神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

江戸川2

2018-12-12 06:47:49 | 江戸川・紅葉川

 「江戸川 神田上水の分流なり、この水路、往古牛込関口の辺にては今より南に寄りて流れしが、承応の頃水路を今の如く改め」(「新編武蔵風土記稿」)「右往古田畑之要水に而古川と唱候処万治年中より江戸川と唱候由」(「御府内備考」) これらの記述や、前回UPの「正保年中江戸絵図」と、その後の「明暦江戸大絵図」、「寛文図」などとの比較から、寛永年間(1624~44年)末頃より、船河原橋(通称どんどん橋)から上流に向かって、順次改修されてきた江戸川が、承応(1652~55年)から万治(1658~60年)にかけて、現在見られるような姿になったと考えられます。

 

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    ・ 「明暦江戸大絵図」  明暦3年(1657年)の大火直後のものとされる「明暦江戸大絵図」の該当個所をイラスト化しました。分譲が完了した個所を薄い茶でカバー、ただ、水田の書き込みがないので、薄いブルーの色分けはありません。

 → 「正保図」では未着工だった江戸川上流ですが、「明暦図」では大曲より上流に及んでいます。橋も大曲・船河原橋間には龍慶橋のみとなり、かわって関口・大曲間に多くの橋が出現、赤城坂下の石切橋の場所にも橋は描かれています。その様子は、江戸川改修の完成形といわれる→ 「寛文図」とほとんど同じですが、ただ、宅地造成は途上にあったようで、赤城明神下の道路や下水は整備されていますが、周辺は分譲はされていない状態です。(なお、石切橋のところで引用した解説プレートの、「寛文年間(1661~73年)に架けられたといわれ」は、こうした事情を勘案すると、承応ないし明暦頃と前倒ししたほうがよさそうです。)

 

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    ・ 神田川  西江戸川橋から下流方向で、ピンクの橋が小桜橋、その先のグリーンが中之橋、さらにその先、一段高い新白鳥橋まで見通せます。左岸の半円柱状のビルは大手印刷会社のもので、大曲の直前にあります。  

 ところで、「正保図」や「明暦図」になく、「寛文図」に初出しているものの一つが小日向馬場です。明神下に間隔の狭い平行な通りとして描かれています。「おそらくは承応、万治のころ此地を新築ありし時、この馬場もなりしなるべし、小石川の馬場と同時のことならんか」(「御府内備考」) なお、馬場の周辺には、低湿地を造成した名残なのでしょう、「泉の井」(「小日向馬場東、大森氏屋しきの内にあり、元生野氏屋しきなり」)、「黄金水」(「小日向馬場の通り、今は森末五郎殿屋敷内なり」)、それに、やや離れて「冷泉の井」(「立慶橋をわたりて西の方なり」)といった名水がありました。