船河原橋で右折すると、飯田堀、牛込堀と続く外堀です。→ 「段彩陰影図」に見るように、外堀は牛込台と麹町台を分かつ谷筋沿いにあり、かっては自然河川が流れていました。以下は寛延4年(1751年)に酒井忠昌が著した「南向茶話」の一節です。「問曰 寛永年間外廓出来以前にも、市ヶ谷より小石川の方へも川流有之候哉・・・・。答曰 御尋之趣尤もに候。予も市ヶ谷辺久々住居し、人に承り候得ば、御外廓無之以前にも、只今五段長屋下より小流有。長円寺谷の内大沼あり候て、落合ながれ候よし。此水筋にて田地の用水に仕、田町辺は皆々田地なり」
- ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 麹町区」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、外堀を挟んで新宿区と千代田区です。
「南向茶話」の五段長屋は五段坂ともいい、尾張藩上屋敷(現防衛庁)の西側にありました。五段坂はなくなりましたが、曙橋から外苑東通りを北に上る坂が、新五段坂と呼ばれています。というわけで、「五段長屋下の小流れ」は現在の靖国通り沿いにあった自然河川です。一方、長円寺谷は尾張屋敷の東側、現市谷長延寺町付近の谷筋で、両者は市谷田町で合流して飯田橋方面に向かっていました。外堀はこの谷筋を利用して開削されましたが、もっとももそれは飯田堀、牛込堀のことで、この谷筋からズレる市ヶ谷門以西の市ヶ谷堀、四ッ谷堀(真田堀)は、麹町台地を開削したまったくの人工的な地形です。
- ・ 牛込堀 新見附橋から牛込橋方向のショットで、正面が飯田橋駅前にあるセントラルプラザです。新見附橋は明治中頃の創架なので、「近傍図」にはありません。
- ・ 新見附堀 上掲写真とは逆の、新見附橋から市ヶ谷橋方向です。新見附橋によって牛込堀は二分され、その市ヶ谷寄りは新見附堀と呼ばれています。