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筑土八幡

2018-12-17 06:05:24 | 江戸川・紅葉川

 筑土八幡神社境内の解説によると、創建は1200年ほど前の嵯峨天皇の時代、松の木に細長い旗のような瑞雲がかかり、白鳩が枝にとまったことから、しめ縄を松の木に結い八幡神を祀ったのが最初です。さらに、伝教大師が筑紫の宇佐八幡の土を盛って基礎とし、筑土八幡神社と名付けたとか、文明年間(1469~86年)に上杉朝興が産土神として信仰した、などが書かれています。最後の上杉朝興云々は「江戸名所図会」にもありますが、彼が後北条氏と江戸城をめぐって争ったのは、文明年間より後の16世紀前半のことです。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 筑土八幡宮 同明神社」  タイトルと同様、参道や社殿が二つ並んでいて、向って右が筑土八幡、左が津久戸(筑土)明神。明神のほうは昭和20年に戦災で全焼後、九段下に移転、現在は→ 築土神社となっています。

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    ・ 筑土八幡  大久保通りから階段で上る参道で、中腹の鳥居といい「図会」と同じ構造です。なお、左手には筑土明神参道の名残の坂があります。

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    ・ 筑土八幡  境内は牛込台の東北端にあります。後背地は御殿山と呼ばれ、中世の土塁跡とも、将軍鷹狩りの際の休息所ともいわれています。 

 <御殿山>  「同じく東の方、中山家の藩邸の地其旧地なりとも、或云、万昌院の辺なりとも相伝ふ。太田道灌の別館ありし旧跡なりとぞ。寛永の頃、大将軍家放鷹の時の御設として仮に建置給ひし御殿の地なりといへり」(「江戸名所図会」) 万昌院は筑土八幡の西に、中山家藩邸はさらに西の白銀公園付近にありました。この御殿山を崩して崖下の低湿地を造成したことは、筑土の地名由来とも絡めて、「南向茶話」(寛延4年 1751年 酒井忠昌)などに記載されています。「小日向辺其頃迄は田畑にて候所、安藤対馬守奉行被致、此処山を崩築立候故、今に築土と号す」