神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

石切橋

2018-12-11 06:24:02 | 江戸川・紅葉川

 「橋 長八間程幅二間一尺程 右は江戸川え掛り有之町内より小日向水道町え渡り候板橋ニ而江戸川大橋と相唱申候又里俗ニは石切橋共唱来候釈相知不申候」(「御府内備考」) 江戸川に架かる橋の中では最も大きく、また、石切橋の名は付近に石工が住んでいたためとの説があります。「大橋 馬場片町より水道町へ渡す。俗に石切橋と云也。先年此所に石切ありし也。今は無」(「続江戸砂子」)

 

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    ・ 「正保年中江戸絵図」  正保元年(1644年)頃とされる「正保年中江戸絵図」の該当個所をイラスト化しました。武家屋敷や寺社に分譲が完了した個所を薄い茶でカバー、薄いブルーは水田など未着工なところです。  

 石切橋は赤城神社(明神)下から対岸の小日向村に向う道に架かる橋です。「正保図」では該当個所に道はありますが、橋は描かれていないように見えます。正保の一つ前の年号にあたる、寛永19年(1642年)頃のものとされる「寛永江戸全図」も同様なので、架橋直前の様子なのでしょう。なお、元図でも橋は赤で明示されていて、大曲上流でそうなっているのは、上掲「絵図」からは切れますが、駒塚橋、面影橋、小滝橋の三ヶ所です。ただし、橋名は書かれていません。

 

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    ・ 石切橋  現在の呼称は石切橋で統一されています。なお、傍らの解説プレートには、「寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ」と書かれています。 

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    ・ 神田川  石切橋から下流方向で、次に架かるのは西江戸川橋、そして小桜橋ですが、どちらも江戸時代にはなく、西江戸川橋は明治初めの、小桜橋は昭和初めの架橋です。 

牛込水道町

2018-12-10 06:21:34 | 江戸川・紅葉川

 蟹川を大下水化した合流地点付近は、小日向村に属していましたが、その東隣りは牛込村の範囲だったため、町屋となったあと牛込水道町を名乗りました。「場末之古河沼ふけ田(深い田)等」の築地(造成地)であり、西隣の小日向東古川町との間には「下水 巾四尺」が設けられました。「右は当町西裏ニ有之候御持組屋舗より流出北之方江戸川え流落申候」(「御府内備考」) 現在でも文京、新宿の区境にその痕跡を見ることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 古川橋と石切橋の間の右岸、文京区と新宿区の境の路地が下水跡です。 

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    2. 右手のプレートは文京区のものですが、その先で両岸とも新宿区になります。

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    3. ワンブロック目の通りには石橋(「巾凡四尺程丈ケ凡一丈程」)が架かっていました。 

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    4. 二つ目のブロックで終了です。この先から早稲田通りにかけて、「御持組屋舗」がありました。

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    5. ワンブロック先で右手に入るこの路地を、下水の起点とする古地図(「牛込改代町絵図」)もあります。

江戸川

2018-12-08 06:37:02 | 江戸川・紅葉川

 江戸川橋に戻って、神田川本流を下ります。これまでも度々触れてきましたが、この一帯の神田川は、昭和40年(1965年)の河川法改正まで、江戸川と呼ばれていました。正確には関口で神田上水と分水して以降、飯田橋駅前に架かる船河原橋までの名称です。井の頭池から関口までは、(それ以降の狭義のと共に)神田上水、ただし、上流の村々では井の頭上水とも呼ばれ、一方、船河原橋より下流は神田川、あるいは単に御堀でした。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 麹町区」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半が新宿区です。 

 「江戸川は神田上水の枝流なり、関口水道町の西にて分流し、大抵東流して中ノ橋、龍慶橋の中ほど、小名大曲りといふ処よりやゝ南流と成、船河原橋(俗にどんと橋といふ)を過て御堀に落入れり、按に此川全く上水の枝流とせば慶長以降の川なれど、恐くは左にはあらざるべし、此辺元下卑の地なれば、昔村落なりし頃より用水の川ありて、上水掘割の時たまたま此川に余水を落せしにあらずや」「右往古田畑之要水に而古川と唱候処万治年中より江戸川と唱候由申伝候」(「御府内備考」)  

 

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    ・ 神田川  江戸川橋から下流方向です。正面に架かるのは華水橋、その奥に掃部橋、古川橋と重なっています。その次の石切橋はカーブの先になります。

 江戸時代、関口から船河原橋までに架かる橋は七つで、上流から関口橋、江戸川橋、掃部橋、古川橋、江戸川大橋、中ノ橋、そして大曲以降に唯一架かる龍慶橋でした。関口橋には一休橋、古川橋には麁朶(そだ)橋、大橋には石切橋の別名があり、各々の規模は「東京府志料」の数字で、関口橋(長十間幅二間)、江戸川橋(長十一間幅三尺)、掃部橋(長七間四尺五寸幅四尺五寸)、古川橋(長七間幅二間一尺)、大橋(長七間幅二間一尺)、中ノ橋(長九間幅二間)、龍慶橋(長十八間幅二間三尺)となっています。

 


牛込台

2018-12-07 06:18:36 | 江戸川・紅葉川

 江戸川・紅葉川のコース取りは、牛込台の北縁から東端をめぐり、さらに南縁にかけて、時計回りに半円を描くものです。神田川右岸の台地は、大きくいうと淀橋台ですが、神田川本流と外堀、紅葉川の谷筋に囲まれたのが牛込台、江戸城のある方が麹町台と二分されます。そして、牛込台を中心に、北部の早稲田を含む一帯が元の牛込村で、明治11年(1878年)に牛込区となり、戦後、四谷区、淀橋区とともに新宿区を形成するまで継続しました。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 牛込台」(1/18000)  オレンジ線は区境で、大半が新宿区、そこから時計回りに文京区、千代田区です。 

 以下は牛込に関する「新編武蔵風土記稿」の記述です。「牛込村は古広き地にて、今牛込の町々及早稲田中里戸塚の辺都て当村の地域なりしが、御打入の後年を追て武家及寺社の拝領地又は町屋となりしゆへ、今全く村と唱ふる所は、早稲田下戸塚の間にて纔に残れり、・・・・或書に当国は往古広野の地にして、駒込馬込など云も皆牧ありし所とみゆ、込は和字にて多く集る意なり、爰も牛の多く居りし所なれば名づけしとあれど其據をしらす」 大宝律令(大宝元年 701年)により設置された国営の「神崎牛牧」が、当地にあったとする説もあります。

 

 

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    ・ 赤城神社  牛込の総鎮守と目される赤城神社は牛込台の最北端にあり、神田川の形成する早稲田の低湿地を望んでいます。弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔(牛込勝行)が現在地に遷しました。

 牛込の地名の初見は歴応3年(1340年)の文書で、室町幕府が「武蔵国荏原郡牛込郷闕所(けっしょ 領主のいないところ)」を江戸氏に預け置くとする内容です。戦国時代には、上野国赤城山麓から移住した大胡氏が、小田原北条家の家臣となって支配し、「小田原衆所領役帳」によると、牛込(64貫430文)、比々谷本郷(67貫780文)、堀切(45貫文)を知行地としています。なお、大胡氏は天文24年(1555年)には牛込氏に改名、小田原落城後は徳川幕府の旗本として存続しました。

 


成子町境

2018-12-06 05:56:25 | 蟹川

 → 「東大久保村絵図」の描く蟹川のもう一つの谷頭、成子境は、現在の歌舞伎町1丁目から2丁目にかけての低湿地でした。「豊多摩郡誌」が「淀橋町大字柏木字成子北側、同町大字角筈字矢場及び東大久保字角筈裏の三字界の辺にも溜井ありて、清水噴出し」と書いているのがそれです。下掲「明治42年測図」の谷頭にある丸い池や、その下にある楕円のものも、周辺に田圃が残っており、農業用の溜井かもしれません。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」と「同 / 四谷」を合成したもので、JR線、西武線の線路、区役所通りなどをグレーで重ねています。

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    ・ 西武新宿駅  前回最後の→ 写真の通りは、西武新宿駅に突き当たって終了ですが、→ 「東京近傍図」を見ると、谷頭ははさらに奥のJR線の下にあったようです。 

 「明治42年測図」には、谷頭の丸いのを始め大小幾つもの池が描かれています。うち最大のものは大村伯爵(旧肥前大村藩主)の屋敷にあり、浮島を持つ大きな沼とその周辺は、「大村の森」と呼ばれるカモ猟のスポットでした。「大村の森」はその後宅地造成され、第二次大戦末の戦災を経て現在の繁華街へと変貌します。戦後の復興計画では、メインとされた歌舞伎劇場誘致はとん挫しますが、その時名付けた歌舞伎町という名前だけは残りました。

 

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    ・ 歌舞伎町弁財天  台座に記された由来によると、淀橋浄水場建設の残土で大村邸の池は埋たてられました。不忍池弁財天を勧請したのはその後の、大正2年(1913年)のことです。

文化センター通り3

2018-12-05 06:45:11 | 蟹川

 文化センター通りを西に向い、明治通りを越えたところから区役所通りの先までです。→ 「東大久保村絵図」で、西大久保村と成子町に挟まれ細長い流域のところですが、明治に入り大字東大久保字新田裏となりました。「新修新宿区町名誌」(平成22年 新宿歴史博物館)は、新田は前田圃のことを指、西向天神から見てその裏(西側)の意だろうと推測しています。なお、途中左カーブして靖国通りに向かう線路敷と分かれますが、都電が昭和45年(1970年)に廃止されたあと、文化センター通り・靖国通り間の250mほどが、「四季の路」と称される遊歩道となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 明治通りを越えた先です。これまでと変わらず、水路は都電の線路敷の右手を並行しています。 

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    2. 左手に向かう線路敷(「四季の路」)と分かれます。

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    3. 新宿の繁華街に入ってきました。かって田圃だったとは想像もできません。 

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    4. 区役所通りを越えます。右写真は右手からのショットで、谷筋がはっきり出ています。

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    5. 歌舞伎町1丁目と2丁目の境の、それらしい蛇行の跡を留める通りが続きます。

文化センター通り2

2018-12-04 06:24:25 | 蟹川

 文化センター通りに戻り、→ 「東大久保村絵図」で「自成子境」と書かれている、もう一つの流れをさかのぼります。こちらの流路は先端まで道路となっていて、迷うことはありません。なお、今回は明治通りまでですが、その手前から右手(左岸)は西大久保村になります。ただ、流域自体は引き続き東大久保村に属する田圃で、字は前田圃から新田裏にかわります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 文化センター前から再開します。「明治42年測図」にも断片が描かれていますが、左手から太宗寺の支流の一部が合流していました。 

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    2. このあたりの右手には、田圃の縁に沿って弧を描く左岸流もありました。

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    3. 左岸は西大久保村、流域は東大久保村字新田裏になります。  

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    4. 明治通りを越えます。右写真は→ 花園神社のある右岸からのショットです。

太宗寺の支流3

2018-12-03 06:37:09 | 蟹川

 太宗寺は慶長元年(1596年)頃、草庵「太宗庵」として草創され、一帯を屋敷地としていた内藤家の信仰を得ました。寛文8年(1668年)、同家より寺領の寄進を受けて起立、信州高遠藩に移封となったあとも、内藤家の菩提寺となっていました。以下は太宗寺門前に関する「御府内備考」の記述の一節です。「橋 長六尺程巾弐間 右は町内裏通り町屋松平志摩守様御下屋舗との往還下水ニ懸有之板橋ニて尾州様御屋舗より御懸替被成候」 松平志摩守は出雲母里藩主で、橋は靖国通りに架かっていました。近吾堂の「切絵図」(嘉永4年 1851年)には「朝日橋」とあります。(下掲地図にはいつもの青点線にかえて、明治20年「東京実測図」の水路を重ねました。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 出雲母里藩松平家下屋敷、明治に入り相場師で新宿将軍と呼ばれた浜野茂邸のあったところです。 

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    2. 靖国通りを越えます。左手奥の茂みは成覚寺のものです。右写真はかめわり坂と呼ばれる右岸からのショットです。 

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    3. 靖国通りに面した成覚寺山門です。境内は一段低いところにあり、水路はその裏を回り込んでいました。

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    4. 新宿公園前を横切ります。同公園は太宗寺の裏にあたり、その池は水源の一つとなっていました。

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    5. 太宗寺の東側の通りが水路の起点です。奥は甲州街道(新宿通り)との交差点、そのさらに奥は内藤家下屋敷のあった新宿御苑です。

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2018-12-01 06:22:56 | 蟹川

 「蟹川」を最新の写真を元にリメイクします。蟹川(金川)は神田川の中流域の一支流で、旧大久保村から発し、尾張藩下屋敷(現戸山公園)をへて、早稲田で合流していました。江戸時代は農業用水や尾張屋敷の大泉水に利用され、流末は大下水となりました。昭和に入り農地の宅地化に伴い暗渠となり、自然河川としては消滅しました。当時の流路は文化センター通りなどに残されています。

*  *  *  *  *  *

 内藤新宿、太宗寺方面からの流れを追っての二回目です。前田圃から南に向かって150mほどで、東京医科大前を通る医大通りです。ここで旧東大久保村を離れ、江戸時代に武家地となっていた一角(番衆町)に差し掛かります。医大通りの先に池があり、水源の一つとなっていましたが、出雲母里藩松平家下屋敷のあったところで、明治に入り相場師で新宿将軍と呼ばれた浜野茂邸、のち箱根土地の遊園地「新宿園」を経て、昭和6年(1931年)に宅地造成されました。なお、3.から4.にかけての流路は、日本地形社の「1/3000測図」に描かれたもので、本来は直進していたのが浜野邸が宅地造成された際、付替えられたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 文化センター裏で前田圃を離れ南に向かいます。

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    2. ここはまだ旧東大久保村の範囲ですが、やはり武家地でした。

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    3. 医大通りに突き当たり右折します。右写真は右岸からのショットで、かなりの谷筋なのが分かります。 

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    4. 奥の突き当りを左折、直進して靖国通りまでです。なお、右折前後の道幅の変化に注目です。