な庭園の「清光院」、三重塔を有する本光寺に立ち寄り新馬場駅の東にある「荏原神社」を訪れる。

「荏原神社」の創建は、品川神社より古い和銅2年(709)で品川の龍神様として源氏、徳川、上杉など武家の信仰を受けてきました。荏原神社前の朱色の鎮守橋を渡り海徳寺に、戦国時代中期頃が始まりと言われ、本堂は寛延4年(1751)に建立され品川では古い物と言われている。境内には「軍艦千歳殉難者之碑」がある、明治39年(1909)軍艦見学のための伝馬船が突風のため転覆市民・乗員83名が亡くなられ慰霊碑で、その他、野球のバットを抱えた地蔵像がある、「ホームラン地蔵」と呼ばれ、心臓疾患のため14歳で亡くなった少年を供養したもので元ジャイアンツの王貞治が少年を見舞いホームラン王になることを約束した。

さらに南に歩き「常行寺」に入る、本堂は江戸中期の建物で当時の本堂建築を知ることができる、境内には煉瓦造りの地蔵堂がある、煉瓦なので古くはないが珍しい。

常行寺の南隣にあるのが閻魔さまで有名な長徳寺、開創したのが徳川家の先祖といわれ、歴代の将軍より寺領安堵の朱印状が交付されている。閻魔堂に安置されている「閻魔王座像」は、均整のとれた木造で鎌倉期の作と伝えられている、江戸時代には「地獄の釜のふたが開く」といわれ陰暦1月・7月の16日信徒があつまり念仏を唱えたいう。

さらに南に歩き「天照国寺」に、「徳川家ゆかりの寺」鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創し以来、地域の有力者に保護されてきた。徳川家康が関東に入国した際に宿泊、以来、将軍が江戸を離れる際の宿舎として利用された。墓地には、浪曲の「桃中軒雲右衛門」、劇化された実在の「お祭り佐七」、一刀流の開祖「伊藤一刀斎」など有名人のお墓もある。

北品川駅~新馬場駅~青物横丁駅を中心に寺社めぐりも最後の本品寺に向かう。途中、マンションの角に「碑」があった。「幕府御宿 釜屋 跡」とある、南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちが休息したり、見送り、出迎えの人たちと宴会を開いたりした。繁盛したので本陣のような構えに改築しました。幕末動乱の頃は、連日のように利用、宿泊した記録が残っています。新撰組の土方歳三、隊士などもここを利用しています。

品川寺は、品川神社が「しながわ」と呼ぶのに対し品川寺は「ほんせん」と音読みとなっている。この「品川区」の由来は、諸説あるがこの一帯を「品河氏」が支配していたともいわれている。
品川寺は、品川区では最も古い平安時代からある古刹である。入ってすぐ左に「江戸六地蔵」があり第一番目とされている。境内にある「大梵鐘」(国指定重要美術品)は、「洋行帰りの鐘」と言われ江戸時代末期に海外に流出し行方不明となり、昭和になりスイス・ジュネーヴの個人、美術館に保管されていることが判明し返還交渉後に返還された。この事から品川区とジュネーヴ市が友好都市提携を結び青物横丁駅前の通りの呼び名が「ジュネーヴ平和通り」と名付けられた。
                                            

品川宿は、江戸四宿(千住・内藤新宿・板橋・品川)の中では大きい宿場でそれだけ歴史的寺社や遺跡等が多く、散歩する場合、分割して訪れた方がよいと感じた。東京23区で戦前から区名が現在まで続いているのは品川区だけである、それだけ都内では歴史のある品川区である。

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