「池袋村は地高して東北の方のみ水田あり、其辺地窪にして地形袋の如くなれば村名起りしならん、日本橋より行程は前村に同じ(二里)、戸数百二十九、東は新田堀之内村西は中丸村、南は雑司ヶ谷村巽は巣鴨村少く係り、北は金久保村に及ぶ、東西五丁南北十三丁、用水は仙川用水を引沃く、江戸大塚より板橋に通ふ路少く係る、幅三間許、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) 最後に触れられた通りは、→ 「池袋村絵図」で小石川道と書かれているもので、春日通りから川越街道を経由、途中本町中央通りへと折れ、板橋に向かうルートです。
- ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は板橋、豊島の区境、同細線は巣鴨村当時の町村、大字境です。
池袋の地名が文献上登場するのは、例によって「小田原衆所領役帳」で、「太田新六郎知行 三貫五百文 池袋」とあるのが最初です。地名由来については、地形由来説が有力ですが、その場所に関しては、「新編武蔵風土記稿」の言及する村の東北の谷端川流域と、弦巻川の水源である丸池周辺の二説が対立しています。後者のネタ元は文化11年(1814年)の「遊歴雑記」(十方庵敬順)で、「当村を池袋と号けし事は、往古夥しき池ありしによって也、中古より段々埋まりしかど、今もなお三百余坪もあらんや、・・・・此池今は雑司谷村に属す」と書かれているものです。
- ・ 氷川神社 「新編武蔵風土記稿」に「村鎮守重林寺持」と記載のある氷川神社は、小石川道が谷端川流域へと差し掛かる手前に祀られています。
ただ、丸池やその周辺の池ヶ谷(池谷戸)は、池袋村の鎮守、氷川神社や別当の→ 重林寺のある本村(現在の池袋本町)とは反対側の、しかも隣村の雑司ヶ谷村に属し、地名由来となったとは考えにくい位置関係で、「遊歴雑記」の作者も気になったと見え、丸池が雑司ヶ谷村に属した事情を推測したりしています。なお、これとは別に「若葉の梢」(金子直徳)には、「此池中より亀の袋を負出ける故に、池袋と云うとも」との一節があります。「此池」がどこにあるのかよく分かりませんが、前後の文脈からすると、少なくとも丸池ではないようです。