こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

剪定しないでいたら

2018年02月13日 | ガーデニング・菜園・花・緑

あまりの寒さのせいだと思うが、レモンの葉っぱの一部が黄ばんで丸まってしまった。根元に腐葉土をまいてみたけど、どうだろう、また元気になってくれるか。今日からまた寒さがぶり返してくるとのこと。今朝は−1.5度だった。暖かくなったり、寒くなったりするのはよくわかっているけど、仕事の再開に合わせて寒くなるのには参る。

ところで、妻のバラ、剪定しない方針とのことで様子を見ていた。というのも12月ごろには蕾がいくつかついていてそれがかわいそうで切れないというのだった。私も花のついている草木を切るのは気が進まないたちなので、賛成していた。

観察していると、1月の間中蕾のままじっとしていた。途中でこのまま枯れてしまったのかと思ったりもしたのだけど、見ていると少しずつ大きくなって花びらの赤が見えるようになってきた。そして、先日の暖かい日にはまた一歩前進して、右下のようになった。あと2週間ぐらい待てば開いてくれるだろうか。

蕾はほかにも7、8個ある。全てが咲くまではまだひと月以上かかるだろうけど、楽しみにしている。

バラは冬の間栄養分を蓄えるから、余計なエネルギーを開花に使わせないようにと、”大胆に”剪定して丸裸にしてしまうのが育て方の定石だ。でも、この寒さの中、雪をかぶっても力強く花開こうとしている蕾たちを見ているとこちらの方がエネルギーをもらえる。もしかしたら、今年このバラあまり大きく育たず、去年のようにたくさんの花をつけることはないかもしれないが、それでもやっぱりこの蕾たちを切り捨てるというのはしないほうがよかったと思うだろう。

害虫には要注意

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弟の入居の手伝い

2018年02月12日 | 家族のこと

今朝もいい天気だったので、昨日と同じような陽気だろうとたかをくくってナイトと散歩に出たらあに図らんやずいぶんな寒さで驚いた。

もっと日が高くなって暖かくなってから歩いたらいいのだけど、今日は用事があって早めに動く必要があった。

私には弟と妹がいて、弟はダウン症だ。50歳を過ぎて、都内にある実家の近くのグループホームに入居することが決まった。入居するにあたり、その引越しのお手伝いをした。弟の部屋は六畳一間なので大したものは入らないが、それでも何やかやとあり私の車に押し込んで、運び込んだ。障害のある人のためのグループホームのようなものが必要だというコンセプトで会社を興したということで、ちょうど今日は社長さんと、そのホームの寮長さんもいて挨拶ができた。

重いものを運んで、大丈夫かと思っていたのだけど、筋トレのおかげか、ちょっと腰が痛くなったが、ほとんど問題なかった。

昨日今日はこれで

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木の芽どき、三寒四温、春の訪れ

2018年02月11日 | 鎌倉暮らし

 やっときた休日。ナイトを連れて散歩に出たら、あちこちで梅の花が咲いている。春の訪れを実感する。昨日の晩から気温が上がり、今日は10度以上になりそうだ。かわいそうに、勘違いして出てきてしまったカエルが車に轢かれて死んでいた。啓蟄(3月5日)まではまだ少し日がある。

 ベランダに置いてある餌台には、この間までスズメとメジロとシジュウカラだのの小鳥がきていたのに、ヒヨドリがやってくるようになってからはひっくり返すので、餌があっという間になくなってしまう。困ったものだ。これもまた、少しずつ季節の移り変わりを教えてくれているということなのだろう。


 暖かい日が少し続いて、また寒くなる。三寒四温とはよく言ったものだ。このブログでもこれまで2度ほど使っている言葉で、いずれも2月で、1回目は2008年2月6日(『今年の冬は・・・』)で、もう1回は2015年2月17日(『今年の冬は・・・』)。今日は建国記念日で2月11日だから、まあ真ん中だ。

 木の芽どきともいう(ちなみに、この言葉は2008年3月24日に1度『木の芽どき』)。日差しに力強さが戻り、木々が少しずつ元気を出し始める。

 昨日、1月いっぱいの締め切りだった原稿がほぼ完成して実際嬉しいのだが、沈みがちだった心も日の光とともに明るくなる。

 でも、季節の変わり目は、体調を崩しやすい。とくに、寒くなった日は気をつけなくてはいけない。

いよいよ私も始動

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読解力の著しい低下・・・2018年1月の読書記録

2018年02月10日 | 読書、映画、音楽、美術

久しぶりに本を読んだらまったく頭に入ってこない。理由はすぐにわかった、読解力が著しく低下しているのだ。

原因は明らか。ここのところほとんど本というものを読んでいない。読書記録で報告することがなくなっているというのが恥ずかしながら事実を明白に物語っている。最近読むのは、フェイスブックにツイッター。フェイスブックは写真がほとんどだし、インスタグラムなんて写真だけだ。ツイッターも140字。センテンス(一文)だけで、文章(一文を連ねたもの)とは言えない。新聞だって、一つ一つの記事は短い。ブログも読むが、結構書き込んでいると思える人のもので2,000字程度だ。仕事で病理学の本を読むこともあるけれど、画像半分、文章半分だし、理解すればいいので、”読解力”はあまり必要ない。

これまで、本を読まなくちゃいけないと危機感を持つことは何度もあった(「若いうちしか本は読めない」2016年8月3日ほか)けど、読書記録での報告だけはほぼ毎月やってきた。だが、ここ数ヶ月はほとんど読んでいないので報告することがない。

読書力が低下して、読むことが億劫になるという、負のスパイラルに陥っているのは明白。意識して文章を読む努力をしよう。読書も筋トレと一緒で、怠るとすぐに力が落ちるのだ。

 

ちなみに、1月に読んだ本はわずか2冊だったけど、遅ればせながら報告を。

 1月の読書メーター
読んだ本の数:2
読んだページ数:476
ナイス数:53

職場は「話し方」で9割変わる (リュウ・ブックス アステ新書)職場は「話し方」で9割変わる (リュウ・ブックス アステ新書)感想
著者本人の経験、伝聞、アンケートなどからまとめているが、ご本人がごく普通の人なのが微笑ましい。とくに奥さんとのことを読むと、亭主関白丸出し。つまらない中にも、生き方のヒントはあったので、拾い読みに近い状態で読了。
読了日:01月28日 著者:福田 健
神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)感想
かえるくん、東京を救うを読もうと久しぶりの再読。 新潮文庫で表紙は蛙の絵。やっぱり、いい話だった。UFOが釧路に降りる、蜜蜂パイも秀逸。とくに蜜蜂パイは騎士団長殺しの下書きだったのではないかと思わされる話だった。 感想を登録したら、なんと再再読だったことが判明!また感想を書いてしまった。 前回は2010年、東日本大震災よりも前だった。
読了日:01月21日 著者:村上 春樹

読書メーター

 

しっかりした文章を読む

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一例一例、すべてが症例報告

2018年02月09日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

臨床医は患者さんに寄り添い経時的に診るが、病理医は検体が患者さんから切り離された出てきた時点の診断を下すという点で、大きく異なる。臨床医は”ある時点”で、診断が必要だから患者さんの体の一部から組織を採取して診断を病理医に委ね、病理医はそれに応じる。臨床医は、診断結果から今後のことを検討していくけれど、病理医は診断をつけた時点で一旦おしまいとなる。

もちろん、それきりで患者さんとお別れというわけではなくて、手術検体での診断確定とか、治療効果の判定だったりとかで組織は何度も取られてくるが、それはその都度そこでおしまいだ。

だから、病理医は診断に際して、その時点で考慮しうる全てのことを記載する必要がある。採取されてきた組織、例えば乳腺とか胃の生検だったらそれが癌かそうでないか。その手術検体だったらそこに腫瘍はあるか、それはどのような腫瘍か、とかいったことを診断書に記載する。多くはこれまで経験されてきたような病気でだし、量も限られているので、診断書に記載することはそれほどないけど、診断が難しかったり稀な疾患もある。どんな症例でも全力で診断しなくてはいけない。そういう意味で、病理診断報はその都度症例報告を行なっていると言っていい。

昨日、仕事をしながら頭を抱えて『これ(病理診断)って、すべてが症例報告じゃない!』と、呻いたのだが、呻きながらも『これ、いいフレーズじゃない!』と書き留めておきたかっただけで、延々と書き連ねる時間は今のコロ健には残念ながらないので、今日もこの辺でおしまいにします。

さあ、今度はどんな症例が

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また、少し煮つまってきた

2018年02月08日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

また、少しずつ忙しくなってきた。締め切りを少し過ぎている原稿もある。
電車中の時間も仕事と勉強に充てなくては行けなくなってきた。
ということで、しばらくは、短めで。

昨日、今日の写真は荏柄天神の参道の梅。ここしばらく、鶴岡八幡宮にいっていないけれど、あそこの梅も満開だろうか。

なら、普段からやったらいいのに・・・

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少し嬉しい電車の遅延

2018年02月07日 | 通勤・交通・旅行

分単位の遅れも許されないというプレッシャーの中で日々神経をすり減らしている日本の鉄道会社の方々には申し訳ないが、少しぐらいの遅れはいいんじゃないかと思う。



今朝、駅に着いたら、改札上の電光掲示板にちょうど到着しているはずの列車の案内が出ている、ラッキーまだ来てないとばかりに、ホームに駆け上がって、ちょうど滑り込んできた列車に乗ることができた。遅れは2分。これぐらいならまあ許せるかな、と自分がちょっと得したからか、手前勝手にそう思ったのだけど、これってやっぱり勝手だろうか。


10分発の電車が12分に出たらそれは12分発なのかと考えていたら、いつのまにか10分発の時刻に追いついていた。

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心の闇の生み出す快感

2018年02月06日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

このまえ観た映画「スターウォーズ/最後のジェダイ」が拍子抜けだったのは、人の心の闇、ダークサイドとこれに対抗するライトサイドの戦いがほとんど描かれていなくて、ただのSFアクション映画となっていたからかもしれないと思った。あれなら、銀河英雄伝説の宇宙海戦の方がよほどいい。スターウォーズ、アナキンがダース・ベイダーになってしまった理由が愛する人のため、というあたりから心の闇の描かれ方が甘くなっているような気がする。それはさておき、私、コロ健の心の中にも闇がある。それも、とっても深くてドロドロしたもの。嫉妬、焦り、不安、怒り、いろいろな種類の心の闇がとめどもなく溢れてくる。自分でそれらを自覚すること自体不愉快になり、余計にそれらの感情が増幅される。昨日も、そのことで妻と言い合いになったりと、ここのところそんなことで心がざわつくことが多い。

そんな時、かつての同僚が「怒るのって、気持ちいい」と言っていたのを思い出した。怒りをコントロールすることは難しい、だからその場から立ち去るのだと言っていた。心の闇、といっても実体はそんな、気持ちいい、自分にとって楽しいものなのかもしれない。ある意味、中毒症状のようなものだ。”心の闇”にもなんらかの”快感物質”が分泌される仕組みがあるのだろう。”心の中の闇”を増幅させたら、快感物質が分泌されるから余計にそれを増幅させる。でも、なんとか眠ってしまえば、それらは忘れてしまう。これってタバコと同じだ。タバコの中毒症状、すなわちニコチン中毒の禁断症状はとても弱いもので、中毒とは意識できないほどだし、眠ってしまえば症状はほとんど出てこないから、朝までぐっすり眠ることができる。


快感物質、といってもヒトの体の中にある各種ホルモンは全て知り尽くされている。だから、なんらかの物質が単体で出てくるから、というよりは、ノルアドレナリンのほかに、アドレナリン、セロトニン、オキシトシンとかのホルモンのバランスが変化することで心の闇が出現するのだろう。仕組みがわかれば解決は簡単だというほどではないけれど、心の闇が快感に結びつくことを知ってしまえば、なんとなくバカバカしくなる。人を恨むことが結局は自分を慰めているだけ、正当化して存在を確かめるだけのことでしかないと自覚すると、自分の存在がとても哀れに思えてくる。怒りっぽい人なんて、いつも快感物質を出して悦に入っているだけなのかもしれない。まるで、タバコが目に沁みるとかでしかめっ面をしているのと同じだ。

映画スターウォーズの中では「フォースのバランスが崩れる」という言い回しがあったけれど、これと同じようなことが心の中で起こっているといえる。だから、あの映画は一人一人の心の中の葛藤を壮大な宇宙に置き換えているのだろうと思える。NHKのテレビアニメ「3月のライオン」で、ヒロインが猛烈ないじめにあう話がある。いじめる側は心の闇、ダークサイドが猛烈に増幅している状態が連続していて、快感物質が出まくって、楽しくて制御が効かなくなっている。でも、どこかで心の闇に対抗する思いが残っていて、いじめを止めるきっかけを求めてもがている。アニメではやがてライトサイドが勝利していじめは収束する。禁断症状に打ち勝ったのだ。でも、無理やりやめさせられたニコチン中毒はしばしば再発して、禁煙は失敗するから、いじめもまたどこかで起こるかもしれない。私自身の中の心の闇もこんな仕組みで動いているのだろう。少しでも隙があれば、大きくなろうとする私の心の中の闇を、ライトサイドが抑えている。このブログは、私の心の中のライトサイドを強くするためにとても大事なものであるのは確かだ。

心の闇に立ち向かうには勇気が要る

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時々立ち止まりながら生きる

2018年02月05日 | 生き方について考える

東の空が明るくなるのと、起床時間が同じになってきた。窓を開けると凍りつくように寒いけど、顔出すと少し先のお屋敷のケヤキが影絵のようで美しい。

先週末はゆっくり休むことができなくて残念だったけど、仕方ない。一緒に仕事(研究)をしようといってくれる仲間がいたらそれは快く引き受けるしかない。班会議が終わってからは都内の両親のところに顔を出し、迎えにきてくれた妻と一緒にあれこれ世間話をした。二人とも緩やかに体は衰えているし、話しているとちょっと噛み合わないこともあるけれど、まだまだ元気で嬉しい。

こうして毎日毎日は慌ただしく流れていくけど、このことをどう捉えたらいいのかわからなくなる時がある。昨日のように発表前にテンションが上がっている時は、自分の人生における立ち位置なんて考える余裕もないけれど、その準備とか、前後の過程で気がついたこと、誰かと話したことのいくつかは結構重要な問題をはらんでいて、まだ解決できていないことが多いと終わってから気がつく。さらには、自分の存在とは何か、なんのために存在しているのか、そして自分がそれらのことを解決できていないまま存在していていいのか、そういったことを考えることに意義はあるのか、それともそういったことを考える必要などないのか。喧騒の時間をすぎて立ち止まってみると静寂の中で我に返る。

今では、様々な手段で多くの人が考えを発信しているけど、それらをどう自分の中で消化していけばいいのか、それらの”思考”の嵐にどう立ち向かっていけばいいのか。誰も答えを持っていないに違いない。一昔前までは、高尚な哲学者が高尚な思索の結果をわかりにくい言葉で語っていたけれど、どうも最近の多くの人の考えというのはそれほど高尚でもないし、高尚である必要もない気がしてきている。そういう人々を”大衆”として片付けていることはできなくなってきている。全ての人の思考は平準化されつつあり、誰の考えは正しくて、誰の考えは間違っているというようなことはすでにあり得ない。コロ健が、自分の考えを開陳しているこのブログだって、一つの思考の塊で、思想といえるものだけど、一人の人間が日々これだけ様々な考えをして、妥協を含めそれなりに結論を出し続けながら生きているということ自体、説明がつかない。

自分のあり方、ありよう、とかいったものを考えた時、それをポジティブに捉えていくか、深く考えすぎて悲観的になってしまうかどうすべきかは難しい。一体なんのために生きているんだ、なんてことを考えて、絶対的に正しい答えを持っている人などいないから悩むわけど、考えること、悩むこと自体を避けてはいけない。日々仕事が忙しいからといって、考えることを回避していては、終わった時、自分は一体何をしてきたのだということになる。仕事の成果も大切だが、それ以上に目的、プロセスはもっと大事だ。それこそが自分が自分の中にだけ持つことのできる人生の成果だ。何かをしようとする時、熟慮するまでの時間を取る余裕なんてないかもしれないけれど、多少なりとも目的とか大義といったものを自分の中に持つ努力をした上で、取りかかるようにしたいと思う。そうすれば、誰かかわりがいたかもしれないけれど、そのことは自分でなくてはできなかったことと、自分に言ってあげることはできる。

大事なのは自分で納得すること

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ネクタイ締めて班会議

2018年02月04日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

久しぶりにネクタイを締めて出かけた。研究班の会議が都内であり、コロ健もメンバーの一人として出席した。研究班会議は研究仲間の情報交換と勉強会。研究者だけの集まりだから、別にネクタイをして行かなくてもいいのだけど、今日はなんとなくそういう気分だった。もともと患者さんに接することがほとんどない病理医にネクタイは基本的に不要だ。でも、今日はそれをしていったというのは、やっとこさ自分なりに出せた成果を”引っさげて”プレゼンできるのが自慢だったのかもしれない。



研究班というのはこの疾患を解明するため、治療するための研究を行おう!と思い立った専門家が班長になって、その道の専門家を日本中から集めて研究班を組んで、3年ぐらいのスパンで研究を行うものだ。研究班によんでもらうというのはその道の専門家ということで大変名誉なことではあるけど、それだけに責任も大きい。研究班は一つのチームとして全員が協力してやっているので足の引っ張り合いは無いのだが、個人個人がそれぞれの持ち場で頑張らないといけない。他にもっとふさわしい人がいるのに自分がそこを占めているから疾患の解明が進まないなんてことがあってはいけないのだ。プレッシャーにもなる。
それだけに今日のプレゼンの内容は病理医としてやっと見いだすことのできた成果なので嬉しかったのだ。病理医でなければ見いだすことのできない所見というのがある。ある細胞があるタンパクを出して、その受容体タンパクを持つ細胞がシグナルを受け取って反応して病変を形成する。そのシステムは3段階ぐらいで解釈しないといけないし、そこで誰が見てもそうだという解釈ができなくてはいけない。そして、最終的には論文化しなくてはいけないのだが、やっとその足がかりがつかめた。



まあ、そんなわけで班会議の研究仲間に私の成果を自慢したくてネクタイを締めて行ったのだった。

でも、いざ来てみたら、ほとんどの先生がネクタイを締めていたし、それぞれが立派な発表をされていた。私ばかりではない、みんな頑張っている。

寒くなくてよかった

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もう2月、鬼は外へ

2018年02月03日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

大雪に気を取られていたら、いつの間にやら2月3日、あしたは立春。早いものだ。夜の明けるのもいつの間にか早くなっていて、真っ暗な中を出るということはなくなった。

やはり、太陽の光を浴びないとスイッチは入らない。2月は瞬く間に過ぎてしまうから、目をしっかり開けていないといけない。

プロ野球のキャンプインとおなじで、小さい研究会が春の知らせとともにいろいろ始動する。

自主トレ期間に何をどれだけやっていたか、ということが問題になるが、コロ健、この年末年始も家のことにいろいろ関わっていたらあっという間に過ぎてしまった。この先に待っている、というかやっておかなくてはいけなかった、一部済ませておかなくてはいけなかった仕事を考えると結構キツそうでめげそうにもなるが踏ん張らないといけない。

そんなにいろいろ仕事を抱えて、それってお金になるの?というと、お金になる仕事などそうはない。

まったくないというと嘘で、研究に関わる実費は出るがそれだけだ。アルバイトにでもいったら、よほどお金になるが、これに関しては一緒に研究を推進している臨床医も同じで、彼らもバイトにいかないで頑張っている。

お金のためじゃなければ、じゃあなんでやってるの?と言われると、なんだろう、やっぱりこれが医学者の使命なんじゃないかと思う。

高給取りの医者はいくらでもいるけれど、私は研究活動がやりたくて、大学病院の名のつくところにしがみついている。

50歳台も半ばの盛りを過ぎつつある研究者だけど、やれることはまだ何かあるとは思っている。研究班とか講演で、誰も声をかけてくれなくなるまではそこに踏みとどまっていたい。

こういう自分の年齢からくる衰えとか、力量不足といったことを考えるようなこと自体がネガティブサイクルの始まり、心の中の鬼が喜んでいる。

今夜の豆まきでは、そんな心の中の鬼に出ていってもらえるようにしようと思う。

福を呼び込むのは自分

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減量はゆっくり時間をかけて

2018年02月02日 | スポーツ・健康・ダイエット

去年の4月、今の病院に異動してほどなく始めたジム通い。気がつけば、もう10ヶ月にもなる。通勤ストレスの解消が主たる目的だけど、もちろん健康増進、体重減少が出来たらいいと思っている。最初のうちはエアロビクスが発展したようなスタジオプログラムをいくつか選んでいたけれど、時間が固定であるとか、強度が物足りないとか、女性が一緒だと気後れするとか、ジムがプログラムを大幅に変更してしまうとかいろいろあって、今ではピラティスに時々顔を出すだけで、もっぱら筋トレをやっている。筋トレをするのも10年だか15年ぶりなので、年寄りの冷や水にならないように軽い負荷から始めている。

体重、体脂肪率以外に筋肉量だの色々測定してくれる機械があって、それに月に一度乗るのだけど、計測上あまり変化が無い。体重は1キロ増えたが、体脂肪率は1パーセント下がって、これは筋トレの成果だろうと思うけど、筋肉量は上がったり下がったりだし脂肪断面積はあまり変わっていない。そして、BMIはほぼ横ばいで、見た目は何も変わっていないことになる。そういう意味ではジム通い、通勤ストレスの解消以外に、効果はあまりないということになるが、十分といえば十分、贅沢はいえない。

急速な減量はリバウンドを起こすという。例えば、3ヶ月で5キロとか10キロ痩せても、早晩元に戻ってしまうようだ。数十年かけて蓄積してきた脂肪を減らすには、少なくともその半分ぐらいの年月をかけるぐらいのつもりでないといけない。学生時代にスポーツ(コロ健の場合はバスケットボール)をやっていて、それに合わせてガンガン食べていた人間などは、スポーツをやめた後も食べる量だけは変わらないので太る。考えてみたら当たり前で、今、週に3、4日ジムに行くなんてことはとても考えられない。やはり、食生活の改善(飲み食いの量を減らす)は併せて行わないといけない。

それでも、筋肉量が少し増えたのはみたらわかる。学生時代の6割ぐらいまで戻れば基礎代謝もだいぶ上がるだろう。今の病院に勤めている間は、週1、2度のジム通いは続けたいと思っている。何といっても継続は力なりだ。

あとは、ジムに行けない日、これをどうするかだが、帰宅時は歩くとか考えないといけない。でも、冬場は寒くてなかなかそれもできない。

還暦までに(あと6年で)10キロ減!

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注意深く生きる・・・三題

2018年02月01日 | 日々思うこと、考えること

注意深く生きていると、多くの人に自分が助けてもらっているのだということに気がつく。最近、そんなことを気づかせてくれたことが3つあった。


その1

コロ健、小さな研究会の病理医側の世話人をしている。"病理医側”というのは臨床医が提示してきた診断、治療に困っている難しい症例について病理医が病気の病理所見を解説する。私自身、これまでにもいろんなところで何度かやってきていて、その都度ブログで大変だ大変だとこぼしているものだ。これまでは世話人の先生にご指名いただいてきたのだけど、一昨年から私が世話人となってしまった。昨年あった日韓の合同研究会でもそうだったけど、世話人として、どなたかに話をしてもらうのを頼むというのはなかなか難しい。今回も、関係する研究会に告知したのだけど誰からも手が挙がらず、最終的には知り合いの先生方にお願いすることにした。実力があって、快く引き受けてくれる方、というのが自分の周りにいるというのは嬉しいことだが、それ以上に私が自覚しなくてはいけないのは、そういった先生方に助けてもらっているということ。ありがたいことだ。

その2

血液腫瘍の一部は診断がとても難しい。原疾患(この場合血液そのものの病気)の診断はフローサイトメーターとか新しい機器が出てきたので、診断精度は上がってきている。でも、それが全身の他の臓器に症状を出してくると、それが元々の病気のせいなのか、元々の病気に引き続きて起きたことなのか、の診断をする必要が出てくる。病理医としてはそっちの、例えば肝臓とか、腎臓に生じる2次性の病態を診断しなくてはいけない。その診断をする段となって、以前、他の先生から質問され、よくわからずその先生と一緒に勉強したことがあった症例があったのを思い出した。「おお、この症例、あの時あの先生と一緒に勉強した症例だ」と難しい診断もなんとかつけることができた。”情けは人のためならず”というと、おこがましいが、やはりここでも感謝が大事だと思う。

その3

息子が通っている大学で、実習担当教官がたまたま私の友人となった。実習が始まってしばらく経ったある夜、メッセンジャーで「ご子息、短い間ですがお世話させてもらいます。色々話してみますね」と連絡がきた。その友人、以前から尊敬していた人だったが、そういう人が忘れずに声をかけてくれるというのはありがたい。というよりも、そういう人はいつもそうやって周りに気を配っているのだということも学ばせてくれる。生きて行くということには、色々なヒントがある。

自分の考えが一番、自分を中心に世界は動いている、忙しく過ごしているといつの間にかそういう考えに陥ってしまう。でも、そんなことは全くなくて、人は人に助けてもらって生きている。なんでも、誰かに何かをしてもらっているのが当たり前だと思っていると人生は味気なくなる。人間関係にはストレスも多いけど、それ以上に素晴らしいことが続けて起こっているのだという事をありがたく思って生きるといい。

以前、”注意深く生きることの大切さ”を書いたことがあったけど、それは人間関係でも同じだ。

まずは家族に注意を向ける

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