神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

牛込台

2018-12-07 06:18:36 | 江戸川・紅葉川

 江戸川・紅葉川のコース取りは、牛込台の北縁から東端をめぐり、さらに南縁にかけて、時計回りに半円を描くものです。神田川右岸の台地は、大きくいうと淀橋台ですが、神田川本流と外堀、紅葉川の谷筋に囲まれたのが牛込台、江戸城のある方が麹町台と二分されます。そして、牛込台を中心に、北部の早稲田を含む一帯が元の牛込村で、明治11年(1878年)に牛込区となり、戦後、四谷区、淀橋区とともに新宿区を形成するまで継続しました。

 

Usigome1

    ・ 「段彩陰影図 / 牛込台」(1/18000)  オレンジ線は区境で、大半が新宿区、そこから時計回りに文京区、千代田区です。 

 以下は牛込に関する「新編武蔵風土記稿」の記述です。「牛込村は古広き地にて、今牛込の町々及早稲田中里戸塚の辺都て当村の地域なりしが、御打入の後年を追て武家及寺社の拝領地又は町屋となりしゆへ、今全く村と唱ふる所は、早稲田下戸塚の間にて纔に残れり、・・・・或書に当国は往古広野の地にして、駒込馬込など云も皆牧ありし所とみゆ、込は和字にて多く集る意なり、爰も牛の多く居りし所なれば名づけしとあれど其據をしらす」 大宝律令(大宝元年 701年)により設置された国営の「神崎牛牧」が、当地にあったとする説もあります。

 

 

0804a

    ・ 赤城神社  牛込の総鎮守と目される赤城神社は牛込台の最北端にあり、神田川の形成する早稲田の低湿地を望んでいます。弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔(牛込勝行)が現在地に遷しました。

 牛込の地名の初見は歴応3年(1340年)の文書で、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所(けっしょ 領主のいないところ)」を江戸氏に預け置くとする内容です。戦国時代には、上野国赤城山麓から移住した大胡氏が、小田原北条家の家臣となって支配し、「小田原衆所領役帳」によると、牛込(64貫430文)、比々谷本郷(67貫780文)、堀切(45貫文)を知行地としています。なお、大胡氏は天文24年(1555年)には牛込氏に改名、小田原落城後は徳川幕府の旗本として存続しました。