神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中丸村

2019-04-20 06:44:09 | 谷端川・小石川2

 「中丸村は、元禄の改に(池袋村)枝郷と傍記す、今は別村となれり、日本橋より二里余、戸数四十三、東は池袋村西は下板橋宿、南は長崎村北は金井久保村なり、東西四町半南北十一町、用水は仙川用水を引用ゆ、・・・・村の飛地池袋村内に少くあり」(「新編武蔵風土記稿」) 池袋村との出入りは多く、村内の池袋村飛地十数ヶ所の面積は、中丸村の三割ほどに達しました。明治22年(1889年)に板橋町が成立した際、大字中丸とは別に大字池袋を形成、その小字として沼田、原前、内袋、中原となったところです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は板橋、豊島の区境で、同細線は板橋町当時の町村、大字境です。 

 「用水は仙川用水を引用ゆ」とありますが、明治初めの「星野家文書」の数字で1町1反余、全体は5町4反余(「東京府志料」)なので、千川用水への依存度はごく少ないものでした。ちなみに、同じ長崎村分水を利用していた4ヶ村のうち、長崎村は13.8(17.7)、池袋村3.4(15.3)、金井窪村1.9(6.4)で、単位は町歩、カッコ内は田圃全体です。なお、中丸村を横断する谷端川支流があり、その先端は千川上水にほとんど接しています。この支流を利用して助水を得ていた可能性も考えられますが、文献的には未確認です。

 

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    ・ 熊野神社  「熊野社 村の鎮守なり西光院持」(「新編武蔵風土記稿」) 創建年代は不明ですが、社伝によると応永年間(1394~1427年)に熊野権現を勧請したといわれています。

 中丸の地名の文献上の初出は、やはり永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」で、恒岡弾正忠配当分のなかに、「一貫五百文 江戸菅面(すがも)之内中丸」とあります。この恒岡弾正忠の名前は、「江戸牛込之内富塚」のところでも、一度出てきました。中丸は一般に中野などと同様、一帯の中央を指すといわれていますが、どこの中央なのかなど、よく分からないところです。なお、「新編武蔵風土記稿」には小名は一つも収録されていませんが、明治に入って採用された川原、前、南、北裏、中原は、「いたばしの地名」(板橋区教育委員会 平成7年)によると、江戸期から使われていたようです。