池袋耕地整理組合の発足は大正9年(1920年)、対象地域は「西巣鴨町大字池袋字本村、他領、上、丸山各一部、境井田、前田及飛地他領、境向、中原ト板橋町大字中丸字川原、前及飛地沼田、中原ノ各一部」の618反余(うち田は128反余)で、同年中に中上橋から中丸橋にかけて、谷端川流域の工事は竣功しています。事業全体が完了したのは大正12年で、これは同年に組合が設立された長崎村など、近隣地域に比べ一足早く、その先駆けとなるものでした。なお、「豊島区史 資料編四」(昭和56年)に収録された事業報告書によると、総工費は3万721円となっています。
- ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 王子」 耕地整理以前の様子は→ 「明治42年側図」で、以降の様子は→ 「昭和4年第三回修正」でどうぞ。いずれも、同一場所、同一縮尺です。
隣村に先駆けて行われた池袋の耕地整理は、中上橋から中丸橋にかけての谷端川流域の、境井田、前田、沼田といった字名で呼ばれる田圃が中心でした。その当初目的は、耕地整理のタイトルからも明らかなように、「(農業上の不経済を)矯正シ、以て農業ノ振興ヲ企画スル」ことでした。ところが、事業完了直後、関東大震災を契機とする宅地化の波が押し寄せます。結局、「大正10年第二回修正」と「昭和4年第三回修正」の比較で見て取れるように、農地はあっという間に宅地へと転用されてしまいました。
- ・ 谷端川緑道 御嶽橋の次の南橋です。上掲「大正10年第三回修正」には、左岸に分岐する側流が描かれていますが、耕地整理の終了に伴い失われました。
- ・ 谷端川緑道 境井田橋と他領橋の間です。右手から合流する→ 路地が、「明治42年側図」に描かれた右岸の小水路の合流地点と重なります。