こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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よりよく生きるにはどうしたらいい?

病理学教室の将来

2011年02月05日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
上司と先日話したことに、「病理総論を語れる病理医が減っている」というのがあった。

私が駆け出し(今でもそうだが)の病理医の頃、病理学教室の主任教授は病理総論的な用語の使用について、きわめて厳格だった。だから、示説会(剖検例を教室員全員に供覧して、診断を述べる)で、あやふやな言葉を使うと、必ず確認、訂正された。すごく、ねちっこく。でも、正確無比。大まじめに。
「君が言っているのはarteriosclerosisかね、それともarteriolosclerosisかね?」って、当時は一体何のことやら。
そして、その周りの先輩の先生達も、とても正しく、用語を使って。
私は、病理総論的な用語を使うのは上手になれなかった。だから、剖検報告を書くのは今でも苦手だ

今の病理学教室の教授には分子病理を専門にしてきた先生が散見される。
論文は山ほどある。もちろん、その専門の分野にはとても精通しており、その方面での第一人者であることに異論はない。研究室をもって、その分野の研究を推進していくことは、大変すばらしい(と、ご本人は思っている)。
一度偉くなってしまうと、分子生物学しかわかっていないはずなのに、病理学すべての領域について精通しているつもりになってしまう。
これは、困る。
臨床と組織像の間で苦労している(現場の)病理医の苦労、苦悩がわからない。
自分が知らないこと、文献にないことは、すべて間違い。
目の前に見えていることが見えない。
そんなふうに、なってしまうとどうしようもない。

「病理学は、形態学であり、われわれ病理医は形態学者だ」と、私の恩師は普段から言っていた。
PCR産物を確認したり、RNAや蛋白の発現量を見たり、DNAの配列を読む学問ではない。”病理医にとって”これらは、あくまでも形態学を補助する情報だ。
ナントカいうタンパク質が、何処そこで、どんな働きをしている、というのも大事なのかもしれないが・・・だからといって、それを病理学教室の新人が、2,3年かけてやることなのか?とも、思う。
まあ、人それぞれの考え方だし、そういう事をする権限を掴んだ勝ち組の人に、半分負けてるような人間が、何を言っても仕方ないのだが・・・

診断病理だからといって、それほど将来が明るいとは言えない。
おびただしい数の、各種癌取扱い規約ができるのはいいのだが、病理医はこれにいちいち対応しなくてはいけない。取扱規約など、とりあえずは現時点の分類に過ぎず、だから何度も改訂される。その時出ている、取扱規約の文言を一言一句覚えていることが優秀な病理医、となると、これまたちょっと違うように思う。人が決めた診断基準に合わせた診断を行うことは上手になるが、自分独自のものがないので、剖検診断を書くのがますます億劫になる(さっきも言ったとおり、私も剖検診断は苦手だが、意味が違うように思う)。
今流行っているのは、診断学病理で、人体病理ではないように思う。
各論ばかりでは病理の面白さは語れない。

病理学は形態学。たしかにHEだけでは足りないし、それぞれの医者が勝手なことを言っていては収集がつかない。大きな声の先生が学問をリードしてはいけないのだが、いつの間にか、論文だけ、分類を覚えているだけ、という、勉強が出来る人こそ、という方向へのドライブがきつくかかっているように思う。
こういうことをしていると、病理学はただの秀才が集まるだけの学問になってしまう。どの学問も秀才は必要だが、秀才だけだと行き詰まってしまう。

私は、もう教室に帰ることがない人間だが、人ごとながら病理学教室の将来はいったい、どうなるのだろう、と思ってしまう。