神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中丸村境

2019-04-10 06:11:38 | 谷端川・小石川1

 日之出橋に戻り、谷端川緑道のウォーク&ウォッチを再開します。すぐに北荒井橋、東橋と続きますが、その間で緑道は右にカーブし、ほとんど接していた山手通りから離れます。そして、ほぼ直線で300m弱北東に向かい、途中、高松橋を経て境橋手前で左カーブ、北に向きを転じます。なお、境橋の名前ですが、右岸は変わらず池袋村なのに対し、左岸が長崎村から中丸村になることから、そう名付けられたものです。区画整理時の架橋なので、当時の右岸は西巣鴨町大字池袋、左岸は長崎村(のち長崎町)と板橋町大字中丸の境で、後者は多少の出入りはありますが、現在の豊島区と板橋区の区境に引き継がれました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」ほかの合成で、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 北荒井橋の先の右カーブです。北荒井は明治22年(1889年)成立の長崎村大字長崎の字です。  

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    2. 300mに及ぶ直線コースの前半は遊具のある児童公園風になっています。  

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    3. やはり字が由来の高松橋の先の直線コースの後半で、普通の遊歩道に戻ります。  

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    4. 左カーブの先にあるのが境橋です。右岸は変わらず豊島区ですが、左岸は板橋区になります。

地蔵堂分水路3

2019-04-09 06:06:13 | 谷端川・小石川1

 舌状台地の付け根をショートカットする、仮に地蔵堂分水路と名付けた水路を、合流地点からさかのぼっています。山手通りを越え、二百数十メートルで要町通りに遮られて中断しますが、その先にはこれまでの幅広な直線道路から一転、水路単独を思わせる狭い路地が、舌状台地の尾根まで続きます。この区間は区画整理の前後で変化はなく、分水路開削当初の切通しの様子をよく保っています。最後に、→ 「地蔵堂分水路(仮)」で扱った改修前後の二つの分岐点に到達するまでです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    1. 要町通りを斜めに横切ると、その先に水路単独の狭い路地が顔をのぞかせています。 
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    2. 狭い路地は上りに差し掛かります。分水開削当時の面影をよく残しているところです。

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    3. 舌状台地の背にあたる、地蔵橋の架かっていたところを越えます。

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    4. 要小正門前を通過、その南西角で改修以前の分岐点に至ります。 

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    5. 改修後の本流との分岐点までで終了です。全長650mほどの行程でした。

地蔵堂分水路2

2019-04-08 06:57:21 | 谷端川・小石川1

 要町通りを越えると間もなく、左岸から合流する水路があります。仮に地蔵堂分水路と名付けたバイパスで、谷端川にUターンを強いた舌状台地を開削し、その東側に千川上水の水をショートカット、効率的に田圃に配水するためのものでした。もっとも、現在確認できる水路跡は、耕地整理時に改修した際のもので、最短距離で本流に合流していますが、元々は舌状台地を越えた後、北に向きを変えて田圃の縁を流れ、現千川中学校の先で本流に戻っていました。この様子は → 「沿革図書附図」などの描き方にも反映していますが、灌漑用水路としては当然のコース取りで、それを今日見られるように改修したのは、田用水路から排水路へと機能の転換があったためでしょう。

 

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    ・  昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 長崎橋の次の日之出橋です。左手から地蔵堂分水路が合流していました。

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    2. 山手通りを越えた先です。 → 「東京近傍図」の描く、溜池と思われる池はこのあたりにあったはずです。

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    3. 「郵便地図」は途中で右手に向かい、田圃の縁に沿って流れながら、順次余水を本流に戻す水路を描いています。 

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    4. 要町通りの手前です。この間300mを越える直線道路になっています。

谷端南緑道2

2019-04-06 06:30:22 | 谷端川・小石川1

 立教通りの次の大通りは要町通りです。こちらは比較的新しく、大正末から昭和の初めの区画整理期に、元となる道路が開通しました。その後、池袋駅前から順次拡幅され、昭和10年代には山手通りまで完成、第二次大戦の中断を挟んで、要町三丁目交差点まで開通したのは戦後のことです。なお、要町は昭和14年(1939年)、隣接する千早町(現千早)とともに、豊島区の改編に伴い成立した創作地名で、周辺の長崎東町、長崎仲町、千川町の各一部を併合、扇の要のような位置にあることから、そう名付けられたといわれています。

 

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    ・ 谷端川緑道  要町通りを越えます。緑道の随所に「谷端川緑道散歩マップ」が掲示されていますが、その橋梁リストによるとここに長崎橋が架かっていました。

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    ・ 要町通り  谷端川緑道越しに山手通りとの要町1丁目交差点を望んでいます。ここから1.5kmほどで長崎村分水口のある要町3丁目交差点です。 

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    ・ 谷端川緑道  要町通りを越えた先です。右手は谷端川親水公園となっていますが、かっては野菜の洗い場が設けられていたそうです。

 <立教大学>  立教通りを挟んで羽黒橋から長崎橋までの右岸台上には、立教大学関係の施設が立ち並んでいます。同大学は明治7年(1874年)、アメリカの宣教師、ウィリアムズ主教が築地に開いた私塾(立教学校)が前身で、同40年、専門学校令に基づき立教大学と改称、その後大学令での認可を得ました。池袋に移転したのは大正7年(1918年)ですが、当時は築地に残った中学も関東大震災で校舎を失い、当地に移転してきました。(→ 写真の正面はセント・ポールズ会館、その奥は立教小学校です。立教学校は聖パウロを守護聖人に、英名をセント・ポールズ・スクールとしていました。今でもセント・ポールを冠する施設、行事などが多いのはそのためです。)

 


池袋村境

2019-04-05 06:22:48 | 谷端川・小石川1

 → 「池袋村絵図」を見ると、左下隅に長崎村との境が描かれ、あとは谷端川が長崎、中丸村などとの境になっています。この長崎村との境に沿って流れ、本流に合流する小水路がありました。 → 「段彩陰影図」で、Uターンの右手にある谷筋にかかわるもので、明治末の「郵便地図」に描かれています。ただ、区画整理後の道路との重なりは不明なので、下掲地図にはいつもの青点線は書き込んでいません。なお、「長崎村物語」(1996年 豊島区立郷土資料館)のなかに、「大正から昭和初期にかけては、現在の道和中学校付近にもいくつもの池があったらしい」との一文があります。「段彩陰影図」で、西武池袋線脇に見える正方形が道和中(現西池袋中)なので、この谷筋の合流地点付近の様子と思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」と「同 / 早稲田」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。ほぼ中央を縦断する破線が長崎と池袋の境です。

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    1. 羽黒橋の次の八幡橋の右手に、道幅に変化のある道路が合流しています。水路を含んでいる可能性がありますが、地図では未確認です。  

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    2. 羽黒橋の幅広道路を越えるところです。上掲「地形図」の田圃の東縁にあたります。  

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    3. 西池袋中学の西側で、「地形図」では境界と田圃の縁が重なっているところです。  

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    4. 西武池袋線を越えます。「郵便地図」ではワンブロック先に先端が描かれています。

谷端南緑道

2019-04-04 06:48:21 | 谷端川・小石川1

 谷端川は昭和37年(1962年)に河川としては廃止され、同39年までには全線が暗渠の下水道となりました。その後、暗渠上部の一定区間の遊歩道化が図られ、現在の谷端川緑道が完成したのは平成2年(1990年)です。起点から川越街道まで1.7kmが豊島区管理の南緑道、そこから東武東上線下板橋駅前まで、管轄や愛称を変えながら緑道は続いています。神田川の支流の中では、桃園川緑道と似たような経緯ですが、桃園川は昭和42年暗渠化、平成6年緑道完成ということで、こちらのほうが数年テンポが速くなっています。

 

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    ・ 谷端川緑道  宮下橋の次の次が→ 羽黒神社に隣接する羽黒橋です。最近大幅に拡張された通りを右手に行くと、池袋駅南のビックリガードに出ます。

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    ・ 谷端川緑道  羽黒橋と霜田橋の中程のこのあたりから、谷端川は左手長崎、右手池袋の村境でしたが、現在は両岸共に豊島区西池袋に属しています。 

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    ・ 谷端川緑道  霜田橋に差し掛かるところです。前の通りを右手に上ると立教大学、逆に左手に行くと、山手通りを越えた先で上り坂となり、その中腹に地蔵堂が祀られています。  

 <霜田橋>  立教通りの名前は右岸台上にある大学が由来の、比較的新しいものですが、通り自体は古く、→ 「池袋村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれており、橋も当時から架かっていたものと思われます。「東京府志料」には小石川(谷端川)の橋梁リストが収録されていますが、その中の「石橋三 池袋村ニアリ 一ハ下田橋長一間一尺幅五尺、一ハ中丸橋長一間幅五尺 一ハ中居橋長一間幅五尺」のうち、下田橋がおそらくそれで、この表記なら名前の由来も容易に推測できます。なお、「池袋村絵図」には、この橋付近と思われる個所に「芝地」とありますが、同図に添付された解説は、これを「低湿地状の採草場(秣場)」としています。

 


Uターン2

2019-04-03 06:44:34 | 谷端川・小石川1

 真和中跡地前に戻ります。ここから先はUの字の底の後半部分にあたり、200mほどで左カーブがあり、すぐに西武池袋線に突き当たります。今度は踏切はないので、迂回して西武線の北側に出ると、そこが谷端川緑道の起点になります。なお、「下水道台帳」をみると、谷端川を代替する谷端川上幹線は、このまま西武線の下をくぐり、緑道の地下へと連続します。地上は遊歩道、地下は下水道幹線という関係は、途中で谷端川幹線へと引き継がれる以外、緑道が終わる東武東上線下板橋駅まで変わりません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 真和中跡地に戻り東に向かいます。西池袋中に統合移転後、跡地は一時目白小の仮校舎でした。 

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    2. 若干の右カーブの先に池袋のランドマーク、サンシャイン60が見えてきました。

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    3. 奥にUターン最後の左カーブが見えています。椎名駅裏のUターンの起点から500mほどのところです。

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    4. 最後の左カーブを曲がると、その先は西武池袋線に突き当たって中断です。 

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    5. 西武線を越えたところで、谷端川緑道が始まります。まずは長崎神社下の意の宮下橋です。

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2019-04-02 06:35:35 | 谷端川・小石川1

 真和中跡地の北西角で合流していた水路を追っての三回目です。山手通りを越えた先にも、水路単独と思われる路地があり、ほぼ直線で200m弱続いています。目白通りのビル一つ東側を並行していて、清戸道沿いに栄えた椎名町の裏側を流れる、はけ水路だったものの名残なのでしょう。ちなみに、椎名町の繁栄ぶりについては、「嘉陵紀行」(文化・文政から天保ころ 村尾嘉陵)の中に、「椎名町の入口一豪家あり、慶徳屋と名づく、この地に久しきもの也とて、穀物をあきなふ、この外椎名町商人の家に貧しきはみへず」との一文があります。(慶徳屋のあったのは、昨日UPのもう一つの水路の先端付近です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 南長崎1丁目交差点近くで山手通りを越えます。通りの先にも路地が見えています。

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    2. 狭い路地が続きます。なお、上掲「空中写真」で周囲の人家が疎らなのは、第二次大戦末の空襲で被災したためです。  

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    3. このような路地が3ブロック、およそ200mにわたって連続します。 

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    4. 水路跡の先端です。右写真は目白通り側からのショットで、なお若干の谷筋になっています。

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2019-04-01 06:33:43 | 谷端川・小石川1

 真和中跡地の北西角で合流する水路を追っての二回目です。「郵便地図」では目白通りから発する、400mほどの水路一本だけですが、谷頭は二つあったようで、途中、西側から合流する水路跡も残されており、むしろそちらの方が長くなっています。なお、タイトルの荒井は長崎村の小名で、「新編武蔵風土記稿」にも収録され、明治に入って長崎村大字長崎の字に引き継がれました。村の東南にあたり、南側は目白通り(清戸道)を挟んで下落合村と接し、東側には度々登場する鼠山がありました。明治に入っての荒井は、その鼠山も含んで一回り広くなっています。(現行の住居表示の目白4丁目がおおむね鼠山、同5丁目が荒井にあたります。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 目白第一保育園の横を抜けます。右写真は左手からのショットで、はっきりした谷筋になっています。 

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    2. 正面からのものと右手からのものの、二本の水路の合流地点です。

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    3. まず「郵便地図」にある水路を追って、正面に向かいます。すぐに目白通り(清戸道)です。

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    4. 2.に戻り、右折して西に向かいます。途中水路単独と思われる路地に入ります。 

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    5. ワンブロックで中断、正面の建物を挟んで、その先は山手通りです。